第57話
結局、皇さんは体調が優れないままテストの全日程を受けきり、直後ついに体力の限界を迎えた。
帰宅しようと立ち上がった時には力なく床に倒れかけた。すんでの所で椿が皇さんの体を受け止め転倒は免れたが、洗い呼吸と苦しそうな表情は、こちらが見ていて胸が紐で縛られたように苦しかった。
僕たちは外で待つ皇さんの迎えの車まで誘導して、そのまま近くの病院へと向かうことになった。搬送先の病院から家が近い事もあり、僕と椿の2人も付き添いとして一緒に病院へ行くことになった。
検査の結果、体調不良は過労によるものだった。長い間睡眠不足が続いていて、免疫力がだいぶ低下していたらしい。点滴をして、しばらくの間安静にしていれば心配はないだろうと病院の先生から説明があり、僕たちはひとまず胸をなでおろす。
これから念の為に細かい検査を行うようで、今日のところはひとまず帰るよう促された。後ろ髪を引かれる思いだったけど、医者から「心配ない」と聞けただけで十分な収穫なので、スマホからメッセージを飛ばし皆に報告を済まして病院を出た。
帰り道。ふと見上げると灰色の分厚い雲があちこちに浮いていて、そこから晴れ間が覗く空模様が広がっている。それは、今の心境と重なってみえた。皇さんの容態がひとまず問題ない事と、今回のテストの結果次第ではこの高校にいれなくなる可能性がある事が入れ混ざって、まさに曇りなのか晴れているのかどっちつかずだった。
「また明日、お見舞いに行こう」
沈んだ気持ちに新しい空気を入れ替えるように僕が提案すると、「ん、そうだね」と椿が頷き、「あのさ」と続けた。
「なんだか棗、様子がおかしくなかった?」
「具合悪そうだったからね」
そういう事じゃなくて、と椿は前置きをして「あれだけ具合が悪いのに、無理して登校しながらテストを受けて。何か理由があるとしか思えない」と、はっきりと口調で言った。
「・・・考えすぎじゃない?」
「だといいけど。それか皆勤賞でも狙ってたとか」
「そうかもしれないね」
帰りは駅を利用しないで徒歩で家まで帰る事にしたため、国道沿い歩いている。その後、僕たちの間には会話はなかった。互いがのんきな会話をする気にはなれなかったからだと思う。車の往来が激しく、タイアがアスファルトを蹴る音が鳴り止まない。騒音に近い音が、僕たちの無言を埋める騒音となっていて今はありがたい。
そろそろ自宅まで近づいてきた所で、気まぐれな猫が唐突に話しかけるように「ねぇ」と椿が言った。ニャアではなかった。
「昔さ、私が大熱出した時にトラが『椿の部屋に泊まる』って駄々こねたの覚えてる?」
「あっふん」それは、触れてほしくない僕の黒い方の歴史だった。いやいやお恥ずかしい。
僕の変な声を肯定と捉えた椿さんは、心にグリグリと刃物をねじ込む行為と気づかずにそのまま話しを続ける。
「おばさんに怒られて家に戻ったけど、その後家から抜け出してまた私の家に来たんだよね」
「そういえばあったかなーどうだったかなー」
人の黒歴史を今更ひっくり返す椿に、「あなたは何が望みなんですか?」と問いただしたい。しなけど。
「それで、結局何が言いたいの?」けどこれ傷口をこれ以上広げるのを避けるため、話の核心を探る。
「あの時嬉しかったなって、思い出して」
「それはよかったですね」
「だからね、トラがお見舞いにいけば棗はすごく喜ぶと思う」
「誰が行っても喜ぶよ」
僕が言うと、椿から返事が帰ってこなかった。キャチボールの暴投で後ろに逸らしてしまったような変な気持ちになる。あれ、なんかおかしな事行っちゃいました?みたいな。
奇妙な間が生まれた後、椿が隣で大げさにため息を吐き「苦労するなぁ」と、小さく零した。
「え?なんだって?」
「なんでもない・・・アホ」
今「アホ」って言わなかった?確認する前に、「コンビニ寄ってくからここで」と、一方的に言われ途中で別れてしまった。このモヤモヤは家に持ち帰る事になりそうだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日になり、授業をこなした僕と椿は皇さんが入院している病院へと向かった。大人数でおしかけるのを避けるためと、皆は部活動が再開しているため、あくまで代表として行くわけで、深い意味はないと予め言っておこう。
受付で手続きを済ませ、指定された個室部屋まで向かう。重厚に閉ざされたドアの横に「皇 棗」と書かれたネームプレートを確信してから、ドアをノックした。
ドア越してに「どうぞ」とくぐもった声が聞こえたので、なるべくそっと開けると病院服に身を包んだ皇さんがベッドの上に座っていた。
「ちょっと、来るなら連絡くらい入れてくれるかしら」
皇さんが慌てた仕草で髪を手櫛で梳かす。確かに、いつもは真っ直ぐに下ろしている銀髪が所々跳ねている。それが僕と同じ人間の証拠でもあり、ちょっぴり微笑ましい。
「体調は?」慌てている皇さんとは対照的に、椿の声は落ち着いていた。
「問題ないわ。少し疲れが溜まっていただけみたい。心配かけてしまってごめんなさい」
自分の失態を恥じるように、照れ臭さを滲ませながら言った。その疲れが溜まっていた皇さんが寝ているベッドに備え付けられたテーブルの上には、テストの問題用紙と教科書類、そして赤ペンが散らかっている。自己採点をしているのだと、すぐにわかった。
