第42話
「位置について!........用意!」
スタート合図の後、ピストルの乾いた大きな破裂音が響く。驚いた鳥が羽ばたくように、第一走者が小さな砂埃を置き去りにしながら一斉に駆けていく。上がる歓声に紛れて、隣にいる彼女の横顔を伺った。
息を呑むほど綺麗で艶のある黒髪は、陽に照らされて黒紫に鈍く輝き、長いまつげの反り返りは、まるで光をそこへ溜め込むためのよう。通った鼻筋に形の良い唇は、名の通り椿の鮮やかな花の色をしている。高い身長にスラリと長い手足、無駄のない肉付きなのに欲しい場所には余分と言っても差し支えないくらいに付いている。何よそれ、私や周囲の人にも分けてあげなさいよ。
控えめに言っても素敵だと改めて思う。初めて彼女を見た私の感想は今も変わらない。
学年テストでも、たまに気が向いたかのように突然次席の成績を残すし、本当にもう何なのあの子は。どうしたって視界の中にチラついて気になって仕方がない。負けず嫌いの私の内面は、人知れず炭火のようにじっくりゆっくりと赤く静かに対抗心を燃やす。
リレーは接戦で、第三走者にバトンが渡るまではあまり差がなかった。この調子でいけば、最後のアンカー次第で勝敗が分かれる勝負になりそう。
体育祭の実行員の生徒が最後のランナーへ配置につくように指示が入る。球技は壊滅的に苦手だけど、単純に走るだけなら自信はあるのよ、実はね。
「頑張ろうね」
アクを取り除いた澄み切った声がした。小川のような静かな低い声色は、品位さえ感じられて心地よく耳に残る。
振り向くと、柊さんが微かに笑っている.....気がした。僅かに上がった口角や下がった目尻の変化なんて、曇ったレンズで覗いているくらいのわかりにくさだけど、それがまた彼女らしいと思った。
「負けないわよ」意地になってそう言うと、「ん」ととても短い返事が帰ってきた。彼女の口癖だと、以前に獅子山くんから聞いたことがある。この素っ気ない返事は案外嫌いじゃない。
不思議と彼女と話していると、一度どこかで会った事があるかのような懐かしい気持ちになる。でも、その疑問をすぐに頭の片隅に追いやる。
ランナーは既に目前まで迫っていた。白組と青組が僅かにリードしているけど、勝負の行方はまだわからない。心臓が地団駄を踏んでいるかのように、ドンドンを力強く脈打っているのがわかる。
ゆっくりと走りつつ、バトンを受け継ぐタイミングを図り後ろへ手を伸ばす。第三走者からの「皇さん!」と声が聞こえたと同時に、手のひらにバトンが渡る感触がした。練習はしてなかっけど、ひとまずは問題なく受け取ることができた。
バトンを託された後は、ただ手足をひたすら動かして前を目指すだけ。体を跳ねながら更に前へ。目前の視界にある風景を一瞬で過去にするようにただひたすら脚を前へ前へと動かす。
声援も何も聞こえない、ただ前を目指すだけ。それだけを考えて。
思いの外すぐに息が上がったのか、頭に酸素が回らなくなり思考がぼやけてくる。あれ、どうして私はムキになって走っているのかしら。
そうか、辛い過去や嫌いなあの人のせいだ。きっと、溜まった鬱憤を燃料にしながら私は稼働している。そして稼働するたびに、燃料が少しずつ減っていき不思議と気持ちが軽くなる気がする。このまま、ずっと走っていたいとさえ思える。
隣のレーンには、結った黒髪をなびかせながら柊さんが並走している。馬の尻尾みたいね、それ。
「....っ!?」
「ブチ」という音が聞こえた瞬間には、既に脚がもつれ地面が私めがけて跳ね上がっていた。
咄嗟に反応して両手を前に出し、地面を押し返そうとしても試みたけど無駄だったみたい。跳ね上がった地面が、容赦なく私の全身を叩いた。
「痛.........」
すぐに転んだと自覚した。すぐに立ち上がろうにも、強烈な痛みが右足首を襲って立ち上がれない。後ろを走っていた走者たちは、転んだ私の様子を伺いながらも次々と越されていく。
「立てる?」
「......え?」
引き寄せられるように顔を上げた。柊さんが腕を伸ばし、私に差し出したままの姿勢のまま足を止めて私を見下ろしていた。もちろん、立っている場所はレーンの中。
