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参章

 戦闘が無い場合、能力者達は各々で訓練や勉学に励む。

 中には戦闘員と訓練官を兼務する者もいるし、組織の雑務を手伝う者もいる。

 居住区で休息を謳歌する者もいれば、暇潰しの相手を探す者もいる。

「おい、お前だろ? 礫華から来た新人」

「ぇ……はい。そうですが?」

 まだ第五支部に不慣れな炯霞は、休日になると差し障りの無い範囲を歩き回り、支部内の地理を頭に入れる事にした。

 自然、多くの人と会う事になり顔と名前が紙面上の物と一致する。今声をかけて来た男性が誰かという事も、把握していた。

(この人は……第二班の鎮めの者だ。何の用だ……?)

 小柄な炯霞を見下して、横柄な態度でじろじろと睨みつけて来る男を、炯霞はおどおどとした視線で見ながら、心中では冷静に男を観察していた。

 還す者や斬る者からの因縁なら慣れたものだが、同じ鎮めの者同士で言うのならこれが始めての経験だった。

「ふん……こんなチビがな……」

 華奢な体つきを馬鹿にするように鼻で笑いながら、男は俯き加減になる炯霞の顎を掴んで無理やり上向かせた。

「なよっちぃ顔しやがって。てめぇみたいなのが『第一斑』だと? 笑えない冗談だぜ」

「っ…! く……」

 男と頭一つ分くらいの身長差がある炯霞が、無理に上向かされる事で首が絞まり呼吸が苦しい。けれど苦しいと訴える事も出来ない。

(嫉妬、か……)

 苦悶の表情を浮べながらも炯霞は冷静だった。鎮めの者同士の争いなど余り無い事だが、気付いてこちらを見て居る生徒も出てきた。騒ぎになれば教官達が来る。

 相手が斬る者や還す者だったら炯霞が罰せられるだろうが、同じ鎮めの者同士なら一方的に裁かれる事も無いだろうと言う読みが炯霞を冷静にさせた。

(俺が来なきゃ、自分が一斑だったのに、って所かな……)

 付けられた因縁の元はそこにあるのだろうと炯霞は結論付けた。

 通常欠けた班員はその次の位にいる班から補充して、育成機関から上がってきた新人を末端に任せると言う方法が取られる。

 なのに今回に限り第六都市から補充した挙句、いきなり第一斑に入隊だ。自分が第一斑になれると思っていた男からしたら面白くない話だろう。

「……っ…ぅ……!」

「俺の腕一つ振り払えないくせに、影と戦う事ができんのかよ?」

 抵抗をしようと思えば出来た。華奢でも炯霞だって戦闘員だ。体術くらい習得している。けれど敢えてそれをしなかったのはこの先の事を考えると面倒だからだ。

(こう言う輩は無抵抗、無関心に限る……)

 ぐっと息を詰めて、炯霞は声を殺した。

 顎を掴まれているせいで首反って声と言うより濁点の付いた息漏れの音、と言った感じだったが悲鳴や嗚咽だと相手に感じ取られてしまっては扱いが悪くなる一方だ。

 嫌がったり抵抗したりすればするほど、加害者側は面白がってちょっかいをかけてくる。だから無反応が一番良いのだ。

 そんな事は今まで嫌と言う程経験してきた。怒鳴られても殴られても、それが如何に不条理な物であっても、炯霞の助けの声を聞く人は居なかったのだから。

 組織に入る前は、孤児として地を這い擦る様な暮らしをしていた。食料も無い。雨風を防げる家もない。少年の孤独を癒してくれる事は誰もしなかった。

それが能力者だと解った所で、何が変わる訳でもなかった。

組織に入って孤独が癒されるかと思ったが、差別対象の鎮めの者には『仲間』と言う意識を持ってくれる人は居ないのだ。

「はっ……っ…!」

「どーした、泣き叫べよ! 苦しいだろ?」

「ぅ…ぐっ……!」

 顎を捉えていた男の手は、何時の間にか首へと移動していて、両手で壁に押し付けられて炯霞の足が若干、床から浮き上がる。

(! っ……意識が……!)

