あの子を探して
無愛想というよりは無表情の入国審査官に仕草で呼ばれたのでブースに近づく。パスポートを差し出して、しばし。
毎度のごとく繰り返される必要最低限の会話は、前回と同じように短く済まされた。
空港にはそれぞれ特有の香りがある。なんていうか、うまく表現できないけど……『その人にとっての故郷』っていうか。
異邦の空気を吸い込みながらセントルイス・ランバート国際空港で乗り換えてコロンビア地域空港に到着。三十路は越えてから一気に『来る』。ほんと、昔ながらの知恵は侮れない。馬鹿にせず、厄年は意識しとくべき。
体力が心もとなくなってきたし、本音では今日の活動はここまでにしておこうか。
うん。無理。
4度目くらいから小さく纏めるコツを掴んだ私の荷物は、いまや長期旅行者らしからぬコンパクトさになってる。軽量さと頑丈さを重視して選んだトランクを引き、横についてる外ポケットからラミネート加工した紙を取り出してレンタカーのブースへ差し出す。
英語が不自由なまま小さな極東の島国で生きてきたことに後悔はないけど、まさか自分がこんなに頻繁に渡米、自由滞在を重ねる日々を送るとは思わなかった。
人生、まったくもってナニが起こるかわかんない。
レンタカーについても毎度のやり取り、片言混じりのまま手続きを終わらせたら、たどたどしい手つきでナビを設定。ああもう、左ハンドルも日本とは逆の住所表示もほんと面倒。
ここら諸々の手続きだとかあれやこれやってヤツには、おっそろしく、そりゃーぁもう、ものすごーく困らされてるし不便だけれども、なんとなく張りたい意地は、私をして英会話を習わないままでいる、の結論を出した。
……あぁっと、立ち寄りたい箇所もナビに打ち込まないといけないや。前回でココまで行けて、次からの続きだから、ええと、今度はミラー群ってとこを目指せばよかったハズ。最終目的地はスプリングフィールドから広がるカルスト台地のどこか。
気が遠くなるのをこらえて、うんざりを噛み殺す。
重ねて主張したい。左ハンドルは嫌い。日本と反対側が主要車線だってのもヤダ。言葉は上っ面しか通じないし、対峙してる相手がね。んー、んんん。こう、言いにくいな、なんていうか、底のほうに揺蕩ってる、オマエは白人じゃないからねって意識がさぁ。
ええぃ、伝われ、このアウェーな空気感。
そこはかとなく伝わってくるニュアンスは、もしかしたらぶっちゃけた同族嫌悪なのかもしれない。もしくは被害妄想に近かったりするのかな? 疲れてんの?
あぁ、うん、そだね。それは間違いないわ。
「私、疲れてるのよモルダー」
独り言が車内にくぐもって窓ガラスで跳ね返される感覚にも、あはは、慣れてきたかもしれない。慣れちゃいけないと思うんだけどな。
「そろそろおねぇちゃんは限界だよ、麗奈」
なんだろうとココだけは断言していい。いますぐ誰かに、切実に助けてほしかった。掛け値なしの本音、現地に詳しくて信頼できる案内人が欲しい。もう少し夢見るなら小説に出てくるようなヒーローにいてほしい。
翻訳物のサスペンスロマンスに欠けちゃぁいけねぇ、正義に溢れた保安官みたいな人にいてほしい。……とか、もう言わない。思わない。
だから。
3年前に行方不明になった妹、麗奈を私の代わりに見つけてくれる人なら。
きっと、誰でもいい。
留学先での休暇を利用し、現地でのプチ旅行に行くね~ってツイートしたあと、ふっつりと妹が呟かなくなったことを母さんが把握したのは早かった。外国に行く、アメリカ中央に近い土地で暮らすことが決まってからずっと、あの子のことを心配しながら見守ってただけに迷う時間も短かった。
いや、あの子ったら用心深さとあけっぴろげさを同居できる稀有な性質の持ち主だもん。
ついでにいうと持ち前の陽気さで次々に会うヒト片っ端からタラしていく子でもあったかし。日本にいるときからそんな感じなんだよ? 母さんの心配も妥当だよね。
