①
新学期が始まってから最初の金曜日、放課後に教室で弘之や益美と他愛もない雑談で盛り上がっていた僕は、駆け足で入ってきた山浦先生に呼びつけられた。
「高津、お前、U・Kという人を知っているか?」
公会堂の一件を間近で見ていたのだから、知らないわけがない。もちろん知っています、と答えると、山浦先生はじゃあ、本当だったのか、とひどく驚いていた。
「いやあ、いきなりやってきて、自分はさつき探偵社の名代で来た者だから、曾野辺や白石にも会わせろとうるさくてな……。酒臭いから、てっきり酔っ払いのたわごとだろうと思っていたんだ」
職員室の隣にある応接室に通しておいたから、とだけ告げると、他に用事があるのか、山浦先生はそのまま足早に去って行ってしまった。なにごとだろう、と不思議に思いつつ、三人で応接室まで向かうと、U先生が出されたお茶をおいしそうに飲んでいるところへ出くわした。
「やあ、皆の衆、久しぶりだね」
言われてみれば、かすかにビールと煙草の匂いがするが、U先生は至って素面だった。
「どうしたんですか、いきなりやってきて……」
僕たちが向かいへ腰を下ろすと、U先生はちょっと面倒なことになってね、と前置いてから、
「二、三日ばかり前から都内に泊まり込んで、知ってるテイルズのファンの面々にいろいろと事情を聴いていたんだが……もしかすると、鈴置さんにあんなことを仕掛けたのは、古参のファンかもしれないんだ」
「ちょ、ちょっと、それ、どういうことなんですか?」
今まで僕や益美、弘之の中で共有されていた犯人と思しき人々のイメージが、一瞬で崩れてしまった。古参のファンが仕掛けた……? いったい、どういうことなのだろうか。
「君たちもあの日、会場にいたからわかると思うが……テイルズのジャズメンはトシこそとってるが、なかなかの二枚目だ。ということは、若かりし頃は相当モテた、ということになる」
「そりゃまあ、そうなるでしょうねえ」
弘之の相槌に、だからこそ問題なのだよ、と、U先生は力強く力説する。
「ということは必然的に、それをおっかける女性ファンが多く存在する、ということになりはしないかい」
確かにその通りだ、と思った。よくよくあの日のことを思い返してみれば、会場は年配の女性で占められていたではないか……。
「もっとややこしいのは、昔からテイルズの男どもを巡って、女性ファン同士での醜い争いが頻発しておるということなのだよ。――で、こいつはさっき、銀座のライオンで一杯やりながら、その手の情報に詳しい芸能通の知人からもらった新聞のコピーなんだがね……」
右隣に控えていた小ぶりのボストンバックから、文庫本ほどの厚さの紙束を出して見せると、U先生はそれをテーブルの上へ乱暴にたたきつけた。
「――昭和三十二年から三十五年までの三年間、テイルズの女性ファンによるバカ騒ぎを報じた新聞や雑誌の記事だ。呆れてものも言えないぜ」
「ほんとだあ。――ひええ、強烈だあ」
ぱらぱらとコピーをめくっていた弘之がため息交じりに戦慄く。気にはなったが、なんとなく覗くのが怖くなったので止しておくことにした。
「で、こっからが本題になるのだが……。どうも、鈴置さんの加盟が古株の女性ファンたちの間で顰蹙を買ってるらしい。まァ、わからんでもないがね。一種の疑似恋愛的な対象としてテイルズを見ている連中からしたら、鈴置さんは興ざめのモトっちゃあモトだからねえ。だが――」
それまでのんびりした調子で話を続けていたU先生は、背筋をシャンとただすと、人差し指を天を仰ぐように立てて、
「百歩譲って、頭ン中でそういうことを思うのは自由だとしても、不満から来た怒りの矛先を現実に向けるのは断じて許されることではない。どう思う、諸君」
U先生の発言に異論があるわけもなく、僕を筆頭に、三人そろって返答して見せると、U先生は満足がいったのか、しきりに頷いてから、
