戦争犬と灰色
私達が信号所を占拠した日の夜半から降り出した雷雨は、明け方には静かな地雨へと変わり、5日を過ぎた今日まで休まず弛まず飽かずに降り続けている。
灰色。一面の灰色。
天から落ちる銀の糸で織られた灰色の帳は、時折思い出したように吹く肌寒い風に揺らめいて白く飛沫を散らせて幾重に広がる波紋を踊らせている。
雨季の訪れ。ユグニ塩湖に雨季が来たのだ。
今、私は2人組の相方のメイムとともに信号櫓に登って当直に付いている。雨季装備の胴長靴とポンチョを被っているその姿は、等身大のてるてる坊主と変わらない。が、ユグニ塩湖方面警備軍の上層部は兵士に雨具を持たせたその識見を高く評価されていいと思う。この大ガエルの雨具がなければ私達の気分はより落ち込んでいただろう。そもそも私を含め分隊員全員が今の状況に落ち込んでいる。暗澹たる思いと言うやつだ。ロクでもない。
そもそも事前の作戦通りであれば、奇襲により占拠を完了した北の信号所から伝令がやってきて「本隊通過、進撃中」の一報が入ることになっていたのが2日前。5日目の今日には「大勝利」を伝えてくることになっていた。そう「なっていた」筈なのだ。過去形である。
少なくとも王太子殿下、伯爵閣下とその幕僚達はそう断言し「勝利は確定している」と檄を飛ばしていた。開戦が決まったあの日の、あの軍勢を見て、なぜそこまで自信満々でいられるのかは私には分からない。きっと私の知らない彼らの内なる神様から御託宣があったのだろう。
彼らの神様の実存はともかく、私達の行動を定めた「実在」する「作戦計画」によれば、信号所占拠から5日後の今日には「戦勝の報せ」を持った伝令が現れ、私達は信号所を破壊して帰還する事に「なっていた」はずなのだ。
だが、現実はそうじゃない。伝令は来ない。作戦計画とやらはご破算になった。
つまりは私達の予想通りに戦争はロクでもない事になっているのだと思う。
「分隊長ー。今日は腸詰めのスープが食べたいですー。胡椒入りのやつー。」
「まぁ、寒いからな。しかし、あんまり胡椒の味に慣れると兵営に戻った時に困るんじゃないか?」
「だからセンベイ分隊長について行くんですー。センベイ分隊長と一緒にいれば美味しいご飯が食べれるって事ですもんねー」
「短剣の次はコショウが目当てか。」
「みんな言ってますよー。この分隊長についていけば、美味い飯が食えるって」
「みんなコショウ目当てなのか…」
当然だが「こっち」では胡椒は高級品である。「あっち」の中近世ほどではないにしても、塩湖を越えてさらに南の産物であり、大河を遡り公都を経由して城塞都市レルゲンに入ってくる頃には輸送コストが値段の半分以上を占めている。
はるばる海を渡って来ないだけ中近世の「あっち」より安いってだけだ。言うまでもなくラウラ元分隊長の「いろいろな備え」のススメに従って入手した一品。手っ取り早く部下の胃袋を掴んで掌握せよとの教えである。
占拠した初日の晩飯は帝国産塩漬け豚肉を焼いたものだったのだが、そこにゴリゴリとミルで挽いた胡椒を全員の肉にかけてやったのだ。まぁささやかな祝勝会のつもりだったので砂糖漬けのドライフルーツも提供した。現在では両者共に2日に一度の割合で提供し、分隊員の士気維持のための貴重な手札になっている。
櫓の上から灰色の世界を眺めている。メイムは北、伝令がくる「予定の方角」。私は「帝国軍」信号所のある南。異常がない「はず」の方角。
私とメイムは当直として「監視任務」の実施をしているわけだ。といっても降る雨のカーテンは分厚く、視界は2程にも届かないからあまり意味はない気もするが、さりとて私達に与えられた命令は「別命あるまで監視・欺瞞工作を続けよ」である以上、私達は交代で信号櫓に登り、限られた視界の中で雨滴の数を数えるしかないのだ。
湿気を多分に含んだ風の中、耳にはポツリぽつりと雨垂れの音、視界には白くけぶる灰色の天地。まるで世界に置いてけぼりにされた気がする。時々にメイムが暖かい食事に対する恋慕を語るのも、私と同じように感じるためだろう。
暖かい食事を語り、続ける監視任務。いつか同じ事をしていた。さして昔でもない記憶。場所はここ。あの時の私はどこにいたか。すぐ近くの枯溝。今はもう小川になってるだろう。何を思った?遠見筒の向こうで上がる炊事の煙を羨ましく思った。暖かい食事をとる帝国兵達に「ひもじい目に合えばいいのに。」と呪いの言葉を吐いた。分隊長はあの時、なんと言ったか?