さすがに二十歳越え、成人してから下した意志決定とプライベートは尊重したんだろう。あっちに行ってからの毎晩の定期連絡まではさせなかったけど、ずっと動向にアンテナを張ってたっぽい。
ツイートしなくなって、たったの4日後。
『何かが起こったこと』を確信した両親は知り合いの英語に堪能な人を連れて現地に飛んだ。あちらの警察に異常さを訴え、麗奈がルームシェアしていた友人に話を聞きに行った。
結果わかったことは、あの子が行方不明になってた事実だけ。
成人済みとはいえ『若い女性』が『有名大学留学中』に、ついでにいうと『休暇内の旅行途中』で連絡が取れなくなったわけで。
これは事件性が高いと群警察も踏んだんだろう。異邦人としては迅速に取り扱ってもらえたと私は思ってる。通訳代わりのヒトも立ち回りが上手かったんじゃないかな。ローカルニュースでも取り上げてもらってたし、私が知ってる内容は機械翻訳だけど、地方新聞に載った記事は好意的で同情的だった。
それでも、ココは日本だって変わらない。
犯人も死体も出てこない事件はすぐに風化する。
息も絶え絶えに憔悴して帰国、両親は倒れそうになりながらも動き続けた。大使館、こっの警察、むこうの群警察ともビデオ通話でやり取りしながら決して諦めなかった。
なのに月日は本当に残酷だと思う。あとお金。
手がかりは無く進展も無い日々。最初に無くなったのはあの子にかけられる群警察の予算だった。お気の毒ですが、から始まる捜査本部終了のお知らせ。心底から同情してくれた警察のヒトに、画面の端っこから私も頭を下げた記憶がある。
男の人だったってこと以外、もう忘れちゃったけどね。あの担当さん、どういう顔だったかなぁ。なんか、暑苦しそうな感じ? しゅっとしてた? どっちだっけ。
現地での糸が切れ、溺愛してた妹娘の喪失に直面して悲嘆にくれる両親と手を取りあい長いこと話し合ってた祖母が私を呼んだのは……あの子がいなくなってから何か月目だったろうか。半年は経ってなかった気がする。
麗奈に渡すはずだった遺産だからと前置きされてから、あのヒトたちは私に旅費をくれた。
渡航費用は出すから、これからは有給を目一杯まで使ってお前が麗奈を探せと言われたときには耳を疑った。彼らの常識も疑った。いや、だって私はOLさん。働いてるんだよ? 話せる言葉は日本語オンリーでノー英会話だよ?
っていうか、じゃあ私は?
私の自由時間を、生活を潰して、あの子を見つけることを優先させろっての?
どうなんだろうなぁ。とっさに浮かんだ思いがソレだったってのは冷たすぎるかな。情が薄い? 姉として失格?
意気込んで『どこだろうが、期限なしだろうが探しに行くよ』って即答できなかった私がおかしいのかな。わかんない。
もしかしたら、捜索を命令されることに理不尽さだとか不満とかを感じるほうが自然だったのかもしれない。
訴えなくちゃいけないコトは私の人生そのものに関わることなんだし。産まれた反発が微かに過ぎて、それより彼らに対しての諦めが先に来た私に問題があるのかも。
どうかな。もうわかんない。
私よりもあの子のほうが可愛いし大事だって言い切った彼らがおかしいのかな。
でも、昔からそうだったから。
指示は命令で。追加で断言された『彼らの理由』は、呑み込まざるを得なかった私の感情を喉奥に詰まらせながら鳩尾を蹴り降ろした。
強い意志を宿した彼らの視線は私の頭を、私を形作る芯を揺すぶり痺れさせた。彼らを失望させたくなくて、欠片でも褒めてほしくて。
私を認めてほしくて。
こんな状況でさぁ、はい、やります。以外に何を言えってのよ。
そんなこんなでパスポートを取ることからスタート。最初に来たのが、あの子が留学してたアメリカはミズーリ州、コロンビアの大学。そこから始まった私の探索は地道で面倒でハードル高すぎで、じつは最初のうちは帰国するたびに熱出してた。知恵熱に笑えた。
誰も褒めてくれないアパート、布団にくるまって大笑いしたあとで吹っ切れた。
