第59話
「い、伊藤さん!?」
今度こそ、皇会長が飛び跳ねそうなくらいに驚きの声をあげた。これまでの威厳が覆る反応だった。伊藤さんと呼ばれた楓さんは、ムスッと芝居かかった不機嫌な表情をした。
「今は柊と名乗ってますけど」
「あ・・・すみません」
楓さん素直に謝る子供を前にした、母性に満ちた顔で「久しぶりね」と皇会長を見据えた。状況が整理できない僕たちはただポカーンとそのやり取りを見ることしかできない。何がどうなっているのか。なんで楓さんが皇さんの病室に?
「まさか雄君もいるとは思わなかったけど」
”ユウクン”とは誰を指すのかは、会話の流れで皇会長だとわかった。そして、名前が「雄一」であることを思い出す。「雄君」呼ばれた皇会長は、気恥かしさから僕たちは気にかけ「その呼び方は・・」と、弱い物腰で抗議にも満たない抵抗をする。
「あの、2人はどういった知り合いで・・」
尋ねると、楓さんは説明の構想を練っているのか、高層ビルでも見上げているかのように顔を上げた。そして、皇会長の肩をポンと叩いて「後輩」と言い、自分を指差して「先輩」と続けた。なにそれ説明になっているようで全然なってない。
「楓さんとは大学からの先輩だったんだ」
足りない部分を皇会長が補うように言う。そのやりとりがあまりに自然で、2人の関係性が大方予想できでしまった。皇会長も、楓さんの奇抜な行動や謎のハイテンションに苦労してたんだなぁ。
「そんな事よりも」楓さんの口調がチャンネルを変えたように変貌した。冷たく低く唸る声で「あなた、棗ちゃんを泣かしたの?」と、言った。口ぶりから察するに、僕の知らない所で既に楓さんと皇さんに接点があるみたいだった。
「い、いえ、これは、あの」
犬の尻尾を踏みつけたみたいに皇会長が慌てふためいた。僕も、同じ立場に立たされたら同じ反応をすると思う。だって、今の楓さん本当に怖い。数分前と同一人物かと疑うレベル。
「娘が倒れたと聞いて、それでさっき駆けつけたところなんです」白状、という言葉が似合う言い方だった。
「本当なの?」
皇会長にだけではなく、僕を含む椿と皇さんにも向けられた言葉だと気づいた。事実だけを述べるのなら間違いはないので、無言で首を縦に振り肯定する。
「じゃあ、どうして棗ちゃんは泣いてるの?よかったら聞かせてくれる?」
「・・・なんでもないです」
「苗が亡くなってから、きちんと話はしてるの?」
なんでもないのに涙を流す理由がない。お見通しだとばかりに楓さんが半分呆れながら皇会長に言った。聞き慣れない名前が出てきたけど、きっと皇さんのお母さんのことだ。
「・・・あまり時間がなくて」
「そういう駄目な所は昔から何一つ変わってないのね」
「すみません」
皇会長が肩を落としながら、短く簡潔に謝意を口にした。部屋に充満した重く滞った空気全てが、項垂れた肩に伸し掛かっているかのようだった。
「謝るなら私じゃなくて棗ちゃんにでしょ」
「・・・そうですね」
皇会長が纏っていた権威だとか威厳だとか、そういった凄みがポロポロと魚の鱗みたいに剥がれていく気がした。ああ、そうか。この人も、やっぱり僕と同じ人間なんだ。
「良い機会なんだからこの後ゆっくりとお話しなさい。それくらいの時間はあるでしょ?」
少し迷った後に、皇会長は「・・・はい」とだけ呟いた。全てを諦めた温度のない声だった。楓さんに逆らってはいけないという習慣が身についた成果の賜物なんだろうなぁきっと。
「あの。楓さんはお母さんとも知り合いなんですか?」
「雄君と苗は同じ大学で、どっちも私の後輩よ」皇さんの質問に、昔を懐かしみながら答えた。
「そうなんですか!?」
「知らなかったの?そもそもね、私が雄君と苗を引き合わせたの。それはもう苦労したんだから」
「そうなんですか!?」
「あっ、そうだ!夏祭りに椿ちゃんと棗ちゃんが着ていた浴衣があるじゃない?」
藪から出た言葉に、名前を呼ばれた2人は同じタイミングで頷いた。双子の姉妹みたいだった。僕は密かに過去の記憶を辿る。白色を基調とした黄緑の花が散りばめられた浴衣に身に包んだ皇さんと、黒を基調とした赤白の椿の花柄をあしらった浴衣を着た椿の姿が浮かび上がった。
「棗ちゃんの浴衣はね、昔は私が着ていた浴衣だったの。昔ね、手違いでお互いの浴衣を持ち帰っちゃって。でもサイズも変わらないしそのまま交換しようかって話になって」
「それじゃあ私が着てたのって」椿は呆然としていた。
「ええ。苗がもともと持っていたものね」
椿と皇さんが互いを見合わせた。こんな偶然があるのかと、視線で話し合いでもしているようだ。
