第32話
椿は白く浮かび上がるような細い指を僕に向けて「トラ」と短く言った。
「・・・・僕?」
「ん」
「・・・・僕?」
念のためにもう一度言うと、やっぱり「ん」と返事が返ってくる。
「・・・それは」つまり、どういう意味なんだろう。
意味を計り兼ねている僕に、補うように椿が続ける。
「私の誕生日は平日だから、週末に買い物に付き合って欲しい」
「買い物に?」
「そう。私へのプレゼントとして、トラの時間が欲しい」
物足りない外灯の明るさに照らされた椿の横顔は、僕が知っている小学生の頃の幼き記憶を蘇らせた。ただ単純に駆け引きも計算もなく、言葉通り僕の時間が欲しいと訴えかけるような、そんな純粋無垢な顔をされたら出す答えなんか決まっている。
それにきっと、誕生日だからとか関係なしに、椿にお願いされると僕はきっと断れないと思う。この気持は「情」に分類されるのかもしれない。
「僕の時間なんかで良いなら」
僕がそう言うと、「約束ね」と椿は小指を差し出してきた。意図はわかったけど、応じるには流石に抵抗があった。
「高校生にもなって指切りげんまんは無いでしょ」
「いいから」
従わないと、ずっと小指を向けられそうだったので「はい」と素直に僕の小指を差し出す。
結局、無言での指切りが交わされた。このやりとりが、幼い頃のやり直しのようで心がむず痒くなる。漫画のように、触れ合った指からお互いの気持ちがわかるなんて事はなかった。ただ、椿の冷たい指の感触が、離した小指にまとわりついただけ。
「それじゃ、今週の土曜日で良い?」
「うん、問題ないよ」
「決まり」
「おう」
「場所は私が決めていい?」
「いいよ。決まったら教えて」
という事で、急遽椿の買い物に付き合うことが決定した。一緒に出歩くなんて何年ぶりだろうか。
用件が済んだのか「いい加減家に戻らないと」と言う椿は少し寒そうに身体を擦っていた。風が少し強くなってきた影響で、肌に当たる風も冷たく感じる。この辺りで丁度良い頃合いかもしれない。
それに、前回のようにまた風邪をひかれても困ると考え、「それじゃ帰ろっか」とこの時間の幕引きを促す。「ん」といつもの返事をする椿だったが、その声は炭酸のように弾んでいた。
「あ、最後に」
「なに?」
椿宅に着いた僕だったが、ふと思い立って声をかけた。
「連絡先。家が近いからと言っても、聞いておかなきゃ何かと不便でしょ?」
「そうだね」
「Rainでいい?」
「うん」
僕のIDを検索してもらい、椿から友達の招待依頼が届いたので、「連絡先に追加する」をプッシュする。こうして、僕の連絡帳に男子生徒の憧れ(笑)の椿の連絡先が追加された。
「なんだか今更って感じだな」
思わずそう言うと、「ここまで待たせないでよ」と言われたので、「えっ、ごめん」と何故か謝るハメになってしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
少し身体が冷えた。4月中旬とは言え、風が強いと朝と夜はまだ寒いみたい。
それにしても、思いもせずに手間が省けた。トラから連絡先を聞いてくるなんて意外。男の子って成長するんだね。誰目線なんだろ。
公園から自宅に戻った私は、ひとまずお風呂に入って身体を温めるのを優先する事にした。
「ただいま」
「あら椿ちゃん、おかえり」
「先にお風呂入って良い?」
「良いわよ、早く入っちゃって」
「うん」
「外は寒かったでしょ?またトラ君と外で長居すると風邪引いちゃうわよ?」
いつも飄々としていて道化を演じているようなママだけど、いつもの事ながら鋭い。ここで駆け引きをしても、どうせ私が負けるに決まってるので「気をつける」とだけ言っておく。不用意な言葉はママには危険すぎ。
脱衣室で衣類を脱ぐ際、ブラのホックがなかなか外れなくて違和感を覚える。今朝に付けた時にも違和感があったけど、やっぱり少し窮屈で苦しい。数ヶ月前に新調したブラだけど、またサイズが合わなくなったかも。
