第64話 過去編
家に妻が帰ってきたのは、手術から一ヶ月が経過した頃になる。
「たっだいまー!」
両手を平げ、妻は体全体で喜びを表現する。我が家に帰還を果たした外国の軍人の様子を撮影した動画を見たことがあるが、まさしくそれだった、妻は病院という戦場で侵略してくる癌細胞と戦っていたのた。
手術は成功し、その後の経過も概ね良好と判断され帰宅が許された。ただ、怖いのやはり癌の再発で、定期的に診断を勧められた。
妻が自宅に居る。今までは当たり前であるはずなのにまるで現実感がない。しかし、処方された夥しい量の薬を目にすると一気に現実へと引き戻される。悪い夢ではなかったのかと、落胆が滲んだ。
「久しぶりに散歩行こう!」
「いくいくーー!」
棗の学校が休みの週末に、苗はよく棗を連れてリリーの散歩へと出かけていた。退院してから初めての週末で、私はあまり妻に無理をしてほしくなかった。
普段は散歩を任せきりにして、皆が出払った後の静まったリビングでゆったりとコーヒーを飲むのがささやかな楽しみだったが、今はその静寂が怖かった。
「俺も行くよ」
散歩が待ちきれないリリーへリードを付けるのに苦戦している妻が、「珍しいね」とわざとらしく言った。そうだよ、気づいたんだ。いつも傍にいると思っていた君が居なくなるかもしれない。その可能性があるって事にやっと。
公園へ歩いていくと、他の家族連れや友達同士にカップル、スーツで羽織り1人ベンチに座っている人もいた。皆が共通して、それぞれの人生の幸せを謳歌しているように見えた。そうであって欲しいと思い込んだ、そうすることで、これからの明るい未来に期待を膨らませながら幸せを謳歌している中に紛れている気がしてから。
晴れた秋空は、澄んだ青色が延々と嘘みたいに続いていた。
それから数年、妻は入退院を繰り返すようになる。入院中の休日は、棗を連れて時間が許すまで病室で過ごした。リリーに留守番を強いるのが申し訳なかったが。
妻は棗とある約束をしているらしく、目の前ではその約束のやり取りが行われていた。
「見てーお母さん!テストで100点とった!!」
「わぁ、いつも凄い!頑張ったね棗!」
「うん!」妻に似た銀の糸のような綺麗な髪をワシャワシャかき乱されながら棗は喜んだ。
「よーし!それじゃ支度するね!」
その約束とは、棗が学校のテストで満点をとったら外出許可をもらい、病院の敷地内を一緒に散歩するというものだった。妻と約束してから棗は家で勉強に励むようになり、褒めて欲しいという理由で頑張るその姿が愛くるしくあった。
妻の容態は次第に悪化していき、面談を断られる日も増えてきた。満点の用紙を弱々しく掴みながら、今日はお母さんに会えないとわかった棗の落ち込んだ背中は、暗い陰りで覆われているようだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「お母さん助かるの?」
棗も来年は小学生から中学生になる。そこまで時は流れていたのかと、ふと気づいて唖然とする。
「もう少しだけ、遠回りをするだけだよ」
「今度はいつお見舞いにいける?」
「・・・・・後で確認するよ」
40手前の年齢になった私は、会社では既に部長の役に就いていた。会社を辞めてしまった上司の役職を超えてしまい、感慨深くなる。
並行して業務も忙しくなり、この頃には以前まで作れていた棗と過ごす時間を確保するのが難しくなっていた。なので、あれだけ守っていた自炊も諦め、コンビニや出前で夕飯を済ませるようになった。
心身ともに疲れていた。
妻の底抜けに明るい性格を受け継いでいたと思っていた棗も、年齢を重ねると次第におとなしくなった。いや、しっかりと自我が芽生え始めると同時に妻の今の状況をより理解したのだ。
だから、自然に明るく振る舞う事がなくなり、代わりに私の暗い気持ちへと引っ込まれていったのかもしれない。
棗の卒業前に、妻に余命が言い渡された。
