第62話 過去編
苗の妊娠が発覚した。既に3ヶ月目とも言われた。
同居を始めて1年。交際を始めてから7年目の事になる。
予定日が12月中頃だと具体的な日付を彼女から教えられた時は、驚きと不安の波が押し寄せた。だが、その波が引いた後に残ったのは素直に嬉しいという気持ちだけだった。
頭の中で、海岸に打ち上がった貝殻にも似た「嬉しい」という気持をそっと拾い上げ、マンションの一室で、小雨が降り続く梅雨の時期に私は彼女にプロポーズをした。本当は妊娠の前に言うべきだったのだが、もうなりふり構ってはいられない。
「結婚しよう」
彼女は酸っぱいものを含んだように口元を細め、瞳を潤し色白い顔をほんのりと朱く染めた。そして、水面に波紋が広がるような静かな声で「はい」と頷いた。普段は明るく振る舞う彼女のしおらしい態度が似合わないなと、場違いに思った。
式は身内だけか最悪行わなくても良いと思ったが、実際はそうもいかないらしい。それは私が身を置く環境に大きく関係しているわけだが、財閥の跡取りとはなんとも面倒だなと身分が鬱陶しくなる。
披露宴は8月に決まった。
彼女の純白のドレスに身を包んだ姿はとても美しかった。むしろ、ドレスはあくまでも彼女の美しさを再確認させるためだけの道具なのではないかと思うほど彼女は美しかった。なんて言ったらのろけと馬鹿にされるが、実際にそう見えるのだから仕方がない。
学生時代の友人や会社の人たちに祝福されて式は終わったのだが、楓さんが式に参加しないのが心底意外だった。楓さんに送った招待状の返事に囲われた「ご欠席」をみても半信半疑ではあった。「その頃はちょいと忙しいと思うからごめんね」と、わざわざ電話ももらっていたけど、本当に楓さんは来なかった。
仕返しというわけではないけど、驚かせるために妻の妊娠については言わないでおいた。無事に出産を終えたら報告をしようと決めた。
本格的な寒波が押し寄せる一歩手前の忙しく騒がしい時期が訪れた。この日は平日で仕事のために普段どおりに出社をしていたが、違う点を挙げるとすれば私の集中力の散漫にある。
ここ最近は1タスク終えるたびに携帯を開いては、何も連絡がないことに落胆と安堵を繰り返していた。会議を終え、癖になりつつある携帯確認をすると、液晶に一件の着信履歴と新着メールのお知らせが書かれていて、飛び上がりそうになる。
落ち着きのない手でボタンを操作し、メールを開封すると「きたかも!」とこちらの心配を他所に脳天気な文字が綴られていた。
急いで上司へ報告すると、ニヤけながら邪険にするように手をシッシと払って「早くいけ」と言ってくれた。入社当初からお世話になっている上司へ頭を上げ、風になった気持ちで会社をでた。
すぐにタクシーを捕まえて目的地を告げると、運転手の顔つきが変わったように思えた。早々に発車し、普段は利用しない裏道を駆使してくれてた。
予想よりも早めに着くことができた場所は産婦人科医院だった。
走ってはいけない。子供の頃から教育されていることが、大人になってもどうしてできないのかの議論は端に寄せ、私は小走りに受付へと向かった。
受付を済ませ、諸々の支度を整え妻がいる分娩室へと入ると、訪れた世界を誤ったかのような感覚に襲われた。苦しそうに、実際に苦しいのだろうけど、顔を歪ませている苗の顔はずっと残り続ける気がした。
数時間の格闘の末、苗よりも付き添っている私が先にヘバッてしまっている時に大きな鳴き声が響いた。新たな生命は、その小ささからは想像がつかないほどの大きな声で泣いていた。
「結局名前はどうするんだい?」
出産後、妻が入院している病室で私は尋ねた。あれこれ候補は考えていたが、お腹を痛めた一番の功労者の妻が最終的に決める約束になっていた。
これから様々な手続きをしなくてはいけない。右も左もわからない情けない大人だが、まずは産まれた「彼女」の名前を決めるのが親としての一番の仕事のはずだ。