「そしてね。椿ちゃんと棗ちゃんの名前の由来は、実はあの浴衣の柄からとったのよ」
2人を交互に見ながらそう告白した。過去を想い懐かしむように、楓さんがそっと目を細める。
「苗から貰った椿の花の浴衣と、私があげた棗の花の浴衣」
「マジか」思わず、僕は口にしていた。
「今更だけど、そこに立っている可愛い女の子が私の自慢の娘の椿ちゃん。まだ赤ちゃんの頃に一度抱っこしたでしよ?」
楓さんが皇会長に聞くと、「やっぱり・・・。昔の伊藤さんそっくりで驚きました」
椿が、皇会長にペコリとお辞儀をする。意図はわからないけど、「その節はお世話になりました」と礼儀としての椿なりの会釈なのだろうか。皇会長も何故かペコリとお辞儀を返す。何これシュールだわぁ。
「初めて棗ちゃんを見た時は驚いたわ。苗の面影そっくりの子が歩いてるんだもの。しかもトラ君と一緒に」
偶然の物語に、ようやく僕の名前が登場した。でも、あくまでエキストラ的なポジションでだけど。あくまでも、僕はこの偶然の物語の部外者だ。
「私も正直混乱してますよ。娘の友達が伊藤さんの娘さんで、獅子山君とも仲が良かったなんて」
「獅子山家とは昔からのご近所付き合いで、2人は幼馴染なんだから」
楓さんが自慢げに主張の強い胸を張ったあと、思い出しすように「そういえばね、家の中のアルバムを整理していたら面白い写真が出てきたの」と告げた。そのまま、その写真を皇さんに渡す。受け取った写真を眺めた皇さんの表情が、再び崩れて歪んだ。
その写真を見るよりも先に「椿ちゃん、トラ君、帰るわよ」と促された。
◇◆◇◆◇◆◇◆
すっかり冷たくなった夜風と行き交う車のライトを浴びながら、僕たちは歩いた。3人共向かう道は同じなので、寄り道でもしなければこのまま自宅までは一緒になる。
「あの、楓さん」
何から聞いたら良いのやら、考えが纏まらないうちに名前を呼んでいた。タイミング悪く大型トラックが通り過ぎて、大きなエンジン音に飲み込まれたかと思った声は、ちゃんと届いていたらしく、前を歩いていた楓さんは状態を逸らして振り返った。
「何が聞きたい?」
思考を先回りされたせいもあってか、頭の中に思い浮かんだのは最後に楓さんが皇さんに渡した写真だった。
「あの写真のことなんですけど」
「ふふ、あれね」僕が写真について聞くことすらお見通しと言わんばかりだった。もしろ、楓さんがしたためた筋書きに沿って動かされている奇妙な感覚がまとわりつく。
「苗や棗ちゃん達が写った昔の写真よ。なぜかアルバムに紛れていたから返してあげたの。詳しくは棗ちゃんに聞いてね」
それだけ聞いて、「はぁ」と生返事をした。何か、重要な事実を省かれている気がしてならない。
椿も同じ考えなのか、「ママはいつから知ってたの」と追求した。随分とアバウトな質問だけど、僕たちがどこまで状況を把握しているのかがわからないので、それが今は丁度よい度合いだと思う。
「大きくなった棗ちゃんを見かけた時にから。まさかトラちゃんと椿ちゃんと仲良しだなんて想像してなかったけど」
僕もまさか皇夫妻と楓さんが深い仲だとは思ってなかったよ、と口にする前に、腹の虫が食べ盛りの腹から鳴いた。
「こんな時間だし、今日は外でご飯食べていこっか」
楓さんの声が街の喧騒に溶け込んでいく。言葉自体がスキップしているかのような、明るく楽しそうな印象だった。
「パパの晩御飯は?」
「そうだった・・・弁当か外食で済ますように連絡しておかなきゃ」
他所の子である僕には関係のない家庭の会話なので聞き流す。僕の家の晩御飯はなんだろう。メニューを想像していると、思わぬ提案が舞い込んでくる。
「トラちゃんは何を食べたい気分?」
「へ?」
「何を食べたい気分なの?」
「え、僕も?ってか、持ち合わせないんでこのまま帰りますよ」
「いいのいいの。せっかくだから3人でご飯行きましょう。その時に話しを聞かせてあげてもいいわよ?」
ご馳走になるのと、幼馴染とその親とご飯に行くという羞恥プレイが僕に「はい」というのを躊躇わせた。僕の逡巡虚しく、楓さんは素早く携帯を取り出し、どこかへ電話をかけた。なにやら短いやり取りをしてすぐに通話は終了した。
「トラちゃんのお母さんも『よろしく』だって」
「あはは」
その後、宣言通りファミレスに寄った。割と混んでいたけどさほど待つことなく通され、皇夫婦とのエピソードを聞いた。皇会長から似たような話しを聞く機会があるけど、それは少し先のお話だ。
こちらも執筆を始めたので、よろしければご覧ください_(┐「ε:)_
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