「いつまで入院になるの?」
「入院なんて大袈裟よ。今日と明日経過を診て、来週には問題なく登校できるわ」
今日が木曜日なので、土日を挟めば4日もも日数がある。それくらいなら、言う通り問題はなさそうかな。
会話を聞いてるうちに、手に提げ ていた袋の存在をすっかり忘れていたことに気づく。
「あの、これ、気持ちだけと」
病院に寄る前に、コンビニで買っておいたヨーグルト類のお見舞い品を手渡す。「手ぶらよりはマシ」程度だけど、それにそぐわない丁寧な手つきで、皇さんはそれを受け取った。
「ありがとう」
大切な宝物を譲り受けた子供みたいな、屈託のない気持ちのこもった言葉だった。大人からすれば取りにたらない玩具を、一生の宝物として扱う慎ましを目の前にして、動悸が早くなるのを感じた。もしかしたら僕の顔は赤くなってるかもしれない。
「た、大した物じゃなくてごめん」
「充分嬉しいわ。あ、このヨーグルト好きなの」
「よかった」
いつもより弾んだ声に、本当に大事じゃなさそうで良かったと安堵した。けど、椿はその異変に気付いていたらしく、パカッと口を開けた。
「どうかしたの?」
和やかな雰囲気に水を差すような椿の唐突な言葉に「えっ?」と皇さんが拍子抜けだ声を出した。僕も、同じ声を出していた。
「何か悩み事とか隠し事してない?」
椿からは、確信に満ちたエネルギーみたいなものが溢れていた。展開についていけずに、僕は呆然と成り行きを見守る。
「いきなりなんの話?」
「疲労で倒れる理由があるんでしょ。トラも何が隠してるみたいだし」
「....今さっきまで、自己採点をしていたのよ」
逡巡があったのか、遅れて口を開いた皇さんの声は物語のプロローグを静かに語り出す口調だった。
「何度確認しても、今までで最低の点数だったわ」
「それって」
思わず、外野の僕が口を挟んだ。皇さんはそれを合の手と受け取ったのか、「ええ。あの人との約束は守れそうにないかもしれない」と言葉に重みが加わったかのように言った。
「約束?」
椿が尋ねた。「実はね」と、皇さんが呆気なく皇会長との約束を話し始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
一通り皇さんの話しを聞き終えた椿は、すんなりと信じる事ができないでいる。ただ、内容を頭の中に落として溶け込ませようとしているのは伝わった。
「それって本当なの?」
「本当よ」
「じゃあ、今回の期末考査の成績次第で転校しちゃうってこと?」
「それはあの人のと交渉次第ね」
「体調が悪かったって言えば」
「どんな理由でも、一位以外はダメなのよ」
話しの上澄みだけを汲み取ると、皇さんに日々背負わせている重みを課した皇さんのお父さん、皇会長が非情な人と強く印象付けられると思う。けど、僕は3度も直接話しをしたから朧気ながら解る。皇会長は、皇さんが思っているような冷たい人じゃないんだ。今の僕がそれを説明したところで信憑性はないだろうけど。
そもそも毎回成績一位を収めるなんて馬鹿げた約束だし、それを守り続けている皇さんがそもそも馬鹿げている。その馬鹿げた親子同士の歪な約束は、妙なバランスを保ちながら今まで成り立ってきていたんだ。
「短い期間だったけど、この高校で過ごして本当に楽しかったわ」
「まだ決まったわけじゃない」言葉を払いのけるように、椿は言う。
「獅子山くんにも迷惑かけたわね。でも、もういいの」
皇さんに言われ、僕は何かを言おうとしたと思う。まだが気持ちが定まっていないから「あの」とか「えっと」とか、恐らくそんなあやふやな言葉で間を保とうとしたに違いない。でも、椿によって遮られた。
「いいわけない」
この力強さを僕は知っている。まだ2年生に上がる前の冬、僕はこの力強さを正面からぶつけられた。幼い頃はずっと僕の後ろを歩いていたこの幼馴染によって。
「でも、どうしようもないのよ」
「やってみなくちゃわからない」
何の説得にもなっていないただの精神論が、椿の口から放たれる。
日が沈みかけ、部屋は日中の薄膜が次々と剥がれされて暗くなっていく。薄暗くなった窓の景色から、ふいに痩せた1本のモミジバフウの樹を見つけた。紅葉によって染まったオレンジ色の葉を見て、2月の冬の公園で椿によって執り行われた「不満暴露大会」を鮮明に思い出す。こうなった椿は折れないんだよなぁ。外は風が強いのか、病室の窓が寒さで震えるようにカタカタと鳴り、当時の「不満暴露大会」の時に吹いた冷たい夜風が、そのまま窓に当たっているように思えた。
「貴女はどうしてそこまで・・。私が居なければあなたは今頃きっと、その・・」
皇さんの言葉は、最後の方になるに連れて弱々しく萎んでいき、ふいに僕に視線を投げすぐに俯いた。
何秒か、何十秒か、しばしの重い沈黙が部屋を包んだ。長い時間に感じられる沈黙に耐えかねて身をよじると、病院に似つかわしくない荒々しい足音が聞こえた。
その音はこの部屋のドアの前で停まったかと思うと、慎重さと荒々しさの丁度中間くらいの勢いで引き戸が開いた。
現れたのは、息を切らした皇会長だった。