 酸素不足によって炯霞の視界が霞んでくる。それと同時に頭の芯がぼぅっとしてきて意識が遠のきかかる。

 このままでは殺される。

(まずい……)

 殺されると思った途端、炯霞の中に湧き上がる記憶があった。

 首を絞められ殺されかけた記憶。

(駄目だ…!)

 思い出すな、そう自制をかけても思い出してしまった恐怖は抑える事が出来ない。

 絶叫を上げそうになって、それも出来ずに体から力が抜けてゆく。

(冗談じゃ、ない……!)

 こんな所で死ぬわけには行かない。

 大人しくやり過ごそうと思っていた計算よりも、過去を思い出した恐怖よりも、死ねないと言う想いの方が勝った。

「…は、なして……っ…!」

 首を掴む手に弱々しい炯霞の手が伸びる。けれど動かすのがやっとで引き離す事など出来ない。

(死ね、ない……)

 ぼやける視界に写ったのは、過去に見た鮮烈な記憶。

(死ねない……!)

 目の前に立つ母。横に居る父。けれど二人の姿は赤く染まり、好きだった筈の髪の色さえ思い出せない。

 それほどに鮮烈な

 紅い記憶

(死にたくない!!)

 炯霞の手に力がこもる。引き離せないながらも、男の手に爪を立てるくらいならできるかもしれない。

「ぅ…っ…くっ…!」

「抵抗する気か? 面白い!」

「ぁぐっ!」

 言うのと同時に男の片手が炯霞の首から離れ、鳩尾を殴りつける。

 無抵抗の体に容赦の無い打撃は衝撃が強すぎた。痛みと詰まってしまった呼吸に、炯霞の意識が遠のいたその瞬間に、同時に二つの感情が横切った。

(誰か助けて!)

(誰も助けてくれないさ)

 助かりたい希望の上に被って来る、諦めと言う絶望。

 完全に意識が途切れる、その一瞬前に

「教官! あそこです」

突然、少女の声と姿が飛び込んできた。

それは、確かに助けを呼ぶ声だった。

「ちっ、人を呼ばれたか」

教官を呼ぶ声に舌打ちを一つ打つと、男は炯霞を放り投げてその場から足早に立ち去った。

「…っは…ぁ、げほっ……っ」

 急速に呼吸を取り込んだ喉が、焼けたかの様な錯覚をする。吸い込む息が喉を鳴らして喘鳴になり、吐き出す息は全て咳き込んだ。

 壁に凭れてずるずるとその場に座り込みながら咳き込む炯霞の横に、小走りに近付いて来る足音がある。

「大丈夫?」

「っ…は、ぁ……君、は……?」

 しゃがみ込んで炯霞の背中を摩るのは、桃色のふわりとした長い髪の雰囲気、そのままの少女だった。

「私はほのか。姓は桃舞とうま。同じ鎮めの者だよ」

「そ、か……ありがとう」

「どういたしまして」

 言いながら微笑む少女の纏う空気がとても穏やかで、ふと忘れそうになったが思い出して炯霞はあたりを見渡した。

「どうかした?」

「あ、いや……教官は?」

「いないよ。言ってみただけだから」

「え……?」

 聞き返す炯霞にいたずらっ子の様な笑顔を向けて、仄は手を差し伸べて立ち上がるのを手助けしてくれながら答える。

「教官って言ったら逃げるかなって思ってさ、言ってみたの」

「じゃあ、嘘……?」

「違うよー。言ってみただけだってば」

「それって、どう違うの……?」

「教官が来たぞ! って言ったら嘘。でもいない所に向かって呼んだだけなら、言ってみただけ」

 でしょ? と笑う仄の滅茶苦茶な理論に、炯霞も笑った。

「屁理屈って言わない? それ」

「屁理屈でも理屈は理屈だよ」

 胸をはって威張る少女に、呆気に取られてから炯霞は唐突に笑い出した。

 演技でも愛想でもない。腹の底から、本心から可笑しいと思って、いや、そんな事を思う前に無意識のうちに笑い出してしまったのだ。

「よしよし。笑えるなら平気ね」

 締められていた喉はまだ痛かったけれど、込み上げる物が止まらず笑い続ける。それを見て少女も笑うものだから、さっきまでの暗い感情が嘘みたいに思えた。

(笑いあうなんて、久しぶりだ……)

そう考えるくらいの長い期間、炯霞は笑った事が無かった。

 笑顔を浮べる事はあったが、笑う事は無かったのだ。それは炯霞でなくとも鎮めの者は殆どの者が似たような状況だろう。

(それなのに、この子は……なんで……)

 こんなにも自然に笑っていられるのだろう?

