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醜い五線譜 ~狙われた美少女ジャズ奏者~  作者: ウチダ勝晃
第二章 黒い羽根は何処に~さつき探偵社社外遊撃隊登場~
7/20

 悪く言えば、気に障る相手がいる状態での演奏会だったことも手伝って、僕たちはまるで演奏に集中できないまま他の客に交じって「タイガー・ラグ」を後にすることとなった。店に入ってからかれこれ二時間弱、外はすっかり薄暗くなっている。往来をすりぬけるタクシーの景気のいいクラクションに反して、僕や益美、U先生や千尋さんは浮かない顔だった。

「――カレーでも食べてくかあ?」

 弘之が辛気臭いのを取っ払おうと精一杯に言って見せるが、あいにくとそんな食欲と気力は持ち合わせていない。ひとまず、音羽へ戻るU先生のためにタクシーを拾おうと、アスファルトへ一歩踏み出たとき、雑踏の奥からかすかに、

「――鈴置さん」

 と、千尋さんを呼ぶ声がしたので、僕たちは慌てて、舗道へと舞い戻った。

「あっ、さっきの……」

 弘之が指さす先には、先ほどまでタイガー・ラグでステッカーズの演奏を聴いていた、サックスの副長だという沼井という女子学生が、鞄を両の手で持ったまま、目を伏せてろくに顔を見せない状態で立っている。

「チー姉ェになにか御用ですか?」

 この頃の一件も手伝って、益美が殺気立った調子で沼井さんの前へと出る。すると、それまで伏せていた顔を上げると、沼井美咲はまるで酸欠の金魚のように口を二、三度動かしてから、

「わ、わたし、ちゃんと鈴置さんに話がしたくって……その……」

 数歩ばかり近づいてきてくれたおかげで、暗がりではよくわからなかった彼女の表情が明るみになる。薄い非球面レンズのはまった、細いフレームの眼鏡をかけた顔は、どこか神経質そうな第一印象で、前髪をヘアピンできれいに上げた額や頬は、緊張のせいかひどく紅潮している。そして、ガラス越しにみえる双眸と淡い眉毛は、目の前に控えている益美のせいで、今にも泣き出しそうであった。

「益美、よせよ。この人、悪い人には見えないぜ」

「だ、だって……」

 何かしらの底意や敵意を持って近づいてきた、という見立てはまず間違いであることを、沼井さんの顔は如実に語っていた。ひとまず、益美を彼女の前から退かせると、僕は軽く咳ばらいをしてから、

「そ、その……。ここじゃあなんですから、どこかでゆっくり話しませんか? まだ、そんなに遅い時間でもありませんし……ねえ?」

 最初は渋い面を見せていた益美や弘之だったが、様子をそっと見守っていた千尋さんが、じゃあ、そうしましょう、と乗ったのを見ると、右に同じ、と調子よく同意してみせたのだった。

「U先生、どうします?」

「ううむ、ここはじゃあ、ひとつノるとしようかな。第一、この辺のそういう事情は、僕がいたほうがいいだろうし、なあ……」

 そのまま、一人残らず同行が決まると、U先生の案内で、僕たちは神田で一番大きな書店の地下にあるドイツ料理の店の門をくぐった。

「……で?」

 先に運ばれてきたドイツビールとソーセージの盛り合わせですっかりほろ酔いになっているU先生が、半分ほどになった大ジョッキを手にしたまま、ずっと目線をテーブルの木目へ落としていた沼井さんへ声をかける。

「――どうも聞いている話だと、あなた方吹奏楽部はここにおわす鈴置さんを非常に冷遇していた、というじゃないの。で、何の因果か、その冷遇していた側のああたが、こうして冷遇されていた側である鈴置さんと同じジャズ喫茶で演奏を聴いていた……ってえのは、偶然にしては出来すぎてやしないかね」

