③
U先生と金沢先生の処置が早かったおかげで、瀬尾さんは運ばれた先の病院での胃洗浄も手伝って、無事に一命をとりとめた。その知らせを電話で受け取ったテイルズの面々は、安堵から来る疲労感に負けて、長椅子の上でぐったりと伸びてしまった。
「よかった――。先生、これもあなた方の処置が早かったおかげです」
辛うじて立っている原さんが、U先生と金沢先生へ頭を下げる。それに対して二人は照れくさそうに、
「なに、大したことじゃありませんよ。商売柄、こういうことには通じておりますから……」
推理小説家だけあって、犯罪に関する知識は人よりたけているらしいU先生が、目をそらしながら答えると、まあ、手伝っただけですから……と、金沢先生も同じような態度で返答をする。似た者同士、という印象に、思わず笑いそうになるのをこらえていると、そのやりとりをじっと眺めていた丸の内署の刑事さんたちが、徐に立ち上がって、先生たちのそばへやって来た。
「いやはや、人命救助へのご協力、感謝いたします」
背が低いほうの犬井という目つきの鋭い刑事さんが、恥ずかしそうに笑うU先生へ手を差し伸べる。と、その時だった。
鈍い金属音が部屋にこだまして、遅れてU先生のえっ? というトボけた声が、一座の関心を一気に集めることとなった。U先生と金沢先生の腕には、ニッケルメッキのよく効いた手錠が綺麗にはめられている。
「――ふてぇ神経してやがるなあ。どう思う山岸、今度のホシは……」
丸眼鏡をかけた山岸刑事へ犬井刑事が質問を投げると、山岸刑事はそうねえ、と相槌を打ってから、
「わかりやすくていいんじゃないかねえ。なんてえのか、自分でコロそうとしておいて、助けようとするってえのが奇妙な気がするが……その辺はじっくりと取調室で聞こうじゃないのさ」
「ちょ、ちょっと待った! なにかいダンナ方、オレたちが瀬尾さんを殺そうとしたってのかい」
金沢さんがゆでだこのように上気しながら反論すると、犬井刑事がやかましいぞっ! と激しくシャウトした。
「とぼける気ならこの場で教えてやるよ。物書きってわりにゃあ、あまりにも手際が良すぎるんだ。これはどう考えても、犯人でないと出来ないことだ」
犬井・山岸の両刑事ににらまれて、U先生と金沢先生はすっかり顔面蒼白になっている。このままでは、テイルズにとっては命の恩人である二人が犯罪者として晒し者になってしまうではないか。
……ちきしょう、こんな時にあの人がいたらなあ。
頭の奥で、かつて僕を窮地から救い上げてくれたあの人の顔がちらつく。こういう時にこそ、あの明晰な頭脳が入り用なのに――。
「――その二人は犯人じゃないと思いますよ」
いつの間にか開いていたドアから、覚えのある声が飛び込んで来る。凛とした佇まいの、自信に満ちた上品な声。
「悠一さん!」
「――やあ、健壱さん」
そこに立っていたのは、現れるのを切に願っていた私立探偵・山藤悠一その人だった。いったい、どうして彼がここにいるのだろう、と不思議に思っていると、廊下を急ぐ足音が三人分、一気に部屋の中へとなだれ込んできた。
「探偵長、早すぎますよ!」
息も絶え絶えに入ってきたのは猫目さん。そして、ソフト帽をうちわ代わりに扇ぎながら現れた関刑事と墨山警部補の二人に、僕や益美はひどく驚かされてしまったが、丸の内署の刑事二人は、現れた本庁勤務の二人にかなり面食らっている様子だった。
「せ、関! どうしてここに……!」
眼鏡越しに関刑事を見つめる山岸刑事に、当の本人は軽く咳払いをしてから、
「別件の帰り道に山藤くんの車に乗っけてもらっていたんだが、無線がたまたま、丸の内署の通信を拾ってな。お前らの名前が出たから、心配になってやって来たんだよ」
「――本庁でも有名なんだぞ、お前ら迷探偵の活躍ぶりは……!」
墨山警部補の睨みに、犬井刑事は小さく悲鳴を上げると、すぐにU先生と金沢先生の腕から手錠をはがしてしまった。
「――災難でしたね、お二人とも」
「まったく、日本の警察もオチるとこまでオチたもんだねえ。――で、ああたはどなた?」