 第五都市に来てからの一週間。支部内にいたのは今日を含めて三日くらいだが、それでも鎮めの者に対する扱いが礫華よりはまし、程度で決して良い物ではないと分かった。それなのにこの少女はずっと微笑を絶やさない。

(班員が、良い人なのかな……?)

 班員とさえ仲が良ければ、周りの声は気にしなくてもどうにかなる。それが班制度の良い所ではある。

(でも、それだけでこんな風に笑ってられるのかな……?)

「ん? どうかした?」

「あ、いや……」

 思わず凝視してしまっていた事に気が付いて、炯霞は視線を逸らす。仄の方は意に解した様子も無くにこにこと笑っていた。

「取りあえず移動しようか」

「そうだね」

 鎮めの者同士の諍いを面白がって集まっていた人も、男がいなくなった事でまばらになっていた。仄の言った教官と言う台詞は野次馬を散らす効果もあったようだ。

(不思議な、子だな……)

 息が整い始めるのと平行して、ざわめき立っていた感情の波が引いていく。

仄と話していると、つい先程の出来事が嘘のように思えて来る。けれど引き攣る喉と、殴られた痛みが先程の出来事が現実だと分からせる。

(でも、震えは止まった……)

 体の横で、ぐっと小さく握る拳は力を取り戻しており、赤く染まっていた記憶にも色彩が戻る。

「じゃあ第五都市に来たのは一週間前なんだねー」

「うん、だけどずっと任務が入っていたから、西にいたんだ」

「だから噂の新入りさんは姿が見えなかったのか」

 見学の途中で突然襲われた事を話すと、仄は案内役を買って出てくれた。

 案内をして貰った漠華支部には、礫華支部には無かった施設が複数あった。移動当日に教えられた食堂も礫華支部には無くて、全てが自活だった。

 崩れた家屋。折れた柱。錆びた骨組み。汚水の出る水道。平らじゃない足場。固形の保存食。灰が舞う風。淀んだ空。

 そんな礫華に比べて、漠華は全てが『ちゃんと』していた。

「なに、その噂って」

「だって君、いきなり第一斑になったんだよ?」

「やっぱり、それかぁ……」

 影消の中で、第一斑と第二班の差は大きい。実力の面でもそうだが、権力と言う面でかなりの差が出てくる事になる。

 第二班はいわば各班のまとめ役であるが、第一斑は指示・決定を下す者となる。通常は個々で動いている班が非常事態で集結した時等には、本部との連絡が取れない事も想定して第一斑に全権が委ねられる。