私、あの子に会いたい。こんな苦労も、どんな非常識も、ぜーーんぶを笑い話にするために、『私が』あの子を探す。
長期戦なことは始める前からわかってたこと。通訳をつれていく経費が惜しいから指差し英会話帳を買った。片言混じり、身振り手振りでレンタカーを借りるようになったのは何回目からの有給だったっけ。
まずはブーン群の小さなB&Bを虱潰しにしてから今度は街道沿い。ゆっくりと州を南下していく旅はいつまで続くんだろう。
あの子が、麗奈が、ツイートで最後に呟いた目的地、行きたがってたストロベリーフィールドまでの道のりを走りつつ、目につくような店に片っ端から寄って写真とラミネート加工した会話集を示す有給の使い方は我ながら結構、斬新かなと思わなくもない。
ざーんしーん。
だからねぇ。麗奈に、あなたに、そろそろ逢いたいのよ、おねぇちゃんは。
車を降りようが乗ってようが吹きつける乾燥した風は日本じゃ考えられないほど暴力的に保水力を奪ってく。叩きこんだ化粧水も干上がってく勢いで。
貴重なもち肌が枯れてくのよ。崩れまくる化粧に気力も枯れてくの。
麗奈。
あなたを今も探している私は、昔から良き姉ではなかったかもしれない。
3年も仕事の合間を縫って、年次有給を全部つぎ込む勢いで渡米して探してる、その理由だって褒められたものじゃないのかもしれない。
でもね。
純粋にあなたに会いたい、この気持ちに嘘は無いの。
そろそろあなたに再会したい。あんたの笑顔が見たくて、屈託なく埒もない話をしながら笑いあいたいの。
逢いたいのよ。
その子がマイキーの店のドアを開けたとき、賭けてもいい、福音の鐘は鳴った。あぁいけない、みだりに大げさな修辞を使ってはいけないのに。ママに叱られる。
ストレートロングの黒髪はストンと背中の半ば、歩くたび軽やかに弾んでた。目を奪われたのは愉しそうな表情に、だけじゃなくて、『黒い』としか形容できない瞳の艶やかさや髪の毛に。
アジア系にしては黄味の薄い肌はふっくら、ううん、ぷくぷくって擬音のほうが似合う見た目。最初はヒスパニックかと思った。目が大きかったから。
子供みたいにウキウキしてたその子は小鳥のさえずりで喋る。世間話に紛れさせたいやらしい探りに気がつかなかったのか、鮮やかなクロツグミはマイキーには気安くジャパニーズだって答えてた。
休暇中の留学生。
観光客。
生粋の東洋人。
もちろん私だってわかってる。日本人だってイロイロいるんだって。
どこにだって善良な人間もいれば悪い奴らも多いし、そもそも彼らは私たちじゃない。異教徒なんだから。
それでも、目の端でちらちらする子から目が離せなかった。そこらに転がってる有色系は髪色も瞳も暗い茶褐色。けれどこの子のそれらは黒曜石のように煌めいてて綺麗だった。お店の中を見回して、流す横目で私を意識してるよって教えてくれる。
この子が次の子。
天啓はいつだって突然で、そして正しい。
私は唐突に理解してこっそり背筋を伸ばした。最近色々あって疲れ果ててた日々に癒しが来る。与えられることになる。
前回の子は違った。頻繁に失踪者を出すのは賢くない行為だからって、あれからずっとしてた我慢もそろそろ限界、就寝前のお祈り時に願ってた『ご褒美』が来たことがわかった。
そうして、あのお方は常に私を見ていてくださるんだって結論に満足して安堵する。
だって、この子が私の『次の子』なんだっていう啓示をこれだけ明確にしてくださるんだもの。
つまり私は、敬虔な信徒であることから外れていない。
間違ってない。
いつも私たちの傍に寄り添ってくださる方は惜しみない慈悲を降らせて、それでもまだ足りないかのように時機までくださる。友人がB&Bで待ってるんだってマイキーに告げた内容は『急げ』って意味なんだと思った。いいや、あの方がもう少し確実に『教えて』くださったの。
そうじゃなきゃ、こんなに簡単に可愛い子が私の手の中に落ちてくるはずがない。
ああ。それじゃあ、もしかしたら今度こそ、私は、『私の子』に巡り逢えたのかしら?
