①
入口でモギリに切符を渡すと、僕と弘之は緊張がとれたせいか、指定された席に腰を下ろすなり、盛大なため息を吐いてしまった。日比谷公会堂という場所の空気は、少なくとも僕や弘之が吸うにはためらわれるような何かが含まれているのだ。
「なによ二人とも、だらしないわねぇ」
プログラムを開こうとしていた益美が、クリーニングから戻ったばかりのブレザーの袖をはためかせながら、いつも通りにほどよくよれた僕らの制服に向かって渋い目を向ける。春休みだというのに、まさかこうして引っ張り出してくることがあるとは思わなかった。
「しゃあねえだろ、こういう場所に慣れてねえんだからさあ。――誰かさんみたいに、休みとあれば観劇三昧のお方たァわけが違うんだよ。なあ?」
「ぼ、僕に振らないでくれよ! ――ほら、他のお客さんたち、すっごいお金持ちっぽいし……」
僕の苦し紛れの言い訳を、益美は少しずつ埋まりだしている座席を一べつしてから、まあ、無理もないわねえ、と、あっさり受け入れてくれた。
「全盛期のファンはもう、立派なおじいちゃん、おばあちゃんになってるんだもんねえ。――まあ、こういうのってよくある話なんだけど……」
嫌味な返しに、弘之はあからさまな舌打ちをしてから、入口でもらったプログラムの表紙に踊る、「テイルズ&フラッツ 第七三回定期演奏会~スイングの夕べ~」の文字、そして、前回の演奏会での一コマを写した写真へ目を落とした。
写真は、クリーム色をしたダブルの背広を着こなした見事なまでの銀髪と白髪のバンドマンたちが、優雅なたたずまいで各々の担当する楽器を抱えているところを上手く切りとったものなのだが、よく見ると、その銀白の舞台上にただ一つ、瑞々しいまでの濡れ羽色をした黒髪の少女がたたずんでいる。
男だらけの老舗ジャズバンド・テイルズ&フラッツにこの一月から加盟した最年少メンバー、クラリネット担当の鈴置千尋。ついでに言えば、彼女は益美の従姉だったりするのだ。
「――オレらと年が変わんねえのに、あちらは舞台の上、こちらは座席の上……か。わかんねえモンだなあ」
プログラムに載っている、鈴置千尋の特集ページを読みながら、弘之が嘆息してみせる。
「そんだけ、チー姉ェの腕がいいってことよ。ま、オーディションに参加した人たちは残念だったでしょうね、自分より年下の小娘に負けた! なんて……」
「ケッ、しょってらァ」
半ば強引にここまで引っ張って来られたのが癪に障るのか、弘之はプログラムを畳むと、ポケットにしまってあったフリスクの箱を振って、二、三粒を口の中へ放り込んで、音を立ててかみ砕いた。
「演奏中に食べたらぶっ殺すわよ」
「うるせえな、こんな風に食べやしねえよ……」
こんな具合に二人がケンカをしていると、弘之の右隣の方から、背広を着こんだ二人連れの男が半券の番号をたよりに、しきりに座席の番号を探りながら近づいてきた。
「いつもなら閑古鳥の鳴いてる公会堂も、テイルズのコンサートとなると混んでるなあ」
坊主頭に黒メガネ、ひょろりとした背丈の麻の背広を着た男が寿司の折詰めを持ったまま、前に立った中肉中背、うっすらと日に焼けた顔にウールの背広とハイネック、ソフト帽を被ったままの男へ声をかける。
「フラッツ様様、ってなとこでしょうや。――っと、みいつけたァ」
どっこいしょ、と言いながら弘之の隣へ腰を下ろすと、ハイネックの男はソフト帽を脱ぎながら、
「劇場ではお静かに……」
と、どこか茶目っ気を残した、冷静な物言いで益美と弘之へジェスチャーを交えて注意をした。
「……すいません」
益美が謝ると、ハイネックの男は「分かればよろしい」とでも言いたげな表情で僕たちを眺めていたが、背後から現れた黒メガネの男に頭をペチンと叩かれて、すっかりだらしない表情へ早変わりしてしまった。
「――U、余計だぞ」
黒メガネの男が折詰めを手渡しながらUと呼ばれた男をたしなめる。だが、Uはひるむことなく、
「おい金沢、おめえいつから公衆不道徳の手先になったんだ。アアン?」
お返しとばかりに今度は金沢さんの額を指ではじくと、Uは復讐は果たした、と言わんばかりの満足げな顔をしながら、よく見ると二人前が一緒くたに包んであった寿司折の紙をはがして、助六の折詰めに入っていた太巻きへ手を伸ばした。これ以上は話すこともないだろうと、僕たちは開演までプログラムを読んでいようと思ったのだが、この二人組から発せられた一言が、それをすっかり台無しにしてしまった。