 だから首都は無理でも、支部内の第一斑を目指す者は多い。

「一斑って偉くなるんじゃなくて、やる事と責任が増えるだけだから面倒だなって思うけどなぁ」

「う、ぅーん……そう考える人、あんまりいないと思うよ?」

「そかなー?」

 昇進意欲のない人も、確かに居るだろう。けれど昇進する事を『面倒』と言う人も珍しいと炯霞は思った。

 鎮めの者にとっては第一斑にでもならないと冷遇から抜け出せる機会は無いのだから、昇進意欲は他よりもある筈だ。

「僕は礫華でも第一斑だったから、あんまり面倒じゃないけどね」

「え、じゃあ礫華支部は第一斑に欠員出てるの? 大変じゃないの?」

「反応する所、そっちなんだ……」

 普通は、前の所でも一斑だったなんて凄い! と言う様な反応が返って来る。今まで話した数少ない漠華の鎮めの者達は一様に同じ反応だった。

「え? 他に何か気になる所あるの?」

「いや、いいよ。君が気にならないなら」

 笑ってそう答えてから、炯霞は最初の質問にも答えを出した。

 第六都市礫華支部は、炯霞を漠華に送り、第二班以降の班員を繰り上げ、育成機関からの新人を末端の班に加える事で人数の調整をした。

 育成機関上がりの新人を入れるなら、漠華よりも礫華の方が安全だろうと言う判断かららしいが、特例措置ではあった。

「あー、じゃあの噂もほんとなんだ」

「あの、って……僕はまだ何か噂されてるのかな?」

「うん。真藤支部長のお気に入りだって噂」

「あぁ……それか」

 納得するような炯霞の反応は、噂を肯定していた。仄もそれは分かったようだ。

「実は、真藤支部長が礫華に来ている時、僕の実戦を見て引き抜いてくれたんだ」

 その時に実際炯霞が真藤と顔を合わせる事は無かったのだが、真藤の方は戦闘中の炯霞を見ていたらしい。

引き抜きやお気に入りと言うのは、旗から見れば贔屓になりうる。だから余り吹聴したくは無いのだが、噂になっているのなら、同じ鎮めの者からも風当たりがきつそうだな、と炯霞は密かに息を付いた。

(この子も……ずるいとか、思うのかな?)

引き抜きの事実を仄がどう受け止めたのか気になって、ちらっと様子を伺う。

「引抜きって事は突然でしょ? じゃあお引越し大変だったね」

「……荷物、少ないから」

 凄いとも、ずるいとも言わないその反応と変わらぬ笑みにほっとして、それから炯霞はそんな自分に驚いた。

(安心、した……?)

 人にどう思われようと良いと思っていた。炯霞には目指す物があり、それに辿り付くまでには、何があっても良いと思っていた。なのに……

(警戒を緩めてる……? さっき会ったばっかりなのに)

 けれど仄との会話は心地よかった。

 一瞬、ほっとしてしまうくらいには炯霞も仄との会話を楽しいと感じていたのだ。

「あ、うん。なんか物に執着しなさそう」

「なにそれ」

「物って言うより中身を大事にしそう」

「あぁ、うん。そう言われると、そうかも。君は?」

「んー。私も中身は大事だけど外見も綺麗なの良いよね」

 そう言いながらいきなり仄は炯霞の前髪を一房手にとってまじまじと見つめる。

 そして隠れがちだった炯霞の目を見つめて笑う。

「不思議だけど綺麗な色だよね。赤褐色って言うのかな? 目も茶色って言うより金色みたいで綺麗」

「そ、かな……」

「うん、私好きだよ。だから、中身も好きにならせてね、炯霞」

 髪から手を離して、けれど目は覗き込まれたままで仄は笑う。

「何で、名前……」

「ん? 呼んじゃ駄目?」

「いや、いいけど……」

 名前を、この支部に来てから、いや。影消に入ってから初めてと言っても良いくらい久しぶりに呼ばれた。

『炯霞』

 優しい口調で呼んでくれた両親はもう居ない。他に知り合いも居なかった。影消に来てからはお前とか、君とか、最悪「おい」なんて言う事もあった。

 名前を呼んでくれる人が居る。ただそれだけで自分と言う存在が認められた様な気がした。

「君は……」

「君じゃなくて仄ね? 炯霞」 

「ぁ……仄?」

「うん。なに?」

「なんで、仄はそんなに笑っていられるの?」

 会ってからずっと、思っていた事を思わず言葉にして聞いてしまった。

 鎮めの者となれば、仄だって嫌な目に合って来ているだろう。それ故に鎮めの者には卑屈だったり、後ろ向きな者が多い。

 それなのに仄はそんな所が見られない。

 それが、不思議だった。

「役立たずって言われる事はもちろんあるよ? だけど影消に所属してるからには私にも皆を守る力がある。だったら出来る事をやるだけだよ」

「皆を守る……?」

 鸚鵡返しの炯霞の質問に、仄が頷いて答えるには、仄はこの漠華の外れにある小さな区画出身で、端にあるせいか影が現われても影消の到着が遅れて、被害に合う者が少なくなかったそうだ。