杜撰過ぎる、計画性も何もかもあったもんじゃない連れ去りが成功した時点で確信が疑いに変わった。もしかしたら、この子が『最後の子』かもしれないって。
今度こそ、私は恋人を手に入れられたのかも。って。
路地裏から少しだけ手を伸ばしただけで、その子は私に手繰り寄せられた。静かに、って言っただけで腕の中の暖かな塊は大人しくなった。このあたりの子なら、たとえキンダーの子でも出来る限りの抵抗はしてくる。暴れることは愚策としても、犯罪者に交渉しようともしない脆弱なメンタル。
しかも念のために押し当てた護身用のスタンガンはたったのいちど。
いちばん弱い設定だったのに、服の上から流したショックだけでグッタリと力を無くし遅い手である私に寄り掛かってくる。
これってつまり、この子は可愛らしくて愛らしいだけじゃなくて逆らわないって意味じゃない?
私が『恋人』に望むことを、どこまでもしていいって意思を持ってるってこと?
そう、そうに違いない。
だったら。
これこそ最後の子だってガッツポーズした。
私の傍にいて、うーんと傍にいて、いつまでも私と暮らしてくれる癒しに出会えた喜び。口の中だけで聖句を繰り返し唱える。いと高きところにいらっしゃるあの方に感謝を表しながら、とうとう手に入れた子に笑いかける。
ホンモノはどれだけ『いい子』なのかしら。
他の子たちみたいに帰してってはしたない大声を上げたり、淑女にふさわしくない抵抗をしてみたり、まるで男の子みたいに反抗したりしないことは確か。
私から逃げ出そうとしたりしない、いい子であることは暮らす前からわかること。
ずぅっと夢見てた、ふたりっきりで過ごす穏やかな生活。
こんなにぷくぷくしてる、赤ちゃんみたいな肌の柔らかい子。
それはもう、私が保護して、お世話してあげなくちゃいけない。
保護と世話には躾っていうモノがセットでついてくる。こういうのは初手から間違えないようにしないと駄目。
助手席に載せて自宅まで移動するあいだ、あの子が「どうして?」って聞いてくるたびにスタンガンでやんわり教えてあげた。私に疑問を投げるのは駄目なことなのよって。
あなたは、自分で何かを考えたり、判断したりしちゃいけないの。
私が長いあいだ待ち望んで、どんな子かしらって想像してた『最後の子』は賢い恋人だった。すぐに「どうして」を止めたし、行先を聞くのも止めた。
怯えたように眼を伏せる仕草があまりにもキュート。うっすら涙を浮かべる黒曜石にはほんとうにドキドキした。食べたくなるって言葉は嘘じゃない。
だから、ほんのちょっとだけ、家に連れ込んでから味見したの。ちょっとだけ。ぺろって舐めるくらい。
なのにあの子は叫んだのよ。悲鳴をあげて私から逃げようとした。
そんなのは許せることじゃない。ダメ。ゼッタイに駄目。
ママに逆らうのは許されていいことじゃない。
駄目な子、に、は……、そう。
正しいことを教えなくちゃいけない。礼儀作法は淑女の必須。ママに対してとるべき、大人に対してとるべき正しい振る舞いを教えてあげなくちゃ。
壁に掛けてある鏡の中から視線を感じてそちらを見る。
ママが微かに頷いてくれる。
そう、私は正しい。
そうしてこの子が私の腕の中、行儀のなってない子のようにもがくことは。