「…なぁメイム。ここの食料の備蓄が空になったりしないかな?」
「やだなー。最初の日にゴルさんが報告したじゃないですかー。10日分は心配ないって。あと半分ぐらいありますよ。私らそんな食いしん坊じゃありません。」
「メイム。今すぐ降りて、ゴル達全員を集めて欲しい。大急ぎだ。」
「…?わかりました。でも寝てると思いますよー」
「叩き起こせ!」
心臓が跳ね回って、背中に冷たい汗が湧き、ゲロを吐きそう。足を震わせながら空えづきを繰り返す。落ち着こう。まず頭を整理する。想定は「最悪」から最低を通り越した「絶望」までしなければならない。イヤな味のする唾を水筒の水で飲み込む。手も震えていた。ふらつくままに梯子へとすがりつき、一段一段を確かめる様に降りていく。下腹から力が抜けていく。脱糞しそうだ。とてつもなくヤバい。
ふと気づいて見渡せば、寝起きのあからさまに不機嫌な顔が並ぶ。斧使いのゴルとジルバ、棍棒のライリーと鉈のチョッパー、弓使いのケリーとトニー兄弟、大刀持ちのユノとレンカの女性組、そしてメイム。ほんの一週間前に「分隊」となったばっかりの9人。形ばかりの分隊長である私の命令ですら遵守しなければならない誓約を焼き込まれた『戦争犬』。そして彼らを最大限に生存させなければならず、全員死ねと命ずることも私に刻まれている。くそったれな誓約だ。
「なんだってんだよ!手前ェ!…ってお前ェの顔色、真っ青じゃねぇか!」
「異界人は、この季節によく体調を崩すほどに。察するに、たちの悪い風邪でもひいたか?」
どいつもこいつも凶悪犯の割に優しい事を言う。ほんの少しばかりサイコロの出目が違っていたら、コイツらも『犬』になんかなってなかったのだろう。そうは言っても飢えて死ぬか、路地裏のぼろ切れになってたか、処刑台の晒し者だったのかもしれないけれど。それでも目前にせまっている理不尽について事前に聞かされる方が良いだろう。少なくとも心構えはできるはず。
「あぁ…風邪じゃないけど、ロクでもない事に気付いたので、みんなに知らせるべきだと思ったんだ。申し訳ない。」
「おエライさんの作戦とやらが上手く言ってねェって話なら今更だぜ!」
「あー。それに関連してるんだが。…そう、単刀直入に言うとだな、もうすぐにでも此処に帝国軍が攻めてくる。」
「あぁん?いきなり何を言ってやがる?」
「説明する。意見があれば後から聞く。とりあえず聞いてほしい。」
そして私は「ロクでもない」事に至る説明を始めた。
まず1つ。味方からの伝令が来ないってことは、警備軍本隊と打撃軍に何かトラブルがあったものと考えられること。
2つ。翻って、この信号所にある食料備蓄が我々にとって後5日分を賄えること。
3つ。それは本来、ここにいた帝国兵36人のものだったこと。
4つ。つまり我々の3倍以上の「帝国軍」にとって、此処の食料は2日前には切れてること。
5つ。なのに帝国の補給部隊が姿を見せない事。
以上により一番楽観的な「最悪」の場合でも配達が遅れているだけだった帝国補給部隊と戦闘になり、「絶望的」に考えれば既に帝国は信号所の異変を知っており、今頃は奪還部隊が此処に向けて進撃中と考えられること。
「いや…でもよォ。帝国の奴らもコッチとの戦争で、それどころじゃないんじゃねェか?信号所が獲られたかもしれねェってだけで兵隊を差し向けてくるか?」
「うん。ただ補給が遅れてるってだけのがありそー。雨季に入ったし。」
「それでもウチらより人数多いですよね。」
「なに。補給部隊など、こちらから奇襲をかけてしまえば片付こうほどに。」
「だいたいなー。この戦争、オレらが攻めてんだろ。帝国の奴ら逃げるのに必死なんじゃね?」
