第65話 過去編
期限付きの日常は長く続かなかった。
呼吸の苦しさを訴え妻が入院した。そして、今後は退院については諦めて欲しいと担当医から言われた。従うしかなかった。
それから、棗は学校が終わったら妻の病院へ毎日通うようになり、私は当時立ち上げたプロジェクトのリーダーとなる。
プロジェクトの内容は、人体にICチップを埋め込み全てのデジタル化の基礎を創造するといった国と世界を巻き込んでの大規模な計画であった。リーダーとなった私はさらなる多忙を極め、妻の元へ向かうのは夜遅くなった時間に限られた。
特別待遇は褒められたものではないが、皇財閥の息がかかっている病院なので、面会時間外であっても私は妻に会うことができた。遅い時間に伺うと体に障るんじゃないかと心配になったが、「もう取り返しのつかないくらい障ってるよ!」と彼女に笑われた。
夕方の時間に私は病院へ来られないので、棗ともここで会うことはない。なので、棗とした会話の内容を妻の口から聞くというのが日課になっていた。
「棗、また満点のテスト用紙もってきたよ」
「そうなのか」
気のない返事だったのだろうか。彼女が訝しむ。
「ねぇ、最近あの子とちゃんとお話してる?」
「・・・あぁ」
嘘をついた。最近は家でもすれ違ってばかりだ。夜はこうして妻の病室で過ごし、帰ったら棗は1人で夕飯をお風呂を済ませて部屋に籠もっている。ばったりと出くわしても、私の方から避けていた。
なぜ避けるのか。向き合うのが怖いからに決まっている。それに、余命を内緒にしている罪悪感もある、なにより、伸ばし始めた髪型が昔の苗とそっくりでますます面影が濃くなった。だから、単純に棗を見ていると辛くなる。
私の嘘に妻は「ふーーん」と鼻を鳴らした。どうやら、今日のところはこのまま見逃してくれるらしい。
「それにしても、もう家に帰れないってひどいよね!こんな所に閉じ込めて私を何だと思ってるの!」
「良い子にしていれば、帰る許可がおりるかもしれないよ」
「あ、子供扱いしたな」
私とのやり取りがそれほど可笑しかったのか、クツクツと喉を鳴らした。余命幾許もない人間がする表情とは到底思えず、ついこんな事を口にした。
「君は怖くないのか?」
主語が足りないが、彼女は意図を汲んで「全然」とあっけらかんに言い切ってみせた。
「私より怖がってるのは雄一の方がずっと怖がってるじゃん」
「・・・当たり前だよ」
爪が食い込み、血が滲みそうになるほど強く拳を握りしめる。
「自分を棚に上げてるけど、雄一も結局はいずれ死んじゃうじゃない。遅いか早いかの違いってだけ。先に逝って待ってるからね」
「冗談でも馬鹿な事を言わないでくれっ」
雀の涙しかない彼女との時間を、喧嘩のような無駄な時間にあてたくない。だが、私は叫ばずにはいられなかった。長い間生きてきて、昂ぶる気持ちを抑える術を知らない。
「あ、怖いこと、というか嫌だなって思う事はあるよ」
「嫌なこと?」
駄々をこねる子供をあやす言い方を彼女はした。
「これからお爺ちゃんになる雄一や大人になる棗を見届けられない事。その事実だけが死ぬよりよっぽど怖いよ」
彼女の胸の内に私は言葉を失った。同情や哀れみではなく、彼女から出た真実に打ちのめされたのだ。私はこれから人生を歩んでいく。その隣に彼女がいない想像をしてしまった。
「そういえばさ、まだ棗が幼稚園の頃、家族で東北に花火を観にいったじゃん。その時に迷子になった男の子がいたの覚えてる?」
「・・・ガオ君だったか」
彼女は「よく覚えてるね」、と目を丸くした後に顔を綻ばせた。唐突に話題が変わったが動じずに反応することができたのは、彼女との長い時間を共にしてきた賜物だ。
当時を思い出す。泣きじゃくるその子を、彼女は「親御さんが見つかるまで預かる!」と張り切って保護した。男の子は棗よりも一回り小さいので、まるで姉弟に見えた。男の子も自分が迷子である事を忘れているかのように、棗と楽しそうに夜空に飛び散る光の玉を見上げていた光景が鮮明に浮かぶ。
「すぐに見つかってよかったよね。すごく感動してさ、ちょっとうるっときたもん」
「あぁ、そんな事もあったな」
「あの子、元気でやってるかな。『またいつか会おうねって』って、私言っちゃったんだよね。心残りがあるとすれば、ガオ君とした約束を果たせなかったことかな」
「連絡先も知らないんだ。どのみち、もう会うことないよ」
フォローにも満たない気休めだがこれも事実だ。男の子の親御さんに引き渡した時も、お互い名前も名乗らないまま別れてしまったのだから。
「私は結構本気だったんだから。だから約束を守ることができないのも嫌」
その口ぶりで、男の子との約束を言葉通り本気で果たそうしていたのだと伝わった。だから、「きっと元気に成長しているよ」紛れもない本心で言った。
その時、私の体の中心で何かが沸き立つ感覚がした。
「日本緑化計画よりもやり遂げたい事ができたから、しばらくはそっちには行けないな」
「日本・・・なにそれ?」
「君が昔言ったんじゃないか。東京を緑で覆うって」
「うっわーなっつかしー思い出した。ってか、よく覚えてたね」
「俺はね、今のプロジェクトを少しでも前進させる。ICチップによる健康管理に加え、遺伝子疾患を事前に発見して健康な遺伝子に組み換えられるような発明のバトンを、次の世代に渡すのが目標だ。そうすれば近い未来には君みたいな不幸な人はいなくなる」
すっかり体の線が細くなった妻を見据えながら言った。これは私が今後生きていく中での決意表明でもあった。
「私が不幸だなんて言った」
そんな私のを決意を彼女は一掃したから台無しになった。
「病に侵されてるけど、でも、今まで歩んできた道のりに誇りを持ってるし、雄一や棗と一緒にいられて幸せだったよ」
「なら、『だった』と言わず、これからも一緒にいてくれ」
「・・・それは無理、ごめんね。でも、私思うんだ。結局さ、残された人が不幸になるんだよ。死んだら私はそこで終わるじゃない。死後や魂なんて知らないけど。だから、私みたいな病人だけじゃなく、雄一や棗のように残された人達が悲しまないような世界を雄一は創ろうとしてるって事を忘れないで。そして、これからも仕事に胸を張って。それが、遺言」
私は彼女の手を握りしめた。自覚なく強く握っていたらしく、「痛いってば」という非難が飛んできたが気にしなかった。彼女の手の温もりが一生私の手に残り続けるようにと願いながら、彼女の遺言にただ頷いた。
彼女は余命通りに生きて息を引き取った。




