真夜中の教会
もう少し。
もう少しで、逃げ切れる、かもしれない。
男は必死に走った。文字通り命懸けのレースなのに、観客はひとりもいない。終電間近のホームの喧騒は遠く、どんどん速くなる自分の心臓の鼓動と息とが、うまくあわない。たすけてくれ、と言ったつもりが、あまりに荒い息の合間に埋もれて消えていく。これではさよならも言えないじゃないか、と思って、いやいや諦めるな、と自分を叱咤する。足が震えているのは、疲れのせいか、それとも。大の大人がこんなにも必死で走っていて、こんなにも様子がおかしいのに、どうして誰も助けにきてくれない。東京ももうおわりだ。こんなにも冷たい街だったなんて。正真正銘ひとりじゃないか。
いや、いまは、「ふたつ」か。
「それ」を振り払うために選んだぎゅうぎゅう詰めの電車の中でも、不気味な気配がすぐ近くにあった。意識を朦朧とさせながら電車のリズムと一緒に揺れるサラリーマンの向こうで、「それ」が笑っていた、ように見えた。ずっと、男だけを見ていた。人ごみが好きだと言うから、男は他人を盾にして逃げようと思ったのに。「それ」は、簡単に目移りしてくれなかった。
男の肩に爪が僅かに触れた。振り払った勢いで電灯に腕を擦ったが、痛みを感じられる余裕はない。もうすぐ近くまで来ている。まずい。男はとうに身体の限界を超えていたが、火事場の馬鹿力というやつか、まるで競走馬にでもなったように足を動かした。自分が地面を蹴る音が頭に響いて煩い。生きていたいけれど、あまりにも苦しい。もう駄目だ。また爪が触れる。もう少し。もう少しで。
ふと、子供の頃に知ったくだらない雑学が浮かんだ。
学校で習う算数では、足の遅い者はいつか必ず後から来た速い者に抜かれて、いつ彼らがすれ違うのかについて、明確な答えがある。ということになっている。でもよく考えたら、足の速い者が、遅い者のかつていた場所にたどり着いた時、遅い者は既にその場より先に進んでいるわけで、距離は縮まっていくものの、それは永遠に埋まることがない。ということも考えられるわけであって。
まだ、行けるかもしれなくて。
とうとう、男は教会にたどり着いた。重いドアをぶち抜くように聖堂を駆けて、十字架の前に膝まづくが、信者でないので正確な祈り方を知らない。手のひらが擦れて火が付くほど祈った。
「助けてくれ!!神様!!神様!!!!」
悲痛な叫びが無駄に高い天井へ昇ってゆくが、行き場は、ない。
男の肩に、とうとう「その」手が乗った。
男の血の気が失せてゆく。大理石の床と同化するほど白く震える男を、「それ」が見下ろした。男は「それ」が悲しい目をしていることに気が付いた。そしてその隙間に滑り込むように叫んだ。
「殺すなら、俺じゃなくていいじゃないか!なんで、俺なんだ、他に、もっと、美味しそうな、人間が、いるじゃないか!!」
「それ」はますます顔をゆがめた。泣いているようにも見えた。暗闇に徐々に目が慣れてきて、「それ」の手足が驚くほど細いことを知る。
ごめんなさい あなたは ひとじち だから……
耳元で女の声がした、と思ったその瞬間、男の意識が、落ちた。
・・・・・・
12月の夜は息も凍る寒さだ。コートの前を握り締め、それでも滑り込んでくる冷気に苛々しつつ、二人の男がやってくる。
次狼は素手をポケットに入れさせてもらえず、唇を尖らせていた。
「こんなにも手が赤いの、畑中さんには見えないんですか?」
と、上司に見せつけてやる。
「親じゃあるまいし、ポケットに手をいれて歩いたら危ないなんて……、もう、余計なお世話ですよ。俺も、おとなの男なのに」
とか言いながら、結局次狼は畑中の言いつけを守る。そういうところが可愛いから、畑中は次狼に口うるさくしてしまうし、いつまでも幼く扱ってしまう。
「文句を垂れていないで、仕事に集中しろ。これは遊びじゃない」
「はあい」
次狼かて、分かっている。自分の仕事の重みも、それを自分で選んでしまったことも。この仕事に就いたのは少し仕方のないことでもあったけれど、それでも彼は自分で選んだ。
ここで生きていくと。自分の全てを失ったこの場所で、もう一度やり直したいと。
それでもこんな夜遅く、朝が近いような時間に突然呼び出されるのは、正直つらい。大きなあくびを漏らした次狼の頭を、畑中が軽くはたき、その口にフリスクを突っ込んだ。
「からい、からい」
と、次狼が涙目になるので、畑中はその頭をもう一度はたいた。
「男だろ」
「畑中さん」
その電灯、といって次狼が指差した先に、わずかにこすったような跡が残っている。
「血ですね」
襲われた男のものだろうか。忘れないようにノートにメモをして、それにしてもよく気付いたものだと畑中は感心した。観察力に於いて、次狼の右に出るものはない。獣のように研ぎ澄まされた感覚は本能だから、現場を見に行くときは必ず次狼を連れて行くことにしている。
次狼は敬礼の真似をすると、教会の方へ一足先に駆けていき、警察が張り巡らせたKEEP OUTのテープを勢いのままに引きちぎってしまった。
「こういうの楽しいですよね」
「それはゴールテープじゃないと、何度言えば分かる」
次狼はいつもテープの柵を壊して、警察に怒られている。そろそろ懲りてもいい頃だが、テープが切れた時の快感には中毒性があるらしく、
「まぁ、いいじゃないですか。怒られるのとこの楽しさを我慢するのとじゃ、怒られる方がましです」
と、次狼はけたけた笑う。
教会のドアを押し開けると、聖堂の中央、ちょうど、ミサで司祭が喋るあたりの位置に、何かがある。警察がかけたらしい白い布は真っ赤に染まって気休めにもならず、次狼が畑中の横で、わー、こわーい、と楽しげに声を上げる。それから次狼は勢いよく布を取り上げ、辺りに血が舞った。姿を現したのは、無残に切り刻まれた遺体だ。「人間」というより「生肉」という感覚に近い。もう、犯人は明らかだった。無駄に高い天井の近くの、無駄に高い所にある窓から、静かに月光が降り注ぐ。執拗に掘り起こされた形跡の、目元が顕わになる。次狼が血だまりに手をついた。
「かわいそうに」
乾いた声だった。
・・・・・・
松本は、朝のテレビに目が釘付けになった。
今朝、東京都千代田区の―――教会に目喰が現れた様子です。遺体は損傷が激しく、現在本人確認中とのことで……
「嘘、これ会社の近くじゃん」
呟いてすぐに固定電話が鳴った。こんな朝に勧誘の類の電話がかかってくる筈もなく。
その日の出勤は、無しになった。