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いったい、それからどれくらいの時間が経ったのだろう。有線放送の音楽がクラシックからジャズへと切り替わって、いつの間にか客足もまばらになっていた。
「……じゃあ、吹奏楽部は自分から辞めたんじゃなくって、退部を促されたからだったの?」
益美が聞くと、千尋さんはレモンティーの入ったカップから口を離して、ええ……と、力なくつぶやいた。
「でも、ひでえ話だよなあ。人数が足りないからって急に入るように頼まれたのによお」
クリームソーダのグラスから抜き取ったストローを煙草のように咥えてひくつかせていた弘之が、渋い表情を浮かべる。
「わたしも軽率だったんです。何も考えないで、ふらりと入ったんだから……」
そう語る千尋さんへ、益美が援護射撃をかける。
「だいたい、本人が言ってるのに無理を押すほうが悪いのよ。チー姉ェのジャズクラリネットは独学なんだもん」
「えっ、本当ですか」
「そうなんです、あれ、全部独学で……」
カップの縁を指でなぞりながら、千尋さんは話を続ける。
「父の持ってたジャズのCDを聞いて育ったんですけど、わたし、クラリネットのソロになるとすごく喜ぶ子だったそうなんです。ベニー・グッドマンとか、日本なら鈴木正治みたいな、ああいう演奏がお気に入りで、あんな風に演奏できたらいいな、と思って、買ってもらったクラリネットを見よう見まねで吹き出したら――」
「とうとう、本物のジャズプレイヤーになっちまった、ってわけっすね」
弘之の言葉に、千尋さんはちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめた。誰か特定の師匠がいるわけでもないのにあそこまでの演奏が出来るというのは、天賦の才能としか思えない。
「ただ、うちの部は演目がクラシック一辺倒だから、わたしのジャズっぽい吹き方が、そういう風に吹きたくても吹けないっていう、うっすらと部の中に漂っていた不満へ火を点けちゃったみたいなんです。こっちから声をかけても、みんな素っ気ない態度だし、ひどいときなんか、わたしだけいつまで待っても楽譜が渡って来なかったりして……」
「おいおい、顧問はなにしてたんだ、ガン無視かよ」
あまりにもひどい扱われ方に、とうとう弘之が声を荒らげた。だが、それに対する千尋さんの答えは、いささか残酷過ぎた。
「肝心の顧問がジャズ嫌いで……。先生のそばでトラブルがあっても、全然取り合ってくれなかったんです」
「なんだって――」
部活を取り仕切る以前の問題だ、と思った。そうなると、部活の中には千尋さんの味方など皆無、ということになってしまう。
「でもよお、辞めた人間に対して、そこまでするようなことってあるのかあ?」
「実は、そこが問題なんです。――どうも、正式に退部届が受理されていないみたいで、部の方からしたらサボってるうえに、勝手にジャズバンドへ入ったことになってるみたいなんです」
そりゃまたどうして、と、弘之が身を乗り出して尋ねるので、千尋さんはやや引き気味になって、
「それがよくわからないんです。たまたま、通りかかった同じパートの子に事情を聞かれてやっとわかったくらいなので……」
「うーん、こりゃあ増々変なことになってきたぞ……」
いつの間にか、こちらの深刻な話まで弘之の舵取りに任せられているせいで、あまり話に深刻さがないのがいささか気になったが、千尋さんが置かれていた身の上が相当に重いことだけは確かだった。
「どうする? 今度の件、悠一さんに相談してみる?」
益美がすっかり冷えたウィンナコーヒーを飲み下してから提案してきたので、僕と弘之は断る理由もなく、そうしよう、と同意してみせた。
「あんなポンコツ刑事がいる丸の内署なんかにゃ任せきれねえしなあ。それこそこの後にでも、銀座まで行って、ハナシをつけてこようぜ」
「そうよそうよ! あんなヒドいオツムのに任せたら、また冤罪被害者が出そうだもの……」
すっかり、山藤悠一を祭り上げる雰囲気で一杯になった二人をよそに、僕と千尋さんはやや困惑気味に笑うばかりだった。
益美と千尋さんが同じ方向へ乗り込んだのを見届けて、途中まで弘之と一緒に帰ると――話をつけるのは、探偵社がすでに閉まっているのに気付いて断念することになったのだ――、家に着いた頃には八時をすっかり過ぎていた。父さんが出張で三日ばかりいないこともあって、家の中はひどく静かだった。
「――うまいこと、事件が片付けばいいんだけどなあ」
道すがらに買ったコンビニ弁当とカップの味噌汁の夕食を摂りながら、僕は一日を振り返り、嘆息した。千尋さんの話を聞く限りでは、今度の凶行は部活の中にいる彼女を快く思わない誰かによる過ぎたいたずらということになる。だが、僕にはどうも、事件の根っこにあたる部分がもっと深いような気がしてならなかった。
そう思ったきっかけは、部の中を覆っている空気がいくらなんでも統一されすぎている、と感じたからだ。クラシック一辺倒なのだからちょっとしたオーケストラほどの人数、だいたい三十数人はいると仮定しても、その下には実際に演奏する側には回れない補欠要員やマネージャーのような連中もいるはずだから、少なく見積もっても五十人弱ぐらいはいる計算になる。
そうなれば、いくらなんでも数人ぐらいは千尋さんの味方へ回って、これはいくらなんでもおかしいと校長や教頭、飛び越して教育委員会へと告発するような人間がいてもおかしくないはずなのだが、彼女の話を聞く限りでは、そんな義侠心にあふれた部員がいる様子はまるで見当たらない。
「よっぽど、顧問がおっかないのか……?」
シャケの切り身を宙ぶらりんにしたまま呟いてはみたが、どうも現実味がない。せめて、部活の中の様子でも分かればいいのだが、よその学校の事ではかなうわけもない。これはひとつ、春休みが明けるのを待つしかないかもしれない、と悠長なことを考えていると、ポケットに入れてあった携帯電話が鳴った。
「はいもしもし――」
着信相手も確認せずに電話を取ると、耳なじみのある声が飛び込んできた。
「こんばんは、山藤です。今、よろしいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
悠一さんからの電話に少し驚きながら、味噌汁のカップへフタをしてその場を離れる。
「さきほど、テイルズの原さんと、警視庁の方からほぼ同時に依頼を受けましてね。今度の事件に関しては、我々さつき探偵社が調査を行うことになりました」
待ってました、と言いたくなるのを必死でこらえて、
「――よかった、あの刑事さんたちだったらどうしようと思ってたんです」
「まあまあ、そう言わず。そんなにいじめちゃ可哀そうですよ」
悠一さんにたしなめられて、少しだけ自分の発言を恥じた。
「――で、ひとつ健壱さんにお願いがありまして、それで電話したんです」
「ぼ、僕にお願い……ですか?」
少し身構えてから尋ねると、悠一さんはなに、簡単なことなんですがね、と前置いてから、
「出来うる限りでいいので、白石さんや曾野辺さんにも協力していただいて、鈴置さんと一緒にいてあげて欲しいんです。きっと、心細いでしょうから……」
「わかりました。なるべく、会える機会があったら一緒に過ごすようにします」
そんな具合に、ひとしきりの打ち合わせを済ませると、僕は電話をポケットへしまい込む。
――事件が動き出したぞ。
感慨深い思いが、心地よい渦のように僕を包み込んだ。