表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
目喰  作者: sato.
2/3

真夜中の教会

もう少し。

もう少しで、逃げ切れる、かもしれない。


男は必死に走った。文字通り命懸けのレースなのに、観客はひとりもいない。終電間近のホームの喧騒は遠く、どんどん速くなる自分の心臓の鼓動と息とが、うまくあわない。たすけてくれ、と言ったつもりが、あまりに荒い息の合間に埋もれて消えていく。これではさよならも言えないじゃないか、と思って、いやいや諦めるな、と自分を叱咤する。足が震えているのは、疲れのせいか、それとも。大の大人がこんなにも必死で走っていて、こんなにも様子がおかしいのに、どうして誰も助けにきてくれない。東京ももうおわりだ。こんなにも冷たい街だったなんて。正真正銘ひとりじゃないか。


いや、いまは、「ふたつ」か。


「それ」を振り払うために選んだぎゅうぎゅう詰めの電車の中でも、不気味な気配がすぐ近くにあった。意識を朦朧とさせながら電車のリズムと一緒に揺れるサラリーマンの向こうで、「それ」が笑っていた、ように見えた。ずっと、男だけを見ていた。人ごみが好きだと言うから、男は他人を盾にして逃げようと思ったのに。「それ」は、簡単に目移りしてくれなかった。


男の肩に爪が僅かに触れた。振り払った勢いで電灯に腕を擦ったが、痛みを感じられる余裕はない。もうすぐ近くまで来ている。まずい。男はとうに身体の限界を超えていたが、火事場の馬鹿力というやつか、まるで競走馬にでもなったように足を動かした。自分が地面を蹴る音が頭に響いて煩い。生きていたいけれど、あまりにも苦しい。もう駄目だ。また爪が触れる。もう少し。もう少しで。

ふと、子供の頃に知ったくだらない雑学が浮かんだ。

学校で習う算数では、足の遅い者はいつか必ず後から来た速い者に抜かれて、いつ彼らがすれ違うのかについて、明確な答えがある。ということになっている。でもよく考えたら、足の速い者が、遅い者のかつていた場所にたどり着いた時、遅い者は既にその場より先に進んでいるわけで、距離は縮まっていくものの、それは永遠に埋まることがない。ということも考えられるわけであって。

まだ、行けるかもしれなくて。


とうとう、男は教会にたどり着いた。重いドアをぶち抜くように聖堂を駆けて、十字架の前に膝まづくが、信者でないので正確な祈り方を知らない。手のひらが擦れて火が付くほど祈った。

「助けてくれ!!神様!!神様!!!!」

悲痛な叫びが無駄に高い天井へ昇ってゆくが、行き場は、ない。


男の肩に、とうとう「その」手が乗った。


男の血の気が失せてゆく。大理石の床と同化するほど白く震える男を、「それ」が見下ろした。男は「それ」が悲しい目をしていることに気が付いた。そしてその隙間に滑り込むように叫んだ。

「殺すなら、俺じゃなくていいじゃないか!なんで、俺なんだ、他に、もっと、美味しそうな、人間が、いるじゃないか!!」

「それ」はますます顔をゆがめた。泣いているようにも見えた。暗闇に徐々に目が慣れてきて、「それ」の手足が驚くほど細いことを知る。


ごめんなさい あなたは ひとじち だから……


耳元で女の声がした、と思ったその瞬間、男の意識が、落ちた。


・・・・・・


12月の夜は息も凍る寒さだ。コートの前を握り締め、それでも滑り込んでくる冷気に苛々しつつ、二人の男がやってくる。

次狼(ジロウ)は素手をポケットに入れさせてもらえず、唇を尖らせていた。

「こんなにも手が赤いの、畑中さんには見えないんですか?」

と、上司に見せつけてやる。

「親じゃあるまいし、ポケットに手をいれて歩いたら危ないなんて……、もう、余計なお世話ですよ。俺も、おとなの男なのに」

とか言いながら、結局次狼は畑中の言いつけを守る。そういうところが可愛いから、畑中は次狼に口うるさくしてしまうし、いつまでも幼く扱ってしまう。

「文句を垂れていないで、仕事に集中しろ。これは遊びじゃない」

「はあい」

次狼かて、分かっている。自分の仕事の重みも、それを自分で選んでしまったことも。この仕事に就いたのは少し仕方のないことでもあったけれど、それでも彼は自分で選んだ。

ここで生きていくと。自分の全てを失ったこの場所で、もう一度やり直したいと。

それでもこんな夜遅く、朝が近いような時間に突然呼び出されるのは、正直つらい。大きなあくびを漏らした次狼の頭を、畑中が軽くはたき、その口にフリスクを突っ込んだ。

「からい、からい」

と、次狼が涙目になるので、畑中はその頭をもう一度はたいた。

「男だろ」


「畑中さん」

その電灯、といって次狼が指差した先に、わずかにこすったような跡が残っている。

「血ですね」

襲われた男のものだろうか。忘れないようにノートにメモをして、それにしてもよく気付いたものだと畑中は感心した。観察力に於いて、次狼の右に出るものはない。獣のように研ぎ澄まされた感覚は本能だから、現場を見に行くときは必ず次狼を連れて行くことにしている。

次狼は敬礼の真似をすると、教会の方へ一足先に駆けていき、警察が張り巡らせたKEEP OUTのテープを勢いのままに引きちぎってしまった。

「こういうの楽しいですよね」

「それはゴールテープじゃないと、何度言えば分かる」

次狼はいつもテープの柵を壊して、警察に怒られている。そろそろ懲りてもいい頃だが、テープが切れた時の快感には中毒性があるらしく、

「まぁ、いいじゃないですか。怒られるのとこの楽しさを我慢するのとじゃ、怒られる方がましです」

と、次狼はけたけた笑う。


教会のドアを押し開けると、聖堂の中央、ちょうど、ミサで司祭が喋るあたりの位置に、何かがある。警察がかけたらしい白い布は真っ赤に染まって気休めにもならず、次狼が畑中の横で、わー、こわーい、と楽しげに声を上げる。それから次狼は勢いよく布を取り上げ、辺りに血が舞った。姿を現したのは、無残に切り刻まれた遺体だ。「人間」というより「生肉」という感覚に近い。もう、犯人は明らかだった。無駄に高い天井の近くの、無駄に高い所にある窓から、静かに月光が降り注ぐ。執拗に掘り起こされた形跡の、目元が顕わになる。次狼が血だまりに手をついた。

「かわいそうに」

乾いた声だった。


・・・・・・


松本は、朝のテレビに目が釘付けになった。


今朝、東京都千代田区の―――教会に目喰が現れた様子です。遺体は損傷が激しく、現在本人確認中とのことで……


「嘘、これ会社の近くじゃん」

呟いてすぐに固定電話が鳴った。こんな朝に勧誘の類の電話がかかってくる筈もなく。


その日の出勤は、無しになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