U先生の問いかけに、悠一さんはアルミの名刺入れから真新しいのを一枚出してから渡してみせる。
「き、君かあ、あの第三高校事件の殊勲者は……!」
名刺を握ったまま、相手が高名な私立探偵であることに気付いて驚いているU先生に、悠一さんは照れくさそうに頭を掻いてみせる。
「ちょっとばかり、世間に恥をさらしております。しかしお二人とも、大手柄でしたね。アーモンド臭は有名ですけど、オレンジの臭いで青酸毒とお見抜きになったのですから……」
「なあに、ダテに犯罪小説でメシは食ってないからね。――申し遅れました、U・Kです、以後よろしく」
奇術師がカードを触るような手つきで名刺を差し出すU先生は、悠一さんに褒められたせいか、どこか得意そうな顔を犬井刑事と山岸刑事へ向け、どっぷりと優越感に浸っていた。
「――さて、今度はこちらのお二方に、事のあらましを伺いましょうか」
いったい、墨山警部補や関刑事がどんな具合に吹き込んだのかわからないが、悠一さんが犬井刑事と山岸刑事を見る目は、かなり冷ややかだった。
犬井刑事が説明を終えたとき、彼の背広の下の青いワイシャツは乾いている場所が見当たらないほど、ひどく湿り気を帯びていた。
「――なあるほど、そういういきさつで、このお二人に手錠をかけたのですね」
「そういうわけです……」
そばで同僚の今にも泣きだしそうな顔を眺めていた山岸刑事が助け舟を出す。いつもと変わらないはずの悠一さんの顔が、ちょっとだけ恐ろしく見えた。
「まあ、決して道理が通っていない話ではありません。プレゼント用の箱へ入っていたチョコレートを瀬尾さんが食べる。毒があたって倒れだす。それをすかさず、毒に通じている作家の先生方が介抱する、見事に助かる。そう来れば誰だって、お二人を犯人と疑うのは致し方ないでしょう。ですが……」
そこで再び、悠一さんの顔が曇る。一拍の間ののちに吐かれた、それを警察官がやっちゃうのはどうかと思いますがねえ、という蜂のひと突きに、その場の空気が一段と冷えた気がした。
「そもそもアレでしょう。件のモロトフは鈴置さんの箱に入っていたのを、彼女が苦手な銘柄だというのを知っていた瀬尾さんが食べちゃったのが事の起こりなわけでしょう。そんならわざわざ、他人のプレゼント箱へ紛れ込ませるような手を使わず、直に送るでしょうよ。鈴置さん好みの品に仕込んで……ねえ?」
猫目さんの援護射撃で、丸の内署の刑事二人はますます窮地に追いやられてしまった。両頬の血の気はどこかへ消えて、ぬったりとした汗だけが玉のように吹き出ている。
「――そうなると、今度の事件の真のターゲットはチー姉ェ、ってこと?」
場の空気を変えるつもりだったのか、困ったような顔をして様子を見守っていた益美がぼそり、と呟く。途端に、周囲の視線が悠一さんに睨まれている両刑事から、クラリネット奏者の千尋さんへと移るのがわかった。
「おい益美、滅多なことを言うもんじゃねえぞ」
「……しかし、ない話ではないと思うがねえ」
気まずさをかき消そうとした弘之の努力を、U先生が見事に踏みにじる。
「たまたま鈴置さんの嫌いなものに仕込んであったから助かったようなものの、事実として、彼女の元に毒入りのチョコレートが届いたわけじゃないか。これをターゲットになっている、と言わずして、なんと言うんだね」
「じゃあ、瀬尾さんは私の身代わりになって……?」
自分を囲む目線に耐えかねてか、千尋さんがおもむろに口を開く。彼女の今にも泣きだしそうな表情が目に留まったのか、U先生は頭を抱えて自分の失言を詫びた。だが、謝ったところでそう簡単に場の空気が入れ替わるわけもなく、楽屋の中はまるで靄でもかかったようになってしまった。
結局、その日以降に予定されていた公演は中止と決まり、関係者への詳しい事情聴取はまた後日、という形となった。公会堂から少し離れた駐車場で、悠一さんの計らいで呼んでもらった探偵社の車に分かれて乗りつけると、僕たちはU先生と金沢先生の乗った車が丸の内方面へ遠ざかってゆくのを見送ってから、帝国ホテル前をかすめるようにして出発した。
