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第58話

 病院に似つかわしくない荒々しい足音が聞こえた。その音はこの部屋のドアの前で停まったかと思うと、慎重さと荒々しさの丁度中間くらいの勢いで引き戸が開いた。



 重苦しい空気が充満した部屋の中に突然現れたのは、息を切らした皇会長だった。いつもは紳士服を几帳面に着飾っているイメージだけど、今はネクタイを緩め、Yシャツは第二ボタンまで外されていた。背広は腕に掛けている。



 荒い息を整える父親の姿に、皇さんが目を丸くして固まっている。見てはいけないものを見てしまった、といった反応だった、やがて、病人である皇さんが「どうかしたの?」と、逆に聞き返していた。確かに今の様子だと皇会長の方がよっぽど一大事に見える。

「地球が滅ぶぞ」と、今にも叫びそうだ。




 目に飛び込んだ状況の整理をしているのか、皇会長はベッドに起き上がっている皇さんに目をやり、次に僕と椿を見た。僕たちからは廊下から差す灯りが逆行になり、皇会長の表情はハッキリとは伺えない。



「体は大丈夫なんだね」



皇会長が短く言うと、緊張の糸が切れたようにドアに手を当て、自身の体を支える態勢になる。僕には娘の無事を知り安堵で力が抜けたように見えたけど、皇さんは「何をやっているの?」と言わんばかりの不思議な光景を見る視線を皇会長に向けていた。



「今はアメリカにいるはずじゃ・・・」


「君が倒れたって聞いてね」



 皇さんの横顔を窺うと、暗がりの部屋の中で頬に涙が伝っていた。しっかりと濡れている。今までせき止めていた分がどんどん溢れ出す勢いだ。



「えっ」


 驚きの声を出したのは、涙を流している皇さん本人だった。止まない涙を拭ってはまた垂れてきて、また拭っては垂れてを繰り返す。今起きている事象が理解できていないように、何度も。



「……どうして?」



 その言葉は、皇会長の会話の続きなのか、今もなお止まない涙に対してなのか、あるいかその両方に向けているのかは汲み取れない。



「どうして・・・来るのよ」


「子供が、倒れたと聞いて、心配しない親、がいると、思うのかい」



 整わない息で喋るので、言葉は途切れ途切れだ。でも、紛い物じゃない本物の言葉であると、親子じゃない僕にでもそれが届いた。だけど、皇さんは「お母さんの時は来なかったくせにっ」と、それを拒絶した。



 皇さんの変貌に、椿がどうしたらいいのか右往左往しているのが暗がりの部屋でもわかった。僕も同じだから。理性的な皇さんが、泣きながら小さい子供みたいに父親へ不満をぶつけている。もう少しすれば、夜が更けてその涙さえ見えなくなる。



 苦痛に耐えるように皇会長が顔を歪めたかもしれない。そして、何かを言いかけたところで、僕たちが居ることによって遠慮をしているのか、その言葉を飲み込んだ。



「獅子山君か」



 まさに今、僕たち気づいた様子で皇会長が僕の名前を呼んだ。 気まずい現場に遭遇された後ろめたさからか、眉を少しさげ苦く笑う。



「君には毎度、不思議な縁があるね」


「そ、そうみたいですね」



 ここで僕は、ようやく部屋に電気を点けることに思い至る。黒く淀んだ水面に、希望の一石を投じる気持ちで壁のスイッチを入れる。



 人の輪郭しか認識できないくらいに暗い部屋は嘘みたいにすぐに照らされた。戸惑う椿に、皇さんは未だに溢れた感情を涙に換えている。そんな娘を皇会長は力なく眺めていた。



 状況がカオスすぎて収集がつかない。なんだこれは。犬のおまわりさんも困ってしまって、尻尾を巻いて逃げ出すレベルだよこれ。すると、皇会長は「伊藤さん!?」と大きな声を上げ、自分の声に驚くように口元に手で蓋をした。


 皇会長は明らかに椿を見て目を大きく開けていた。


 部屋を見回しても、その「伊藤さん」という人物はいない。そもそもさっきから誰も部屋に入室はしてない。じゃあ、「伊藤さん」って誰?



「ママの旧姓・・」椿が小さく、確かめるように言った。「伊藤は、柊楓の旧姓ですけど」



 目を赤く腫らした皇さんが「えっ?」と呟く。


 その時、ドアのノックのする音が聞こえた。全員が一斉に振り向く。この事態を誰かに見られる焦りが共通してあったのかもしれない。控えめに、少しだけどドアが開いた。中の様子を伺うべく開いたドアの隙間から覗いた顔に、見覚えがありすぎた。



 その人物は、「んーーー?」と怪訝な態度を包み隠さず声に出すとわガラガラとドアを開けた。楓さんだ。椿ママだ。カオスな現場にカオスな人が現れた。



「い、伊藤さん!?」


 今度こそ、皇会長が飛び跳ねそうなくらいに驚きの声をあげた。伊藤さんと呼ばれた楓さんは、ムスッと芝居かかった表情で、「今は柊と名乗ってますが」と、ピシッと言った。


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