正しくない。
ぷくぷくの腕を掴んで壁に押しつけ、持ってたままのスタンガンを見せつけてあげた。息を呑み込むような悲鳴の上げかたすら可愛いのに、悪い子。
でも、抗うことや疑問を持つことが悪いって知らないんなら、そこは教え導いてあげるのが大人の、ママの役割。
どう振る舞えばいいのか言い聞かせるのがママの躾。
「いい子は、疑問を持たないもの。繰り返して?」
「っ、ひぁっ」
「……あなたは、悪い子なのかしら」
「ぃひぃぃっっっ」
目盛をゆっくり操作して、ほんの少し、すこぉしだけ威力を強くしたスタンガンを剥き出しの二の腕に押しつける。浅い呼吸と悲鳴を繰り返しながら私のかわいい子はすぐに学習した。
「ぎもっ、ぎもんっ、もたなぃっっ」
「帰ったり、しないわよね?」
「こ、ここが、わたしの、うちですっ」
「ママに疑問は持っていいのかしら」
「しない、しませんっ、ママには逆らわないっっ」
あーあ、甘い涙をぼろぼろ零しながらお漏らししちゃった。かわいい子は、聞き分けのいい子なんだけど悪い子ね。
粗相の罰を与えなくちゃいけない。
バスルームに引きずっていくあいだ、分不相応にもママに抵抗してくる。いちどなんて私を壁にぶつけたのよ?
なんて悪い子なの。
ムカついて、長い黒髪を掴んで引き寄せ頬を強く打つ。異臭が鼻を突いて私に思い出させた。そう、この子ったら赤ちゃんじゃないのに漏らしてるの。みっともない。
スカートが汚れてるのに廊下で暴れるなんてナニ考えてるのよ、馬鹿なのって教え諭してあげながら何度か蹴るとすぐに大人しくなる。ココはいい子なのに。
こんな、綺麗な色のシャツとスカートなんて着てるからつけあがるのよ。
悪い子になるための洋服は二度と着られないように眼の前でズタボロにするのがママのルール。そのために、洗面台に常備してある刃物は刃先が丸まってるの。
シャツに挿し込んで、外側から生地を切り取れるように。
剥ぎ取った端切れを目の前でハサミで細切れにして、生まれたままの姿の子をバスタブに叩きこんで。
まずは冷水で汚れを洗い流してあげて、そこからは熱湯消毒。
私はすごくいいことをしてあげてる。ねぇママ? 完璧よね?
なのに感謝もせず耳障りな声を上げるなんて嫌な子。
ほんとはママがしてくれたようにブラシで血がにじむまで洗ってあげるのがいいのかもしれないけど、ここまで抵抗されると、ねぇ。
なんとなくお世話するのに嫌気が募っていった。
だってかわいくない。
ぎゃあぎゃあ喚く子は五月蠅いだけ。
だいたい、家の中で大声をあげることは、ママが許してない。
どの家にだってルールがある。どんなに突飛に聞こえたって、そこのおうちでは道理が通るのよ? ねぇ、そうでしょうママ。
そのルールを破った以上は、罰だってしょうがないこと。
ふっと顔をあげれば視線が合う。
バスルームの鏡に映ったママは困った顔をしてた。
そう。
そうなの? ママ。
この表情をしたってことは、この子は私が思うよりも悪いことをしたのね。
じゃあもっと、もっと厳しい、新しい罰を与えなくちゃいけない。反省のための痛みは必要なコトよ。うーんと大事なことなの。
愛情を持った躾は誰がくれるの?