「――ごめんなさい、せっかく来てもらったのに、こんなことになってしまって」
後部座席の右側に縮こまるようにして座っていた千尋さんが、申し訳なさそうに呟く。すかさず、隣にいた益美が、
「チー姉ェのせいじゃないわよ。んもう、気にしたら負けよ。だいたい、あんなのを送り付けてくる方が悪いんだから……」
そこへ、助手席でのんびりと窓の外を眺めていた弘之が振り向くなり、そうですよ、と付け加えてくる。
「なあに、僕らにはあの山藤悠一がついてるんです、きっと、犯人はすぐに見つかります。だから、気を落とさずに――」
だが、弘之の励ましもむなしく、千尋さんは肩を震わせて頬へ二筋の涙を伝わせている。その様子をバックミラー越しに見ていた探偵員の女の子が、どこか落ち着く場所にでも……? と機転を利かせてくれたので、僕は迷わず、新宿駅へ回してほしいと頼んだ。こういうときは、温かいコーヒーとケーキが一番の救いになるはずだろう、そう思ったからだった。
悠一さんへは僕から連絡するから、とだけ伝えて、車が銀座に向かって走ってゆくのを見送ってから、僕たちは千尋さんを伴って、プランタンのドアをくぐった。
「チー姉ェ、なんかとる?」
いくらか落ち着きを取り戻した千尋さんはメニューを開くと、隣に腰かけていた益美と一緒に何を頼むか検討しだした。そして、通りがかりのボーイを呼び止めて注文を済ませると、グラスに入ったレモン水をなめながら、僕たちは瀬尾さんの一件の衝撃を少しずつほぐすように、最初は他愛もない話から、そして、徐々にくだらない話へと会話のテンポを上げていった。
「――でよお、せっかく録音してたのに、肝心の投稿ハガキのオチがテープのリバースの部分にあたっちゃって、ずっと気になる、気になるって言ってたんですよ」
「よせよ、恥ずかしい……」
ちょっと前に、木場美沙緒の番組を録音して聞こうと、父さんの持っているラジカセを借りたときの失敗談を自分のことのように話す弘之に、その場がドッと沸き上がる。運ばれてきたコーヒーや紅茶も、奴の話の前にしてはすっかりぬるくなってしまう。
「そういえばチー姉ェ、こないだ言ってなかったっけ? ほら、テイルズの誰かが昔の録音をCDにしようとしたのを失敗して、買ってきたCDを全部オシャカにしちゃった、って」
「ああ、それなら原さんよ。すごいのよ、カセットに入ってないテープなんだから……」
オープンリールテープのことなのだろうか、千尋さんが両の人差し指で宙に大きな丸を描いて見せる。長い歴史を持つジャズバンドのことだ、きっと、全部ではないだろうけれど、そういう貴重な資料がたっぷりあるのだろう。そんなものを近場で垣間見られるのだから、千尋さんがなんとも羨ましい。
「前に聞いた話だと、進駐軍相手に演奏してたころの録音もあるらしいのよ。テープじゃなくってレコードらしいから、保管が大変なんですって」
「し、進駐軍……!? テイルズってとんだ老舗らしいぜ、健壱ィ」
「わかってるよ。――でも、そうなると尚更、今後の動きが気にかかるなあ」
そこで我に返って口をふさいだが、一足遅かった。再び悲痛な目でうつむく千尋さんと、殺意に満ちた益美の瞳、呆れかえったような弘之のドングリ眼に、僕はすっかり縮こまってしまった。
「やっぱり、狙われてる。わたし、あの人達に狙われてるのよ……」
「ちょ、ちょっと、それどういうことよ」
あの人達、という言葉が気にかかったのか、益美が食いつくように千尋さんへ迫る。
「――もしかしたら、とは思っていたんだけど、あの男の人の言葉で確信したの。あれはわたしをいたぶろうとして、あの人達の誰かが仕組んだ毒なのよ」
「千尋さん、いったい誰なんです。『あの人達』っていうのは……?」
僕の問いに、千尋さんはしばらくためらいがちに口を動かしていたが、やがて決心がついたのか、か細い調子でこう語った。
「――私を追い出した、吹奏楽部の人達だと思うんです」
混みだしてきた店のドアが、冷ややかなベルを鳴らして勢いよく開いた。