からくちの、いち。
同日更新3回目の前編です。
女将さんが飯屋の入口を見ながら、呟きました。
「来ないねぇ」
「……」
私も無言のまま視線を追随しました。
お昼のかき入れ時が終わっても、いつもの鎧姿は見えませんでした。
昨日も、一昨日も、その前も――いいえ、自分を誤魔化すのはやめます。
そうです、祭の日からずっと騎士さまはいらっしゃいません。
「就職活動に励むと仰っていました」
「ああ、それでかねぇ」
女将さんが、ぽんと手を打って言いました。
「青果屋と精肉屋の親仁に聞いたんだけどねぇ。どうも大物の怪物を狩ったらしいんだよ」
「……大物ですか」
「あれさね、魔王ちゃんが、なんとか隊ってのを作ったんだろ?」
「……そのように私は把握しております」
旧皇都では、魔王さまは“ちゃん”付けで親しまれています。
自ら広めたという話です。
響きからすると『魔王ちゃん』で一語になっている気はしますが。
どうしても耳にするたび動揺します。
私たちのような辺縁の魔物にとっては、地の底の方――人の言葉ならば、雲の上の方ですから。
広義においては、さまざまですが。
基本的に『魔王』と呼ばれる存在は、特別に周囲の魔物を賦活する力を宿した個体を意味します。
人の言葉ならば『土地神』が近いと思われます。
強大な魔物の多い大陸では、そこまで珍しくない存在だそうです。
けれど、この大陸で『魔王』が発生することは、とても稀です。
女将さんが、うんと頷きました。
「きっと入隊資格ってやつさねぇ。かなり厳しいって話だ、よっぽど受かりたいんだろうよ」
意味ありげに目配せされ、固まりました。
やはり……そういうことですか。
……。
祝福すべき事象です。
ずっと己で示唆してきたではありませんか。
願ったり叶ったりのはずです。
でも――。
この国はまもなく独立する予定。
つまり今は滞留している魔王さまも、じきに引き揚げられます。
そして親衛隊というからには、常におそばに侍るはず。
どこへでも、お供についていくはず……。
からころんと土鈴の音。
「あ……」
「やあ、その……久しぶりだな。はは」
どんな顔を向ければいいのか。
わかりません。
席に着く騎士さまを、ただ目で追います。
当然、怪訝な顔をされました。
「ええと、君……どうしたんだい?」
「いらっしゃいませ」
「普通!?」
騎士さまは、なんだかとても様変わりしていました。
肌は血色よく、髪もきっちり整えられ、背筋はぴんと伸び――なによりも。
騎士鎧ではありませんでした。
魔王さまのお印――とがった羽と尾の意匠が刻印された軽装備でした。
足下から崩れ落ちるような気がしました。
頭が真っ白です。
予想できたことなのに。
覚悟なんて、まるでできていませんでした。
「なんだ。てっきり、誰だくらい言われるかと思ったがね……ま、まさか忘れられて」
「お――」
「む……?」
おめでとうございます、と言うべきです。
ずっと囃し立ててきた私には、少なくともその義務があります。
なのに。
「お、注文は、いかかで、されますか」
「悪化してる!?」
なんたる臆病。
そして卑怯者か。
自分で自分に失望します。
「ええ……じゃあ、いつもの」
「かしこまりました」
「……普通だ……」
消沈しながらも庖厨に定食、激辛でと伝えます。
女将さんが首を傾げていました。
「どうしたね。せっかくだから話をしておいでな」
「……」
耳を伏せて遺憾の意を表明します。
顔を合わせたくありません。
けれど、すぐ出て来た料理を運ばなければなりません。
ままなりません。
香辛料が目にしみます。
「どうぞ」
「あ、ああ……なんだ、君、何かあったのかい?」
「いいえ」
「そ、そうだ! あの、魔王ちゃんが発足した隊に入ったのだが!」
「……っ」
びくりと体が震えました。
毛が逆立っています。いけない。これでは。
「あっ、すまない」
「いいえ」
落ちつけ。
深呼吸。
それから、そう。
「お――おめでとうございます」
言えた。
よし。
「ああ、ありがとう。これで……やっと憂いなく想いを伝えられる」
……。
魔王さま直属の親衛隊ともなれば、俸給もよさそうです。
女将さんの腕がいいといえど、この安食堂に、いつまで足を運んでくれるのか……。
ふと顔を上げると、まずい顔をした騎士さまと目が合いました。
まさか味付けが失敗しているとか。
女将さんにかぎって、そんなこと起こりえないと思いますが。
つい首を傾げました。
「どうかされましたか」
「いや……そうだな、食べ終わってから話そう」
じっくり惚気る気ですか。
どこか逃げ場はありませんか。
針のむしろが草原のごとしです。
庖厨に逃げ込もうとしたところ、宿の帳場にいるからと置いていかれてしまいました。
民宿と飯屋の庖厨は、実は扉ひとつで行き来できます。
何かあれば呼べばいいからと、近ごろは空いた時刻であれば、ひとり店番を任されることも多いです。
女将さんからの信頼は嬉しく思います。
けれも今この時ばかりは……がっくりです。
行き場もなく、うろうろします。
騎士さまがこの国を愛していることは重々承知しています。
それなのに、すべて捨て去る決断をされた。
よほど魔王さまを慕っていることの証左です。
もしかしたら、どう求愛すべきかの相談に訪れたのでは。
あるいは……もう常連ではなくなるという別れの挨拶を告げに。
ならば受けて立たねば。
平静でいられる自信など皆無ではありますが。
最後かもしれない会話くらい、がんばってみせます。
とぼとぼ客席に戻ってきて、壁ぎわから背凭れ付きの椅子を引き出してきて、後ろ向きで座面に乗り上げました。
どうせ私の身の丈では、足裏が完全には床に付きませんので。
「……なあ、君」
「私に何かご用ですか」
「いや、あの、なぜこちらに背を向けてるんだい?」
「なんとなくです」
「そ、そうか……」
「早く食べ終えればいいと思われます」
「そ、そうか!」
猛烈に食べ始めました。
椅子の背に抱きつくようにしながら、ちらと横目で盗み見ます。
……見れば見るほど見違えています。
魔王さまはすごいです。
私が何箇月も言い続けてきて、さっぱり翻意させられなかった騎士さまを、こうも簡単に乗り気にさせてしまうとは。
以前のように、生き生きとした騎士さま。
ずっと見たかったはずです。
望んでいたはずです。
だから私は――喜ばなくてはなりません。