「.....走らなくていいの?」私は質問をするというより戸惑っていた。
「ん、それよりも心配だから」
アンカーがゴールテープを切ったようで、その様子を私と柊さんは後ろから眺める。
「靴紐が切れたみたいだね」
言われて見ると、右側の靴の紐が確かに切れていた。あの「ブチ」という音の正体はこれだったみたい。縁起が悪いし、どうしてこのタイミングで切れてしまうのかしら。
「掴んで」と言いながら、私の目前まで繊細な手を差し出してくる。反射的にその手を掴むと、壊れ物を扱う慎重さと丁寧さで引き上げられた。
砂まみれの体を起こすと、痛めた足首が原因でうまく歩くとができなかった。どうやら捻ったらしい。
「柊さん、お願いがあるのだけど」
「いいよ」
「まだ何も言ってないわよ」可笑しくて、自然と笑いが溢れた。
「保健室でしょ」
「ええ、このままお願い」
彼女は「ん」と肩を貸しながら、私のゆっくりな歩調に合わせて歩きだした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
一緒にリレーを観戦していた柿沼が、「今回はお前の出番はないようだな」と僕の頭の上に大きな手を乗せながら言ってきた。子供扱いされている気分だったけど、「そうみたいだね」と歩く二人を見送る。
リレーは接戦でどちらが勝つかわからない展開だった。けど、最後に皇さんが転倒、しかも結構派手目にしたものだから、会場が騒然として空気が一気に冷え込んだ気がした。
誰かが駆けつけるよりも早く、僅差で並走していた椿が足を止め、皇さんの元へ駆け寄った。一言二言会話を交わし、椿は肩を貸したまま校内の方向へと歩いていったので、恐らく医務室へ誘導したに違いない。その一コマは青春ドラマのワンシーンそのものであり、僕はそのドラマの撮影現場に遭遇した一般人、もしくはエキストラだった。
皇さんの怪我の具合か心配だけど、今は椿がついてくれてるし問題はなさそうだ。それに、なんだか今はそっとしといたほうが良いと言うか、僕はお邪魔な気がする。
そのまま閉会式が始まり、優勝は赤組と発表されたけどどの組が優勝しようが興味がない僕は「あ、そうなんだ」程度で話しを聞いていた。校長のお話でこのイベントは締めくくられ、その場で解散となった。
本来であればこのまますぐに帰るところだけど、閉会式の後も椿と皇さんが戻ってこなかったため、柿沼と由樹と一緒に保健室へ向かうことにした
校舎の中は、夕日の陽によって常夜灯に照らされているみたいに薄暗いオレンジに染まっていた。人気もなく、僕たちが歩く足音が響く廊下を渡り保健室へたどり着く。少し空いたドアの隙間から話し声が漏れていた。
失礼しますと戸を開けると、左足首に包帯を巻きつけて座っている皇さんが「来てくれたの」と驚いた表情をした。横には付き添いの椿と、柿沼を籠絡した常滑さんの姿もあった。
包帯が巻かれた痛々しい足首に視線を向けながら「怪我の方は大丈夫なの?」と訪ねると、「軽い捻挫だから問題ないわ。そろそろ迎えが来る頃だからここで待たせてもらってるだけなの」と擦りむいた右膝を少しさすりながら皇さんは言った。
「大した怪我じゃなくてよかったよ」由樹も一安心の表情で言う。
「心配をかけて申し訳ないわ」
「そんな、別に皇さんが謝ることじゃないよ」
二人が話している途中だった。ノックと共にドアが開いて数人が医務室へ入ってきた。皇さんと一緒にリレーを走ったメンバーだった。皇さんの具合をみにきたらしく、すぐにまた別の生徒もやってきて、保健室の密度が一気に高くなり賑やかになった。
「え、ちょっと」
皇さんは驚いてもいたし、どうしたらいいのかわからずに僕に視線を送っていた。どうして皆来てくれたの?という疑問が顔に出ている。困ったように照れながらクラスの皆に対応する表情が印象的だった。誰も寄せ付けないとする一年前までの姿は、今では見る影もなくなっていた。
暫く投稿の間が空いてしまいました。
章立てはしてませんが、ここで第1章完結という具合と思ってます。
これから、色々と回収しつつ完結まで書き上げていきたいと思います!