「だから、少しでも影消の人数が増えたら出動早くなるかなって思ったの」

「仄は、出身地の皆を守りたいんだね」

「そう。だから連れて来られたんじゃなくて、自分で来たの」

「そっか……そう言う人もいるのか」

 影と戦う能力は誰にでもあるわけではない。したがって能力のあると解った子供は組織によって親から放され引き取られる。

 今まで炯霞の周りにはそんな人ばかりだったから、自ら組織の門を叩いたと言うのはとても新鮮だった。

 炯霞自身も、自ら組織に入った一人なのだが。

「それに、落ち込んでても何も出来ないでしょ? 進むしかないんだから」

「進むしか……」

「そ。進まなきゃ何も変わらないもの」

 笑う。その周りを和ませるような雰囲気の中にある真っ直ぐな視線に、じわ、っと炯霞の中に染み入る何かがあった事は確かだった。



「二体目の影討伐に移ります。第二班は右の路地へ。私達は正面から行く」

「了解!」

 壬蔓の冷静な指示に従って、六人の能力者が漠華の町を疾走する。

 漠華は土と砂と岩の都市だ。町並みも土壁を使用した背の低い家屋が多く、その中に首都清華からの物資である影消の制服を纏った六人は浮いていた。

 一目で影消だと解る彼らの姿が町中に現われた事で、人々は全てを悟り自主的に家屋内に対比する。戦闘の邪魔にならないようにと言うよりは巻き込まれない為だ。

「奴等は入り組んだ路地を好むわ。追い込んだ所で片をつける」

「路地だと俺の糸使い難いんだけどしょーがない。第一斑の意地みせましょーかね」

 的確な指示を出す壬蔓に、余裕を崩さない武流。二人の態度に炯霞は心中で少し感心していた。

(ふざけてるだけかと思ったら、実力がちゃんと伴ってるんだよな……流石は第一斑ってところか)

 移動から一ヶ月近くが過ぎ班員の能力を知るほどに、礫華から漠華にあがっただけでこんなに実力が違う物かと、炯霞は実感していた。

(漠華でコレなら首都に居る能力者は、もっと上って事か……)

 炯霞の目指す所はきっと首都にある。

 その為にも功績をあげていかなければならなかった。しかし昇進を果たして首都に近付きたいのは炯霞だけではない。

 影消では定期的に能力者の移動が行われる。実力のある者が出身地と言うだけで礫華や漠華に埋もれないよう、また逆に実力の低い者が清華や湖華で無駄に命を落とさぬよう設置された制度だ。

 その移動の時期が近付いている。

 それ故に上に登りたい面子は任務にかなり積極的だった。それはもちろん昇進圏内に手の掛かっている第二班の面々も同じだった。

『影を肉眼で捕捉! 鎮めに入ります!』

 余り長距離は使えないが、合同討伐くらいになら丁度良い小型の無線機から、第二班鎮めの者の意気込んだ声が聞こえて来る。

「あら、二班のが早く着いちまったか」

「暢気な事を言っている場合じゃないわ! 影を探査して」

「了解」

 壬蔓が最後の言葉だけを炯霞に向けて発する。名前は呼ばれなくとも解る命令に短く返事をして、炯霞は走る足はそのままに目を閉じて短い集中の後、手の中に朱色の横笛を出現させた。

