1・書道部、異世界へ
行草明という少年がいる。
年齢は一七歳。高校生である。
この明、元々は運動部であったが、事情あって今は書道部にいた。そのせいもあって、文科系とはとても思えぬほどがっしりした体躯である。
今日も今日とて、彼はかばんに書道道具を詰め、学校に向かって行く。途上の河川敷は、朝日が水面を照らし、黄金色に輝いており、万人が爽やかな早朝と言えるだろう。
しかし、明の表情は浮かない。
手入れのされていない眉の、その付け根には縦に皺が刻まれ、長くもなく短くもない黒い前髪の下からは、同じく黒い瞳がのぞき、それは遠くを見つめていた。
これがもう少し体格が小さければ、文学青年のような趣もあるだろうが、彼はやたらよい体格であるために、どこか標的を探す暗殺者のようでもある。
「……」
「なーに、しけた顔してんのよ」
そう言って、彼の背中を叩いたのは、小柄な女生徒だった。
「朝か……」
彼女は、明の幼馴染である鹿毛山朝である。濃いめの茶髪に短いポニーテールで、好きなものはひまわりの種という、「あんたの前世はリス」と友人から断言されている少女だ。なお、ひまわりの種は、メジャーリーガーが食べている映像を見たのをきっかけにハマったそうである。
「……そんな顔してるくらいなら、戻ってきなよ」
「この顔は生まれつきだ」
知ってる」
ぎこちなく笑う朝。
「……あんた、誰よりマイペースだもんね。考えだしたら止まんないっていうか……で、何を考え込んでたの?」
「次の題材を考えていただけだ」
「題材?」
「むしろ、やりたい事が多くて迷ってたぞ」
「……ふーん」
「大会に出すなら、顔真卿の『祭姪文稿』と、王羲之の『蘭亭叙』のどっちがいいと思う? どっちも暗記したんだが……」
「わかるかぁ! こちとら、サッカー部のマネージャーひとすじだぞ!」
「顔真卿と王羲之は、中学の書道の授業で出てたろ?」
「覚えてるわけないでしょ? 全身Kに奥義C? 聞いた記憶すらないし! 有名なのそれ」
「有名だぞ、たぶんな」
明は、幼少期に書道教室に通っていた経験はあるが、ちゃんと勉強しだしたのはここ数か月だった。
「……まぁ、書道歴の浅い俺が、おいそれと何がすごいとも言えないんだが、どっちかというとカチっとした感じの『蘭亭叙』が好きかな」
「じゃあ、それでいいじゃない」
「おお! それもそうか。ありがとう!」
暗殺者のような男がにこりと笑う。
「あ、う、うん。助けになったんならよかったわ」
調子を狂わされたのか、むしろ朝の方の笑みが引きつっている。
「それよりいいのか? サッカー部は朝練だろ?」
「え? あっ、そうだった!」
朝は、驚く声にドップラー効果をかけながら、そのまま走り出していく。
あっという間に遠くなっていく背中から、
「戻りたいときは、いつでも言ってよー!」
と、声がした。
「……」
それはもはや、彼女の口癖となりつつある。
「そう言ってくれるのは嬉しいが……今は書道が、楽しくてしょうがないんだよ。今は、俺の書でみんなの心を動かしてみたいんだ」
その厳つい顔によく似合う苦笑を浮かべながら、しかし満足げな声で、明は呟く。
ぽんぽんと叩いたかばんは、硯の硬さを感触として彼の掌に届ける。
それが無性に心地よかった。
朗らかな心地のまま、明は高校へ向かって行く。
「ん?」
ふと、彼の視界の端で光るものがあった。
河川敷は、ジョギングコースとしてもよく利用されている。だから、最初は誰かの落し物だと思った。
だが、どうやら違うらしい。
というのも、金属やガラスのような、人工物ではないからだ。掌より小さなマーブル模様の石が、蛍のようにちかちかと光っている。
「なんだあれは」
明は、興味本位でその石に近づいて行った。
拾い上げてみると、裏面に文字が刻まれているのがわかる。どうやら、その文字が光っているようだった。
文字とはいったものの、日本語ではない。楔形文字のように鋭利な書体だった。
明は、なんとなく、それが綺麗だと思った。
次の瞬間、小石は大きく光り出した。
「うおっ、まぶ……」
光は、全てを白に染め上げた。
そして――
「は?」
直後、衝撃を感じると彼の視界は闇に包まれた。
同時に、その顔面を柔らかい何かが覆いつくした。
「きゃああああああああああ!!」
続いて響いて来たのは、くぐもった絶叫だった。
明らかに女性の声だが、明に聞き覚えはない。もちろん、朝の声とも全く違う。
「な、何が……え?」
体を動かそうとして、彼は自分が倒れていることに気づく。
掌に伝わるのは、砂利。
不意に、顔面の覆いと圧迫感が消え、眩しい光が瞳に突き刺さった。
「う、うあ……」
反射的に上半身を起こすと、人影が見えた。
ぼやけた視界が収斂していき、明瞭な形を映し出す。
それは、女性だった。少女、と言ってもいい。
「○B×Aさキちぇいさー△L!」
それと、どう見ても怒っていた。
ちぇいさーみたいな意味不明の言葉を叫びながら、明に剣を突き付ける。
そう、剣だ。
現代日本で、まず目にすることがないもの。
同じく、それを突き出した少女の姿も、明らかに日本のそれではなかった。まず、短く刈られた髪の色が銀だ。白と言うには輝きが違う。瞳も、炎のように真っ赤である。
突き出している剣ですら、どう見ても真剣だが日本刀とも異なる両刃の剣である。
ただ、黒づくめのドレスに純白のフリルという服装だけは、いわゆるゴスロリとして日本でも見かけるものとよく似ていた。
そんな少女が、右手で剣、左手でお尻を押さえ、顔を真っ赤にして怒っている。