戦争犬の始まり
「ーーー返してくれ!僕の名前を…ママがつけてくれた名前なんだ!ママは一人で僕を育ててくれたんだ!やっと奨学金で大学に入れたんだ!ママに楽をさせてやるんだ!返してくれ!元の場所に還してくれ!」
ボブ(仮)が激した。充血した黒い瞳からは大粒の涙が溢れ出ている。ただただ唇を震わせて哀願する。こんなところには居たくない、希望に満ちたキャンパスへ帰りたい。愛する家族の元へ帰りたい。苦労して、馬鹿にされて、安い時給で便利に使われたけど、あの街に帰りたい。ママを独りにしたくない。だから、だから元の世界に還してくれ!喉が張り裂けるほど、血を吐くほどに彼は乞い願う。
どこか長閑さすら感じさせていた軍曹(仮)の顔つきが、その悲痛な叫びの途中から徐々に厳しくなり険しさを増している。ボブは気づかない。危ない。放っておいたらダメだ。最悪な結末。それしか見えない。ボブはいい奴だ。母親思いの優しい男だ。ダメだ。それはダメだ。それ以上はダメだ。あんなのはもう見たくない。
「ーー18番っーーー止めろっ」
絞り出した私の声。なぜかイヤホンを耳に入れたままでしゃべる時のように、どこか遠くて、でも充分以上に大きな声で。ボブ(仮)が驚いたように私を見るのがわかる。その瞳がまるでビー玉のようだと思った瞬間。軍曹(仮)が左手で彼を突き飛ばした。一切の容赦もなく、満身の力を込めて、その胸の真ん中を突き飛ばした。その右手は大刀の柄を掴み、地面についた石突きを左足で蹴り上げ、鈍色の刀身がクルリと円を描いた。綺麗だと思った。弾かれ、よろめき、尻もちをつきかけた彼の足元から、白く輝く刃金の軌跡が跳ね上がって。空気が鳴いて、鋼の冷たい響きが波紋を広げていく。白い大地に放り捨てられたように、おが屑の詰まった麻袋を引き倒したように、ただ彼は倒れた。
「敵襲っ!」
それからの事は正直言って断片でしか覚えていない。前後の脈絡もなく眼前に差し出される幾枚もの写真。
無数の短いカットを乱雑に繋いだ、必要以上に画面をブレさせた酔いそうな、出来の悪い映画。
鮮明に覚えているのは、ボブ(仮)の背中に生えた2本の細い木の枝。今ならわかる、あれは突き立った矢だ。
低い唸り音が、かすかな銀光が、辺りを埋め尽くし、夕立のように激しく。
いや実際には飛来した矢は十数本程度。空間を埋め尽くすほどでもなく、夕立のように叩きつけられるでも無かったわけだが、その瞬間の私は塩の地面に身体を投げ出し腹這いになって喚いていた。
頭というか顔を音が飛んでくる方向に向ける。何が飛んで来てるのかわからないのに見ないでいるなんて出来ない。右手は「アミ」を握りしめて、親指が攣りそう。視界の下半分は白く、上半分は青い。その下半分の白の中に黒い影が3つ。あれだ。あれが私を殺すのだ。かすかに空気を弾く音。撃ってきた、私を撃ってきた。頭の上を低い音が飛び抜ける。狙ったな!狙われた!殺される!いやだ!殺される!怒り。近くへ!耳の中でノイズが流れてる。ガンガンと響くのは心臓の鼓動。撃たせるな!近くへ!近くへ!死にたくない!怖い!怒り。走れ!近づけ!今だ!走れ!走れ!走れ!走って近づいて…
「殺せ!」
右肩に担ぎ、真ん中よりやや下を右手で握りしめ、左手はその30cm下を握る。左肘をあげて、右肘は折りたたみ、一歩また一歩と駆け寄る。上体を前へと低く倒しさらに加速。黒い影は口を開けて何かを叫んでいるかのようで、目は見開かれ私を凝視している。笑みが浮かぶ。怖いか?怖いだろう?さっきはこっちも怖かったんだ。今度はそっちが怯えろ。前に倒した身体を起こし、たたんだ右肘を伸ばしながら、上げて張り出していた左肘を腰まで引く。