1年。非情に残念ですが、と昔からお世話になっている担当医から宣告に、「ありがとうございます」無意識に私は頭を下げていた。
長い間粘り強く妻の治療にあたってくれた彼への敬意だった。きっと、この方がいなかったら、妻はもっと早い段階で亡くなっていただろう。余命を告げる苦しそうな顔を見て、そう思えた。
無意識は、涙腺も刺激していたらしく、頭を垂れた顎の先から何粒かの水滴が床に落ちた。
妻の治療法は、未来を切り開くために癌と闘うことよりも、残された時間をどう有意義に過ごせるようになるのかに焦点があてられた。事実上の試合放棄、セコンドがタオルを投げ込むようなものだった。
強力な痛み止めのおかげで、妻は以前よりも自宅に居られる時間が格段に多くなった。たまに病院へ行き、検査と薬の投与を行うだけですぐに自宅に戻ってくる。
さすがに激しい運動は禁止させられたが、現代医療とは凄いもので健常者とほぼ同じような生活を送ることができた。
「ただいまリリー!!」
すっかり老いた愛犬を押し倒し、お腹に顔を埋めてグリグリとしていた。いい大人がやることではないのではと思ったが、これこそが彼女らしい姿なのだと思い出した。
「久々に私が腕によりをかけてご馳走をこしらえちゃうよ!!」
「手加減してねお母さん」
「どういう意味よ」
「そうだ、せっかくだからお父さんと一緒に作ったら?」
中学生になった棗はすっかり妻に似てきた。よく通った鼻筋に形の良い輪郭は特に似ていて、本当に妻の面影を残していた。それが嬉しくあり、辛くもあった。
今後、妻がいない世界で棗を見るたびに、嫌でも彼女を思い出す事になるのだろう。幸い、癌と告げれらてから7年目になり、心の準備はそれなりにできていた。そういえば、子供ができたと言われたのも交際して7年目で、余命を告げられたもの同じ7年目だ。ラッキーなのかアンラッキーなのかわからない数字だ。
妻と話し合い、余命は娘には内緒にする事に決めた。だから、自宅に娘がいる場合はこの話しを妻とすることを避けた。
驚くことに彼女の態度は病気の前と変わらず普通だった。当たり前に明日が来て、嫌になりながら歳を重ねていくような雰囲気を漂わせ、未来を奪われた悲劇を嘆くことや、悲しみに暮れる様子もなく淡々としていた。放送されているバラエティを見ながら声は出して笑いもすれば、上達する気配のない手料理に楽しそうに悪戦苦闘もしていた。
平日に私は会社を休んで妻の検診に同行していた。レントゲンや口や鼻にチューブを入れられる妻はまるで、いつ壊れるかわからない精密機械みたいで、今はその定期メンテナンスの作業に思えた。あながち間違いでもないかもしれない。
「ねぇ、せっかくだしご飯食べに行こうよ」
時計を確認すると、13時を少し過ぎたあたりだった。「そうだね」と、私も賛同する。彼女のお願いは、どんな些細なものでも叶えてやるつもりでいた。
適当に入ったラーメン屋で注文を終え時間を持て余していると、妻が突然「あっ!」大きな声を出した。近くのカウンター席に座っていた男性の背中が少し跳ねた。
「そういえばね、先輩のお子さん中学生になったらしいよ!」
「・・・棗と同い年なんだから当たり前だろ」
「そういえばそうだったね」
わはは、と笑う彼女にため息を吐きながら「そんな事でこれから・・・」と言って慌てて口をつぐんだ。
私はなんて馬鹿だ。「そんな事でこれから大丈夫なのか」という質問は、目の前の彼女にとって最も不毛ではないか。
「ないよ」
ひどく落ち着いた声が妻の方から聞こえた。聞き間違いかと思い彼女の顔を窺うと、氷のような藍色の瞳が私を刺した。
「私に『これから』なんてないよ。雄一こそそんな事でこれからやっていけるの?」
鈍器で頭を殴られた衝撃が襲い、目の前の妻と景色が歪み始める。いつ頃なのかは定かではないが、すっかり涙もろくなっていた。
店員が二人前のラーメンを運んできた。「おいしそーー」と手を合わせて喜ぶ妻は、先程の妻とは別人だった。