 酔いのまわっているせいか、先生の口ぶりはまるで警察官のようなまどろっこしさと、粘っこい疑いの思いで満ちている。

「ちょいちょい、先生、いくらなんでもそんな聞き方ないんじゃないっすか?」

「そ、そうよ。そりゃあ、あたしだってさっきはちょっとトサカに来すぎたと思ってるんだけど……」

 弘之と益美も、判官びいきとばかりに沼井さんを擁護する側に回っている。見れば、沼井さんは言葉に詰まって、今にも嗚咽交じりに感情を爆発させてしまう寸前ではないか。

 ――弱ったなあ、こりゃあどっちに回ればいいんだ。

 あのまま路上で、周りへ不穏な空気をふりまかせておくのが嫌で場所替えを提案したものの、僕にも何か妙案があるというわけでもなかった。さらに始末の悪いことに、ここへ案内したU先生はあっという間にジョッキを空にすると、通りかかったウェイターへお代わりを所望しだした。とてもではないが、この前のように場を穏便に収めてくれそうな感じはない。ことの次第をどうするか困り切っていると、

「――ねえ、沼井さん。あなたひょっとして、吹きたいと思ってる曲と、実際に吹ける曲が違うんじゃありませんか」

 千尋さんの一言が、その場を凛とした空気で一瞬のうちに満たしてしまった。

「……どうして、そう思ったの?」

 沼井さんが、恐る恐る唇を開く。

「だってあなた、演奏中にずーっと、テナーサックスの横村啓を見てたじゃない。あれは二枚目を見てる目じゃなくって、憧憬の念でプレイヤーの技術を眺めているような目に見えたんだけど……違うのかしら」

 指先でつまんだままだった白いストローを、千尋さんはそっと手放し、オレンジジュースのグラスの中へと沈める。

「……さすがですね、鈴置さん」

 運ばれてきたレモネードのグラスについた露を指で払っていた沼井さんが、ぼそりと呟く。そして、彼女は膝の上にずっと載せていた鞄の錠を上げると、中から取り出したウォークマンをイヤホンごと千尋さんの手の上に載せた。

「――聴けば、私のことがわかります」

 彼女の言葉に従い、おそるおそる一覧を確認しだした千尋さんは、ある事実に気づくと両目を見開いて、

「エリントン楽団の『cotton tail』じゃないの――」

「おわかりに、なりました? ほんとは、私もジャズ党なんです。でも――」

 しおれていた花が急に元気を取り戻したと思った矢先、沼井さんはまた、しょげこんでしまった。

「――おおかた、部活の中でヒラからパートの副長へアガったのを手放すのが嫌ンなった、ってなとこだろう。違うかね?」

 いつの間にやら運ばれてきていたガーリックトーストを豪快にかじりながら、すっかり出来上がったU先生が意地悪い質問を投げつける。

「先生、あんまりお飲みになると体に障りますよ」

 千尋さんが少し声を張って、強い口調でU先生をはねつける。途端に、焦点の定まらない双眸をぼんやりと動かしていた先生が総毛だったような顔をして、ガーリックトーストをかごの中へ落としてしまった。

「あんな大きな集まりの中にいたら、動くのが簡単じゃないのはよくわかります。――沼井さん」

 千尋さんがウォークマンからイヤホンを外し、両の手で沼井さんの手を覆った。

「ごめんなさい、ずっと気づいてあげられなくって。――これから、あまり大っぴらには動けないかもしれないけど、同じ音楽が好きな者同士として、仲良くしてもらえますか?」

「す、鈴置さん……」

 千尋さんの神々しいまでの存在感と自分へのやさしさに感極まって、沼井さんは半泣きになっている。

「健壱ィ、やるじゃんか」

「まさか、こうなるとは思わなかったなあ……」

 小声で耳打ちしてきた弘之に、僕は事態が思いがけずに好転したような、そんな気がしてならなかった。すっかり融和的なムードにつつまれ、再びU先生のおごりで夕食を楽しむと、千尋さんと沼井さんは仲良く、U先生と一緒のタクシーへ便乗して、夜の神保町を出立したのだった。

「――やれやれ、って感じだなあ」

 弘之は小石をつま先で蹴りながら、千尋さんに新たなる味方が出来たことを益美ともども喜んでいた。

「オレたちみたいなよその学校の連中よりは、近場にああいう人がいた方が鈴置さんには心強いだろうよ。よかったなあ、益美」

「ほんとね。あー、よかった。これで心置きなく、また学生演劇を見に行ける……」

 益美が素直なところをもらすと、そりゃあないだろうよ、と、僕と弘之がつっこみ、夕闇の中に突如として笑いが沸き上がったのだった。


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