「兄貴の言うとおり!今頃、殿下達がさー帝国軍ボコってんじゃね!」
「でも…分隊長がおっしゃる通り、友軍の伝令もまだ来てませんよね。」
「勝ち戦で浮かれて、忘れておるのかもな。」
「負け戦で撤退中…いや、すまない!」
「でよォ、分隊長殿ァどうするおつもりなんで?なるほど確かに言われてみりゃ最低でも補給部隊とその護衛、40人ばかしとやり合うって線はありそうだ!だがそいつも、コッチが先に見つけて奇襲かけりゃ何とかなる数字だ。…で、もう一度聞くけどよォ、分隊長殿はどうするんでィ?」
「…実のところ、これは私の直感みたいなもんで、なんか根拠があるようなものじゃない。だけど本当に「地獄」と言ってもいい想定だよ。」
「…私はそもそも、「公国軍」は釣られているんじゃないかって思ってる。先に軍を国境に集めたのは帝国だし、ゆるゆる進撃し始めたのも彼らだ。主導権は「帝国」にあるだろう。これを迎え撃つ「公国軍」、伯爵閣下の警備軍本隊が「帝国軍」と戦端を開き、大街道の国境付近に敵を固定する。王太子殿下の打撃軍はユグニ塩湖方面より迂回ののち、国境付近に釘付けになった「帝国軍」の背中、横腹をぶっ叩く…。」
「でも帝国軍が最初の一撃で崩れたら?文字通り潰走したら?伯爵閣下はどうする?敵の潰走を聞いた殿下はどうする?…合流して、功を競って街道を東へ突き進むんじゃないか?それこそ伝令を後回しにするぐらい猛進撃するんじゃないだろうか?」
「で、考えてみてほしい「本隊が大街道に敵を引きつけて、塩湖を迂回路として進撃した別働軍が敵の後背をつき、挟撃する」ってのは「帝国」だって取れる戦法だよ。やらない理由がなにもない。もし「帝国軍」の潰走が、予定通りの事だったとしたら?ほら大街道を東進した「公国軍」は誘引されてるわけだよ。」
「そして帝国軍は南回りで西から北へそして東へと…「追う」公国軍を自分の尻尾に食らいつく蛇のように一飲みにしようとしてるなら?そうなったとして、帝国軍の進路はどこだ?罠にはめた獲物を逃すまいと比較的短時間で「公国軍」の背後をつける大街道沿のユグニ塩湖北東部ってのは…?」
「ちくしょう!ここだ!クソったれ!最初っから此処を通る気だったなら、わざわざ補給部隊を動かさねェ!斥候をチョロチョロさせてコッチの気を引かせる訳もねェ!信号所が獲られていようがいまいが関係ねェ!」
「つ、つまり…万を超える帝国軍が迫ってる…ってことですか!」
「…推測、妄想といってもいいけどね。「最低」でも40人、「最悪」100人、考えたくもない場合で3万人ほどの帝国兵が此処にくる。」
「センベイ分隊長ー!逃げましょうよー!そんなの無理ですって!」
「正直、逃げたい。けど一戦もせずに逃げることは出来ない。」
クソッタレな誓約があるから、味方と合流して理由を問われたら素直に『敵前逃亡』だって答えちまう。待ってるのは処刑台だ。だったらどうする?
どうもこうもない。一戦当たって「一命、玉と砕けん」しか残されていない…。
本当にそうか?何か手はないか?虫けらのように踏み潰されず、処刑台に行かずにすんで、生き残るための誓約の隙間はないだろうか?
あぁ時間が欲しい。答えの続きを聞きたい分隊員のすがる視線が痛い。一言も聞き漏らすまいとする静寂が怖い。降り続き、天幕に弾ける雨音がうるさい。最悪な気分だ。見渡しても灰色の空、辺りは灰色の帳に閉ざされ、大地は降る雨を鏡にして雲の灰色を映してる。なにもかもが灰色だ。立ち並ぶ『戦争犬』もしょぼくれて灰色にくすんで見える。どうしよう。何をすれば良い?
誰かが思いついた画期的な構想は、多くの場合、他の誰かが思いついた画期的な構想である。
どこかの誰かの言葉で見たことがあります。