 能力者の力を具現化させ、其々の武器とするのだが稀に武器とは思えない物になる事もある。炯霞の笛も、一見ではどうなるのかわからない物の一つだ。

「炎の蝶」

 朱色の横笛に炯霞が軽く息を吹き込んでも音は出ない。代わりに現われるのは火の粉を鱗粉として纏った炎の蝶だ。

 赤とも橙とも見えるその体は掌に載る程度の大きさで、火の粉の尾を引きながらふわりと飛ぶ。

 炯霞達に先行して、影の元に向かう蝶から離れた場所の様子が炯霞に伝えられる。

「影は……分裂型?! 無闇に手を付けたら爆発する!」

「っ! やはり! 第二班聞こえている?! 私達が行くまで待機行動を取りなさい」

 言葉の後半は無線機に向けたが、壬蔓の声に返って来る音は無い。

「やられちまったかな?」

「軽口は謹んで。急ぐわよ」

「へぇーい」

 走る速度を上げる。やる気の無さそうな返事をしていても、武流もちゃんと付いて来ていた。

 炯霞が確認した分裂型の影は漠華には珍しく、対抗できる能力者もこの地には少ないだろう。

 一個の小さい影だと思わせておいて、実は巨大な影の凝縮体で、危険と判断すると爆発するように一気に分裂し、能力者は一瞬で影に取り囲まれる。

「第二班の斬る者は複数攻撃ができない筈よ。鎮めの者と連携しても分裂型相手にどれだけ持つかわからないわ」

「なぁ、その蝶使って現場の様子って探れねーの?」

「……混戦してます。爆発した影はその数十五体。五体は鎮めの者が捕捉、他は斬る者が八体、還す者が二体と対峙。けど、膠着状態です」

 どうにかギリギリの所で対抗してはいるようだが、対抗が精一杯で反撃にまで回れていない。早く加勢に行かなければ怪我では済まないかもしれない。

「捕捉範囲に入りました。十五体、捕捉します」

「了解」

 炯霞の言葉に壬蔓が返し、武流はさっと耳を塞いだ。今まで班を組んで以来の経験で身に着いた行動だった。

「戯れろ炎の蝶!」

 一瞬足を止めるほどの息を横笛に吹き込む。先程は音を立てなかった笛が空気を裂く様な甲高い音を上げると、炯霞から無数の蝶が噴出し、飛翔する。

肉眼でも確認できるまでになった影達に向かって、ざっと音を立てて蝶が飛ぶ。十五対の影を覆い尽すようにその体に止まると、もがいていた影の動きが徐々に鈍くなって行く。

「第二班! 今のうちに逃げなさい!」

 壬蔓の鋭い叫びに慌てながらも動きの鈍くなった影から逃れ、第二班の三人が転がる様に走りだした。

 それを見届ける前に、武流の手からは複数の銀の光が放たれていた。

「滑れ! 風の糸!」

 十の指全てから放たれている銀の光は、武流が叫びと共に大きく振り下ろした腕の動きそのままに、空中から影に向かって軋りながら降下し、影を細切れにする。

「弭芹、援護行動に移ります」

「頼むわ。天祇、これより消滅行動に入ります」

「足止めは任せとけー!」

 目を閉じて意識を集中させる壬蔓の周りを、炯霞が新に出現させた蝶がひらひらと舞う。防御の役割をその蝶に与えて、武流が斬り刻んだ影が元に戻ろうと動くのを他の蝶達で阻む。

 武流の糸は逃れようと動く影を追いかけて容赦なく切り捨てて行った。互いの力を良く解った綺麗な連携だ。

「すごい……」

 影から逃れて端でそれを見ていた第二班から、ぼそりと感嘆が漏れる。

 自分達と実力が桁場ずれに違う訳でもないが、明らかに格が上だと解らされる。

「くそ……こんなはずじゃ……」

 小声ではあるが悔しさを滲ませたのは鎮めの者だった。炯霞を締め上げたあの男だ。

 相対している影が分裂型である可能性は知っていた。けれど自分ならいけると言う自信が彼にはあったのだ。しかし、実際の所は五体を押さえるのがやっとで、斬る者と還す者を危険に晒してしまった。

 自己判断で行った特攻のせい故に、後で何を言われるか分からない。

 そんな悔しさと恐怖とをない交ぜにしている鎮めの者の視界に、ひらっと舞い降りる光があった。

「……?」

「これは、一斑の……」

「俺達まで、守ってるのか?!」

 第二班の三人が自分達の周りを飛ぶ炯霞の蝶に気が付いて驚く。

 炯霞は今、壬蔓を援護しながら武流の動きに注意しつつ戦闘にも加わっている。それなのに、自分達に護衛の蝶を飛ばすなど、高い制御能力と精神力がないと出来ない技だった。

「弭芹……やっぱり、支部長が引き抜いてくるだけの事はある」

「あぁ……鎮めの者なんぞ褒めたくはないが、凄いな」

 還す者と斬る者の、聞いた事も無い褒め言葉。それが自分にではなく炯霞に向けられているのだという事が、鎮めの者には耐えがたい屈辱だった。

「…くそぉ…っ! 弭芹……」

 暗い瞳が炯霞を睨む。

炯霞の放った蝶を鬱陶しげに払いながら、座り込んだ地に拳を突き立てる鎮めの者の影が、ゆら、と動いてまた戻る。

「あいつより、俺が……」

 鎮めの者が感情を高ぶらせれば高ぶらせるほど、彼の影がゆらゆらと揺れて、そして影がニヤリと笑んだ事に、誰も気付かなかった。

「響け剣の歌」

 集中させていた意識を、言葉と共に一気に拡散させる。壬蔓の具現武器は目に見えない旋律。

 歌を歌う様に特殊な発声法から壬蔓の歌はできあがる。

彼女の全身から放たれる気が、薄い金属が擦れるような、しゃらしゃらと言う音を立てて旋律となって降り注ぐその様は、目には見えていない筈なのに無限の剣が影が消えるまで振り続けている様だった。