走る速度、伸び上がった高さ、突き出し、振られ、引かれた刃は風を鳴らし、黒影の肩から胸へと食い込んでいく。伸ばした右腕が長柄を押し付け、左腕は振り子のようにさらに引かれる。腹まで斬り裂き、濡れた鈍色の刀身がするりと滑りでる。わずかに残るカツリカツリとした響き。骨を断った感触。抗議の眼差し。
血の泡を吹くその顔の向こうに影が居る。突き出した腕に棒を横に持ち、半分後ろに向きかけた腰をひねり私を睨みつける。あれは武器だ。武器を向けてる。弓だ。距離は4mほどか?目の前には崩れて両膝をつく1つ目の影がある。足でかき分けるようにその影を横ざまに蹴り倒す。一歩目。右手の中で楕円の握りを回し持ち替えて白刃が陽の光をギラリと反射する。二歩目。新たな影の、横ざまに構えた弓の上に大刀の峰を乗せて3歩目。弾かれた弓、飛び出す矢は私の右へと逸れる。笑みが浮かぶ。お前のターンは終了。そして四歩目、右手でしっかり長柄を押し付け、弓で振り払おうとする動きを武器の重さと力で封じ込め。直角に曲げ力を溜めた左腕が、右手を支点に峰の乗る弓をガイドに長柄を滑らせ突き込まれる。五歩目、体の真ん中に沈む切っ先の感触は、練った小麦粉の塊のソレ。わずかの抵抗と反射的に痙攣する肉の振動。構わず突き込み、力押しに押す。さらに二歩、三歩と一本の長柄で繋がる二つの身体。方や踵を引きずり、方や強く踏み込む。弦が弾かれた音がするが矢は見えない。見えないものは忘れて、四歩、五歩。
衝撃と同時に跳ね上がる大刀の柄。思わぬベクトルに両手からすっぽ抜けて直立する「アミ」の茶色い長柄その向こうに三つ目の影。仰向けに倒れ両腕で後退るその姿。足が地面を掻いて塩が舞う。怯えたな!怯えてる!右手が左腰へと伸び短剣が鞘走る。刃渡り30cm、その形は尖った三角形。逃がさない!離れれば次は奴のターン。背中を向け走り出そうとして塩に足裏を滑らせて、ガクンとつんのめる。右手の短剣を持ったまま、突き出された尻にしがみつく。離さない、逃がさない。ここで、今すぐに、こいつを殺す。
抱きついて、走った勢いのまま地面を転がる。叫び声に罵声を返す。散った塩が目に入って痛いけども、両手は掴んだものを離さない、右手に短剣の柄、左手に奴のベルト。うつ伏せで回転が止まり無防備な背中が目の前に広がる。尻から顔を上げて這い登り、上体を起こして両膝は尻を挟みつける。左手はベルトから肩口へと場所を変え押さえつける。引き抜く右手の短剣を汗染みで変色した背中の真ん中へと突き立てる。切っ先が沈んだところで硬い感触。骨に阻まれ刺さらない。恐怖と焦りに喚きながら左手で短剣の柄頭を叩く二度、三度。左掌に鈍い痛みを感じてようやく自分が人を大地に縫い止めたことに気づいた。もうピクリともしない。ズボンが生暖かく張り付く。この湿りは自分のものか奴のものか。わからない。
けど私は死んでいない。彼らは死んだ。私が殺した3人の人間。私を殺そうとした人間。腸をはみ出させ赤に染まり、長い棒を天へと生やし、下半身を濡らして地面に縫い付けられた三つのモノ。耳の中のノイズは消え去り、あまりに激しく流れた脳の血流は鼓動のリズムで痛みを伝えてくる。四隅の暗かった視界は明るくなり空の青が目の底へ突き刺さるように沁みる。塩の飛び込んだ両目から涙が溢れて流そうとしているのに額を伝って落ちる汗がさらに目の中へと滴り落ちる。涙が止まらない。どうしようもなく涙が止まらない。
視野狭窄は防衛本能という人もいます