それは親が与えるモノ。
ママが、私に、注いでくれたように。
みっともなく泣くのは許しを乞うための浅ましい仕草。だからそれをさせないようにしてあげるのが正しいこと。
洗面台の下をひらいて、通販で買ったSM用の猿轡を取り出した。後頭部で調整する。HPに載ってた使用例は汚らわしかった。あんな淫らな真似をするなんて悍ましいけど道具は便利なのよね。少し食い込むくらいがいいみたい。
いままでの経験上。
息は出来るんだから上等でしょ? 轡がきちんと嵌まってるか確認してそこを引っ張って立たせた。はしたない真似は淑女に許されてない。リネンのタオルで全裸を巻いて隠してあげることまでして悪い子を食料庫の奥に連れてく。
この家を買ったときからあったらしい小部屋は、もともと貯蔵庫として使ってたみたい。保存用の瓶詰のストックにピッタリなのよね。
暗くて虫が出るし鼠が齧るけど。
ドアを見てからいっそう暴れるような、いけない子にはもったいないくらい。
ここはね、壁が厚いのがいいの。赦しは乞うものじゃなく与えられるものでなければ。私にも、ううん、誰にも聞こえちゃダメ。
扉を閉めてしまえば告解は聞こえなくなる。聞いていいものじゃないから聞かないことにこしたことはない。
私が身を持って知ってる。どれだけ絶叫しようが外に、もちろん家の中にも浅ましい声は響かない。
昔ながらのレッドシダーは当時でも特注だったらしくて、一枚モノだってことが信じられないくらいドアも厚みがある。頑丈だから、いままでの子がしてたように、ドアを破ろうとしても無理。
「んーーっ、んんんんっっ」
「いい子になるまで、ね? すこぉしだけよ? 我慢してたらすぐ終わる」
「ん゛ん゛ん゛ん゛んっっっ」
耳元、耳の中に落とし込むようにして悪い子に言い聞かせる。こういうときにママが出す声はとっても優しくて、ねっとりした糖蜜のよう。私じゃ出せないシュガーボイス。
いつか、私もママみたいに蠱惑的な喋り方を身につけなくちゃ。
小部屋に蹴り込んで、呆れることにまだ逃げ出そうと素早く縋りついてくる子を奥の棚にぶつかるように狙って、もういちど蹴り込む。ママはすごいのよ。いつだって狙いは正しくて外れない。
ママだけができること。
デッドボルトを外側からいくつもかけて、ママは背中を扉に預けて歌う。悪い子が全身でドアにぶつかってくる、この振動はママだけが味わっていいもの。躾の醍醐味。
さぁ、今日の夕飯は何を作ろうかしら。
教義は厳格に守らなくちゃいけない。食事は喜びを感じちゃダメ。多すぎても少なすぎても驕ってしまうようになる。
敬虔なる信徒だからこそ、あの方だって慈悲をくださる。
塵ひとつ無いように玄関からバスルームまでの掃除を終え、鏡の中から私が忘れがちなところまで指示を出してくれるママに感謝しながら冷蔵庫を開ける。家事を仕込んでくれたママにも、怠けることを禁じてる教義にも常に感謝することが大事。
感謝を忘れた恩知らずには必ず鞭が与えられなければならない。
そういえば、あの子はもう反省したかしら。
スープとパンを食べてから食器を洗って身綺麗にして。時計を見ると21時過ぎ。あらまぁ私ったらうっかりさん。明日の仕事に差し支えるじゃない。早く寝ないと。
いいえ、でも、悪い子の面倒を見ることもママの役目だから。
悪い子が反省してるはずの小部屋の前に立って深呼吸をふたつ。耳をつけても中の様子が窺えない。中にいるあいだに告解は終えた? いい子になった?
私が想像してるより悪い、いけない子だったらどうしてあげればいいのかしら。
デッドボルトは太くて金属製、幾つも外すときに音が響く。
扉を蹴飛ばすようにして転がり出てきた子は汚くて、擦り傷も目立ってた。
せっかく私が開けてあげようとしたのに、許しもなく自分から反省室を出るなんて信じられない不作法。
信じてた期待を裏切られた。また? 神さまは、いいえ、ああ、なんてこと。私も信じられないくらいに不調法ね。あのお方は、呼び名すらみだりに口にしてはならないのに。
でも。
でも、嘆かせてよ。ひどい。ひどくない? この仕打ちはあんまりじゃない?
真っ赤な目をギラつかせて私を押しのけようとする悪い子。いいえ、もうメスガキでいいわ。こんな子だったなんて幻滅。逃げようなんて最低。
最悪って言葉はこんなときに使う。
「あぁ。………………あなたも、違うの」
「っぐぅっっっ」
見込み違いだった。
この子じゃなかった。
私の探してるイイ子は、じゃあ、どこにいるの。
「……アンタでもないのね」
大粒の涙を流す『ぷくぷくさん』は私に蹴られるたびに獣のような呻き声をだす。もがいて、痛みから逃れようだなんて浅ましすぎる。罰すら甘受しないの?