「もう決めた。この子はね」
無意識に息を呑んだ。これから、何百何千回、何万回と口にするだろうその名を待ちわびて。
「棗」
「・・・ナツメ」
娘の名前を口にした途端、鼻の奥が熱くなりツンと痛みが走る。目の奥から零れそうな涙を必死に堪えていると、代わりに鼻水が垂れてきた。そして、遅れてふと気づいた。
「もしかして、楓さんの浴衣の花からとったのかい?」
鼻をスンと鳴らしながら聞くと、「よくわかったね」と驚いてそして「ピンポーン!大正解!」と丸を作った。よかった、元気な証拠だ。
昔、3人で何かのお祭りに行った際の帰りに、手違いで妻と楓さんの浴衣を入れ替えて持ち帰ったことがあった。理由は知らないが、そのまま互いの浴衣として交換することになっていた。黄緑の棗の花が散らばった元は楓さんの浴衣は、始めから妻のものではなかったのではと疑うくらい着てみると馴染んでいた。
「娘の名前をつけるのも、楓さんに頼ったみたいだ」
「違うよ。これは私の意志でつけた名前」
「じゃあ、どうして棗にしたんだい?」
よくぞ聞いてくれました!と顔に文字が浮かんできそうなほど、妻はわかりやすく得意げな顔に変わった。
「健康であって欲しいのと、私じゃなく雄一みたいに英俊に育って欲しいから。どちらも棗の花言葉だよ」
「健康の件は納得だけど、俺は英俊と称されるほど大層な人間ではないよ」
本心だった。むしろ陳腐な表現だが太陽の光のように私の心を明るく照らす彼女こそが、よっぽど優れている。
「あ、そういえば先輩に報告したの?」
卒業から今になっても楓さんを先輩と呼んでいる妻が言ってから、私もその事を思い出した。
「まだだった」
「じゃあ私が連絡していい?」
断る理由がなく、むしろ私から電話をすると色々と面倒な絡まれ方をする危険があったので快く譲った。妻はしばらくコールを鳴らして、「あ、もしもし、先輩?」とイタズラを仕掛ける前の子供じみた含み笑いをした。
「えぇ・・えぇ・・久しぶりです・・・・はい、元気ですよ・・・・・・あの、実は報告があるんです」
目が合い、「あの鼻っ面を折ってやれ」と念じる。通じたかどうかはわからないが、期待に応える勢いで妻は「子供が産まれました!」と力強く告げた。
「・・・そうなんですよ、ビックリしちゃった?ねぇ、ビックリしたでしょ?」
嬉々としていた妻だったが、急に「えっ!?」と大きな声を出した。その後も「そうなんですか!?」とか「嘘じゃないですよね!?」としきりに何かを確認していた。
今度合う約束の言葉を交わした妻が、電話を切った。
「どうしたんだ?」
私は楓さんの反応よりも、妻が驚いていた理由の方にしか関心が向かなかった。
「それがさ、先輩も今年の4月に子供が産まれてたんだって」
「はい?」
「私の出産予定が12月だったことも知ってみたい」
楓さんのほくそ笑む顔が頭に浮かんだ、振り払おうとしても、頑固な油汚れ以上のしつこさで脳裏にまとわりついてしかたない。結局、今回も私達は楓さんに泳がされていたわけだ。やっぱりあの人には敵わない。だから苦手だ。
「んでねんでね、女の子なんだけど名前がさ、『椿』ちゃんって言うんだって」
「同じ花の名前じゃないか」
「そうだけど、なにか気づかない?」
そう促され、私は思考を巡らせた。記憶をひっくり返してみると、「そういえば」と口に出していた。
「楓さんが持ち帰った君の浴衣も椿の柄だった」
「凄いよね!偶然?運命?」
確かに、ドラマじみた筋書きではあった。むしろ楓さんが綴った筋書きではないかと思った途端、背筋に冷たいものが走った。
「今度挨拶に行こうね。旦那さんも会ったことないし」
いろいろと驚かされたが、とにかく今日は良いに違いはない。娘の名前も決まり、妻の体調も問題なさそうだ。
この時は、もしかしたら家族が今後増えるかもしれないなと未来を思い描きながら、「そうだね」と妻へ言った。