 決して不快ではないその旋律を、壬蔓が歌い終わる頃には影の痕跡は綺麗に消えていた。影の気配を探っていた炯霞が小さく合図をすると、壬蔓は歌うのを止める。

「消滅完了。漠華西地区影討伐、これにて終了を宣言します」

「おっつかれさーん」

 終ったー! と伸びをしながら武流が叫び、それを壬蔓が睨んで炯霞が苦笑する。それは炯霞が第五支部に来てから毎回繰り返されている光景だ。

 各々がどんな心情でいるかは別としても、旗から見ればそれは仲の良い班の風景だ。当然、第二班の鎮めの者は面白くない。

(あそこに居るのは、俺の筈だったんだ!)

 心中でなおも毒を吐く男に、すいっと壬蔓が近寄って言葉をかける。

「意気込むのは良いけれど、空回りは迷惑よ。周りを巻き込んだ事を反省して次に生かしなさい」

「っ! ……すみません、でした」

 至極冷静な言葉が、逆に羞恥を誘った。

罵られる方が反発も出来るものだが壬蔓の言葉は真実であり、反論の余地も無い。

 壬蔓に悪気が無いのも、更に周囲から同情的な視線を集め、男は居た堪れない思いだった。

「役立たず」

「ホント、同感」

「っ!」

 吐き捨てる様に言われた二人の言葉は侮蔑に溢れていた。それに反応して思わず二人を睨めば、見下した、邪魔な物を見る視線とぶつかって余計に顔を歪ませた。

「なんだよ、睨んでるぜ?」

「鎮めの者のくせに歯向かう気かよ」

 反撃しようと思えばできるかもしれない。けれど攻撃的な力を持っていない鎮めの者はどうしても弱い為に強く出れない。

 それに、反撃に移れないのにはもう一つ訳があった。

「その辺で止めとけお前等」

「蛟さん……」

 驚いた事に第二班の二人を止めたのは壬蔓ではなく、もちろん炯霞でもなく武流だった。それには二班の三人も驚いていた様だが、驚きの表情は直ぐに笑みに変わる。

「鎮めの者刺激しすぎて、・ま・た・裏・切・ら・れ・た・ら洒落にならねーぜ?」

 なぁ? と炯霞の肩に手を置く武流に二班の二人は爆笑し、炯霞達鎮めの者は俯くしかなかった。

 裏切り者

 それは鎮めの者全員が言われる事で、この冷遇の発端でもある。

 過去に影と人との大戦があった。

戦いは長引き、大地も人も疲弊して、けれど終わりの見えない戦争に終止符を打ったのが、人の側に現われた『伝説の力』を持った三人だった。

 鎮め、斬り、還す事で消滅させられる影を、伝説の三人は個人だけで可能にした。 

 お陰で戦況は緩やかに変化し、人は住処を確保して影の出現も落ち着いた。

 平和を取り戻したその矢先に、伝説の力を持つ内、鎮めの者が暴動を起こした。

「力ある者が世界を制してなにが悪い?」

 そう言って影を操る力を持っていた鎮めの者は、影で兵を編成して人間達に牙を向いた。

 内乱は斬る者と還す者が命に代えて終結させ、裏切りという傷跡を残したまま世界は動き出し、それが差別と言う形で残ってしまった。

 だから鎮めの者は嫌われる。

「無駄口は終わりにして。帰還します」

「はーい。壬蔓お姉さまー」

 溜息と共に言うと壬蔓は先に立って歩き出した。ふざけた調子で炯霞から離れた武流がそれに続き、二班の二人が後を追った。

「……なにも、知らないくせに」

 ぼそりと呟かれた炯霞の言葉は、誰に聞かれる事もなく大気に消えた。

 良く見れば丈が長くて見えない炯霞の手は、色を無くすほど強く握られ激情を堪えているのだと分かる。

「二人とも、早く来なさい」

「はい。今、行きます」

 壬蔓に促されて、炯霞はなんとも言えない表情で歩き出す。数歩行った所で振り返り、動かずに俯いている鎮めの者に躊躇しつつ声をかけた。