これじゃ正真正銘ケダモノ呼ばわりされてもしょうがない。
平手で柔らかい素肌を叩いていく。私の手がジンジンして痛くなっても、これは躾。私のほうだって痛いことが正しいやり方。
叩かれる衝撃で身体のナカの悪い物が出ていくの。ママはそう言ってた。
悪い子がいい子になるために、私のために、してあげることだって。
それにならって、私も悪い子から悪い物を出そうと頑張ってみる。いままで私を誘惑して家に攫わせたあげく私を騙してきた性悪な子たちと同じように。
教育する者は決して諦めてはならない。
せいいっぱいの努力で矯正してあげようと愛情を注ぐ。
ぐったりして動かなくなったら、汚い身体を綺麗に清めてあげないといけない。
バスルームまでひきずってバスタブに放り込む。消毒剤と熱湯、冷水を繰り返し浴びせる。身体のナカから悪い物を早く吐き出させてあげたくて、轡を剥ぎ取った。優しさから喉にホースを突っ込んで水を飲ませる。
痙攣してる背中をさすってあげると、メスガキは大声を上げて喚いた。聞き取れない。聞こえないじゃない、馬鹿なのって指導してあげて、ようやく喚き声から言葉にしてあげた。
なのに。
「……かえり、たい?」
「そ゛お゛よ゛ぉ゛っ、そ゛う゛っ」
あまりの恩知らずな主張にゾッとした。反抗的な眼で私を睨む子は、ここまでしてあげてもまだ悪い子だった。
淑女どころか獣でも滅多に聞けないような醜い要求。
「あ゛た゛し゛を゛、か゛え゛し゛な、さ゛っっっ」
「うるさい」
汚物を垂れ流す口に堪らなくなってもういちど轡を嵌める。吐しゃ物で窒息すればいい。自業自得よ、こんな子。
もう知らない。
ここまで反抗的だと自分では処理できないことを悟って、助けを求めて鏡を見上げる。ママはやっぱりソコにいた。ママ。
ママ。
鏡の中のママは長く目を閉じて、ゆっくりと目蓋を上げた。そこにいたのは、今度は誰か?
そんなの決まってる。
ママよりも強くて、ママよりもタフな、私のためのプレゼント配達人。
悪い子を、私のためのプレゼントに仕立て上げてくれる最高に親切なヒト。
ぎぃぎぃと喚いていたメスガキがピタリと黙り込んだ。卑怯者ほど罰を過剰に恐れるものよね。虫けらは虫けららしくしてればいいのに。
私のためのプレゼント配達人はゆっくり、メスガキの背中を指で辿る。
「……はぁい、おじょーーーちゃん」
「っ、っっ」
ママよりもトーンは下。だって別人だもの。
ねばついた、ざらついて喉に引っかかる独特の発声でプレゼンターはメスガキに話しかける。語尾の真ん中が不自然に伸びるのは、この男が南部の出だからだろう。
女性に対する親切と献身が芯から身についてる、いいヒト。
「あんたは泣いてるのにキュートだなーぁ? だーけど、もう俺は騙されなーい。どれだけ可愛くてもあんたは嘘つき。嘘つきには?」
「「罰を与える」」
私とプレゼンターの台詞がハモる。プレゼンターはいつだって私の意志を尊重してくれるヒト。聞かずに決めた事なんて呼吸する権利を含めても塵ひとつもない。
バスルームで厳かに決定は下される。
「帰りたいなんて、どうしてそんなことを言うの?」
「っ、っっ」
「わーるぃことを言う口なんて、いーらないよなーぁ? コイツのマーマは、そーう、教えてくれたぜーぇ?」
「っっ」
だから。
「悪い子は、コイツを」
「悪い子は、わたしを」
「「慰めてくれる道化になってから、栄養素になる」」