また新しいのを買わなくちゃいけないのかと、ため息を吐きながらお湯に浸かりトラと出かける日の日程を考える。けど、思考は立ち込める湯気のように、モクモクと湧いては上に昇ってうっすらと消えていく。
鼻歌なんかも歌ったりして、今の私はわかりやすくご機嫌らしい。どうしようかと、あれこれ考えるだけで楽しい。旅行に行く前に計画を立てる楽しさって、こんな感じなのかな。
結局長湯をしてのぼせてしまった。海岸で横になっているオットセイみたいな格好のまま、私はだらしなくソファの上で身体の粗熱が出ていくのを待つ。
少し先に楽しみができた。それだけで、明日も頑張ろうって思えた。
翌日、朝の弱い私は今日も眠気が身体にしがみついたまま離れず、そのままズルズルと引きずっていく気持ちで学校へと向かった。
いつも遅刻ギリギリの時間に教室に入るので、殆どのクラスメイトが既に来ている。私より後に来る生徒は多くて数人程度。遅刻の人だけどね。
友達に挨拶をしながら自分の席を目指す。そして、隣の席であるトラへと向かって挨拶をする。これがいつものルーティーンとなっていた。
「おはよう」
「お、おはよう」
トラは後ろの席の皇さんと何かお話をしている途中だった。会話を遮っちゃったけど、悪気はないの。朝の挨拶は大事だから。
皇さんにも「おはよう、皇さん」としっかりと名前を呼んで挨拶をする。すると、無視をしないで必ず「おはよう、柊さん」とちゃんと名前付きで返事が返ってきた。その後は、席の近い柿沼君と由樹に挨拶をして学校での1日を迎える。
最近トラは、皇さんをクラスに溶け込ませようと頑張っているらしい。お昼も教室で食べないかと誘っていたし、事あるごとにクラスの輪の中に優しく手を引っ張っているようだった。
でも、皇さん攻略が険しい道のりなのは明確な事実で、現にトラのアプローチは依然として皇さんに響いている様子は微塵もなかった。というよりも、私には皇さんがその輪の中に加わるのを怖がっているようにもみえる。
今の私は少し離れた位置からトラを、2人の様子を見守ることしかできない。
それから早いもので、金曜の学校が終わって明日はお休み。つまり明日はトラとお出かけの日。
私はトラに集合時刻を知らせるため、一通のメッセージを送った。
徐々に色が変化する液体が入ったフラスコを観察する実験のように、私はフラスコじゃなくメッセージを送った端末機をじっと観察する。何か変化はないか、実験が成功するのか、失敗するのか、結果を待ちながらハラハラドキドキしているみたい。
暫く待っても、スマホはクーポンの類のお知らせしか配信してくれない。ドキュメンタリー番組の演出さながら、諦めかけたその時だった。
"トラさんからメッセージが届いてます"
来た。すぐさま開封すると、「了解~」と文字が目に入った。「遅れないように!」と返すと、すぐに既読が付いて「わかってる」と返ってきた。
だらしなく鼻からムフーーー!と息を吹き出す。明日が待ち遠しい仕草だから仕方ないよね。トラと遊ぶなんて本当にいつ以来だろう。昔のように公園で遊ぶなんて事はないだろうけど。
朝が弱いので、待ち合わせに遅れないように今日は早めに寝ちゃおうかな。アラームをかけて、実際に目を瞑るけどなかなか寝付けない。明日のイメージと、幼い頃に遊んだ記憶が交互に頭の中で繰り広げられ、終いには混じり合ってどんどんおかしくなっていく。
寝つけないから、ダラダラと長い時間スマホを弄ったりしていて、割と遅い時間になってようやく意識が遠のいていった。
「・・・・・きちゃん・・・椿ちゃん」
身体がゆさゆさと揺れている。違う、揺らされている。
目が覚めると、私の部屋の中にママがいた。電気なんか点けたっけ?周りがやけに明るい。あ、そうか、朝になったのか。
「・・・・・・・・おはよう」
「おはよう椿ちゃん。アラーム鳴ってから随分経つけど時間大丈夫?」
「・・・・えっ?」
時計を見ると、起床予定時刻から一時間も過ぎていた。
「・・・・・・・・・・・っやば!!」
一瞬で意識が覚醒した私はドッタンバッタンと慌ただしく支度をして、その様子を新聞を広げたパパが呆れたように見ていた。