「よかったよかった、これでもし、そういうのがアリだと言い出したら、オレは現代の若者の道徳心のなさを嘆くところだったよ――ってえのは冗談として、だ。そうなってくるとまた面倒なことがいくつか出てくる」
「面倒なことって……?」
身を乗り出して尋ねる僕に、それはだね少年、とU先生も身を乗り出して話し出す。
「そのファン連中のバアさんってのは、結構毛並みのいい家柄の出が多くってな。もれなく、同じような家柄の連中と結婚したりしてるから……」
「――そうか、お偉いさんの奥さんだったりすると捜査がしづらいのか」
手を打ちながらつぶやいた弘之へ、U先生はイグザクトリィ、と流暢な発音で受け取る。
「天下御免の探偵社とて人の集まり。物の弾みでお偉いさんの奥方をしょっぴいてごらん、どうなるかわからない。ってなことで、水面下でオレみたいな遊撃部隊がスイスイ動いてるってわけさ。――あ、なんでももう一つの線で調査をしてるとは言ってたが……なんじゃったかいな」
もう一つの線、というのはおそらく、この前プランタンで千尋さんが語ったところの「線」なのだろうが、U先生はそこまで熱心に話を聞いていなかったのか、まアいっか、と早々に切り上げてしまった。
「てなわけで、しばらく音羽の安旅館に仮ぐらししてるから、なんかあったらここに連絡してくれ。あ、あともう一つ――」
手帖から一枚はぐって、そこへ旅館の名前と、部屋の番号などを書き添えて僕へ渡すと、U先生は立ち上がってから、人差し指を立ててこう言い放った。
「絶対に、鈴置さんを孤独にしちゃあいけないぞ。一人にするのは構わんが、孤独にするのだけはアカン。わかったね?」
「――わかりました。ここは僕らに任せてください」
「その言葉を待ってたんだ。じゃアあとは頼んだぜ、遊撃隊……!」
と、そこまで格好をつけておきながら、飲みすぎたせいで上がってきたゲップを鼻から出すと、U先生はしまらないなァ、と嘆きながら、恥ずかしそうに頭をかくのだった。そして、善は急げとばかりに、益美に頼んで千尋さんを呼び出してもらうことにすると、僕たちはU先生の呼んだタクシーに便乗して学校を出た。
「――で、どうだった?」
助手席でぼんやりと景色を眺めていたU先生が、携帯を握りしめていた益美へ背中越しに声をかける。
「ちょうど学校を出たとこで、神保町のジャズ喫茶まで移動してるとこだそうです」
「神保町……。ははあ、『タイガー・ラグ』だな」
店に心当たりがあるのか、U先生は店名をそらんじて、
「よっし、オレもちょいと顔を出しておこうかな。今後、なにかしらの形でこの事件の捜査にゃァかかわるわけだ。改めてこの前のワビも入れておきたいしねえ」
「――じゃ、ついでに席料もお願いします。今日はこのあと、生バンドの演奏があるそうなんで」
「な、なんだってえ」
さすがにそれは計算外だったのか、バックミラー越しにU先生が百面相をしてみせる。僕と弘之はそれをたまたまのぞき込んでしまって、神保町まで腹を抱えて笑い通しだった。
法条さんのところを尋ねて以来(「第三高校殺人事件」参照)、約半年ぶりに足を踏み入れる神保町の古書街は、どこの軒先からもインクと紙のにおいが漂ってくる、いつも通りの神保町だった。
専門ごとに分かれている書店の地味な看板に交じってそびえたつ、原色がけばけばしい「TIGER RAG」というネオンサインがすでに躍っている雑居ビルの地下へ入ると、三歩も進まないうちに、胸の弾むようなジャズのスイングが扉の存在を無視して僕の耳へと飛び込んできた。
「先に連れ合いが来ているんだがね、鈴置さんという方はどちらに……?」
まだバンドが出るまで時間があるのも手伝って、「タイガー・ラグ」の広い店内一杯に、クラリネットのソロが際立つ曲が大音量で流れている。それに耳をそばだてる客たちを邪魔しないように、U先生がそっと、レジスター脇へ控えていたボーイへ尋ねると、話が通してあったのか、ボーイはこちらです、と小声で返答してから、僕たちを入り口からほど近い、「談話室」と描かれたすりガラスのはまった戸の前に案内した。