「――金沢、おめえその女どう思う」
ガリをつまんでいたUがおもむろに呟くと、プログラムへ目を落としていた金沢さんは黒メガネを直してから、
「その女って……どの女?」
「おととい飲んだ店のじゃあねえぞ。――これから出てくるクラリネットのだよ」
「――あんだあ、この鈴置ってえ娘か。どう思うって、可愛いげがあるじゃないか」
金沢がプログラムの写真を二度見してから、自信満々に答えると、Uは不機嫌そうに鼻を鳴らしながら返す。
「そりゃあそうだが、問題はウデよ、ウデ。――野郎ばかりのバンドに入ってきたこの生意気なアマッ娘、果たして腕はイカホドなりや……? ってコトが気になるわけ」
「おいおい、言いすぎじゃないか」
なだめる金沢さんに、Uは残ったいなり寿司を口へ放り込んで胃へ落としてから、
「言いすぎなもんか、だいたい、テイルズのジイサン方もそろそろ引導を渡されねえといけねえ時期に入ってるんだ。そんなところへ客寄せパンダか何だか知らないが、突然入ってきた新メンバーがほれ、女子高生と来てらァ。オチるとこまでオチたもんだねえテイルズも……」
「――ちょっと、ずいぶん言ってくれるじゃないの」
長々と聞いているうちに、僕はすっかり、今日来たきっかけを忘れてしまっていたことに気が付いた。振り向くと、いつの間にか益美が立ち上がって、男二人をギロリとにらんでいる。
「なんだいお嬢ちゃん、据置だか鈴懸だかの知り合いかい」
悠然とした態度のまま、ハンカチで手を拭いながらウッつあんが返す。
「ええ、そうよ。知り合いも何も、鈴置千尋は私の従姉ですが、なにか?」
「――U、貴様あれほど壁に耳ありと……」
事の重大さにようやく気付いたのか、親友であるUさんの肩へ手を乗せたまま金沢さんはわなわなと震えている。だが、それでもUさんは変わらず、
「へーえ、従姉の介錯にノコノコやってきたのかい、こいつァ泣かせるねえ」
「あんたねえ、どこの誰だか知らないけれど、チー姉ェの演奏聞いたことないんでしょ?」
「ああ、そうだよ。でもナ、吹奏楽部上がりのクラリネットなんざ、大抵相場は決まってるんだ。聞くまでもねえや、聞くだけ時間の無駄だよ、無・駄!」
「なんですって!」
ドスを効かせて静かに震えていた益美がとうとう本格的に怒り出した。が、僕らの背後でその様子をじっと眺めていた観客の誰かがわざとらしく咳き込んだおかげで、争いの火はうまく消え去ってくれた。
「――まあ、せいぜい従姉の恥かくとこをシカと御覧じろ」
「――ほっぺにご飯粒つけたまま言われても、ねえ」
益美の指摘に頬をさすり、憎たらし気な表情を向けると、Uさんはそのままモケットへ身を預けて、幕が開くのを不機嫌そうに待った。
やがて、開場を告げるアナウンスに続いて、年季の入ったブザーの音が場内一杯に広がり、明かりがゆっくりと落ちて行き、今度は逆に、一部の隙もなく降りていたどん帳が、音もなく上がりだした。
と同時に、盛大なドラムの音がホールいっぱいにこだまし、つられて他の楽器も鳴り出した。ジャズのスタンダード・ナンバー「シング・シング・シング」だった。
「――いた!」
鈴置千尋の姿を探していた僕は、益美の小さく叫ぶ声にようやくピントを結ぶことが出来た。写真以上の美貌に見とれていると、間髪入れずに彼女のクラリネットが響きだし、僕は息を呑んだ。
感想の第一声は「なんだあこりゃあ」だった。とにかく、聞く者の耳を捕らえて離さない、魔性の魅力がそこにはあった。
父さんに言わせると、ジャズというものは楽譜通りに鳴らさず、とにかくスイングするように吹いた者が勝ちらしいのだが、まさに鈴置千尋のクラリネットは「スイングしている」という言葉がぴったりの、うねるような旋律を伴って、満場一致の拍手をもたらした。
「なんだこりゃァ」
さっきまでの不満な顔はどこかへ消えて、右隣のUさんと金沢さんの二人は食い入るように舞台へ目をやっている。
「――どう? あたしの従姉妹の腕は……」
益美が意地悪く笑いながら二人へ尋ねると、二人の男は両手を上げて「降参」のポーズをしてみせた。
「次に客寄せパンダなんて言ったら、目元をパンダみたいにしてやるから覚えてなさい」
「……シツレイシヤシタ」
女子高生を前に、大の大人がしおれている絵面というのはなんとも滑稽なのだろうが、僕の神経はすべて、目の前で繰り広げられるテイルズ&フラッツのスイングを味わうことに注がれてしまい、すべてを見届けることはできなかった。