中へ入ると、数組分のボックス席が並ぶ談話室の片隅で、オレンジベースのクリームソーダを飲んでいた千尋さんが、僕たちの姿に気づいて、嬉しそうに手を振った。
「あら、U先生もいらしたんですね」
紺のセーラー服の襟元に結わえた真っ赤なスカーフが、腕の動きにつられて上品に揺れる。ひとまず向かいへ腰を下ろして、後ろで控えていたボーイに注文を伝えると、僕たちは千尋さんから、今日の出演者のことを詳しく教えてもらうことにした。
「――てえと、今日出てくるのは大学生のバンドなのかい」
コーヒーをすすっていたU先生が、出演者の情報を聞いて少し驚く。
「そうなんです。帝応大の『スリー・ステッカーズ』っていうコンボで、ピアノとクラリネット兼任の人がすごくうまいんですって」
「あら、ピアノとクラリネットって、チー姉ェとおんなじじゃないの。――おばさん、最近どう?」
「相変わらず、元気よ。――あ、うち、母がピアノ教室をやってるんです。私は、もっぱら我流のジャズピアノだけですけどね」
「ほほう……。んで、お父さんはなにを?」
U先生のさらなる問いかけに、千尋さんは何のてらいもなく、
「二年前から、東西銀行の支店長代理をしてるんです。あまり、家庭サービスはよくなくって……」
……まさに、絵に描いた通りのお嬢さんだなあ。
……だなあ。
迷った末に頼んだ普通のクリームソーダをすすっていた僕と弘之の間には、言葉こそ発されなかったが、こんなアイコンタクトが交わされていた。思い返せば、テイルズの歴戦の勇者たちがすっかりメロメロになっていたのは、彼女が我流とはいえ音楽に十二分に触れるだけの文化的な資本を支えられる、育ちの良さというやつのためなのかもしれない。
そんな風にして談話室でのどを潤しているうちに、いよいよ開演の時間となった。U先生のポケットマネーのおかげで、売れ残っていた特等席へと腰を下ろすことが出来た僕たちは、舞台の上で楽器の支度をしているスリー・ステッカーズをなめるようなポジションで、演奏が始まるまで低い声音で雑談を楽しんでいた。と、
「――あらっ」
もうそろそろ司会によるメンバー紹介があろうかという頃合いになって、千尋さんが小さな声を上げた。何事だろうと、振り返って平土間の座席へ目をやると、千尋さんとよく似た色味のセーラー服が、ピンスポットのぼんやりとした明かりの下に明るみになった。
「――知ってる方ですか?」
小声で尋ねると、千尋さんは顎をしゃくってから、やや恐れをなしたような顔で、
「サックスパートの副長の、沼井美咲って子」
「サックスパート……ってことは、吹奏楽部の?」
益美が重ねた質問に、千尋さんはええ、と力なくつぶやく。
「なんだ、知り合いなら声をかけておいでよ。せっかくだ、こっちに誘うのもよし……」
「U先生!」
事情を知らずに提案をしたU先生は、益美の落とした小さな雷に、椅子から転げ落ちそうになってしまった。が、間一髪のところで済むかと思われたかわりに、テーブルの上に置いてあったベークライトの灰皿が、派手な音を立てて床にたたきつけられてしまった。
――しまった!
僕はこのとき、座るポジションを直していた沼井さんが物音に気づき、どうしようかと困惑していた千尋さんと目が合ったのを見逃さなかった。一瞬のうちに驚きと、困惑が混じったアイコンタクトが、交流のように入れ替わり立ち替わり、二人の間を駆け抜ける。
「――白石くん、いったいどういうことだい」
うっすらと空気を悟ったのか、U先生がそっと耳打ちすると、益美はおせっかいにも、本人のいる前で事のあらましを語って見せる。
「す、鈴置さん、すまなかった。なんの事情も知らなかったばかりに、うかつなことを……」
「い、いいえ。仕方ないですし……」
ひたすらに気まずい空気がその場を支配した。無情にも、程よい塩梅に調整されたPAからは、いつの間にか終わっていたメンバー紹介に続いて、「フライミー・トゥー・ザ・ムーン」が流れ出していた。