「……行きましょう」

 かけられた男は、炯霞に言われたくないとばかりに歩き出したが、俯いた顔はそのままだった。



「あ、炯霞」

 第五支部に帰った六人を一番最初に出迎えたのは仄だった。

出迎えてくれる仄の笑顔に、炯霞もつられて笑みが浮かぶ。沈んでいた気持ちが、ふっと楽になる様な気がして、ゆっくりと仄の元に進む。

「おかえり」

「ただいま」

 当たり前の挨拶が、嬉しくてどこかくすぐったい。

支部長室に続く通路で一人立っていた事を聞けば、仄の所属する七班もまた任務後で、支部長に報告をしに来たところらしい。

「仄は報告に行かなくて良いの?」

「うん。私はいらないんだって」

 苦笑を浮かべて話す仄の言葉の裏に、七班班員の心理が見えた。

 仕事だけやっていれば、報告等の上官と関わる様な、いわば表の事には顔を出すなと言う事だ。

「報告を揃ってしないなんて、支部長に失礼だとわからないのかしら」

 仄の受けた待遇に憤慨しているのは意外にも壬蔓だった。正確には、報告を班員揃ってしない事に怒っている様だが。

「まぁ、七班は七班。うちはうちだろ。さっき行ったならそろそろ終るんじゃねぇ? 行こうぜ。二班もな」

 ニヤ、と笑って二班を促す武流に鎮めの者が渋い顔をする。相手が武流だからこそ黙っているが、これが炯霞だったら何を言われているか……

「炯霞達は合同捕縛だったんだね」

「うん。二体相手だったからね」

「それでかぁ。それでも凄い面子だよね」

 言いながら仄は六人を眺めやる。本人達にしてみればなんと言う事はないが、端からみれば支部の上位二班が揃っているのだ。嫌がおうにも目立ってしまう。

「その集団に普通に声かけられるあんたもすげぇよ」

笑いながら武流が言う。その笑いには差別的なものは含まれておらず、感心した様な物だった。

確に他の者達は遠巻きに見ているだけで、近付きはしない。まして仄は鎮めの者。斬る者と還す者がいる中で、例え声をかけたのが炯霞だとしても一斑の人間に声をかけるなんてありえない話だ。

「だって、炯霞は友達だもん。ね?」

「うん。そうだね」

 友達だと、こともなげに言う仄に炯霞が微笑み返すと仄も笑う。それを武流が意味有りげな笑みを浮べて見ていると、七班の班員達が支部長室から退出してきた。

「報告、がんばってね。また後で」

「うん、後で」

 班員達の元に向かう仄に手を軽く上げて答える炯霞に、武流がにやつきながら耳打ちするように近寄る。

「なに、彼女か?」

「ち、違いますよ!」

「照れるなってぇ。可愛い子じゃねーの」

 武流の突然の言葉に炯霞も慌てて首を横に振る。それを壬蔓が促して支部長室へ入ってゆく。

「くそぉ……!」

 ぼそりと漏らされる鎮めの者の悔しそうな声。彼からすれば、先程から目の前で繰り広げられる幸せそうな光景は、憎々しく見えて仕方ない事だろう。

 二班の斬る者と還す者が一斑の後に続いて、鎮めの者だけが暗く淀んだ空気を身にまとっていた。



「第一斑、第二班、合同捕縛完了報告に参りました」

「おぅ、ご苦労さん」

 支部長室に入ってから、壬蔓が淡々とした口調で捕縛の詳細を伝えてゆく。もちろん、二班・鎮めの者が先走ってしまった事も報告には含まれる。

「そうか。まぁ全員無事でよかった。弭芹」

「はい」

「良くやった。引き抜いてきた甲斐があったな」

「いえ、皆のお陰です」

 にこりと微笑んで返す炯霞の言葉が、本音なのか建前なのか、見極める事は難しいだろう。けれど真藤は炯霞の笑みを『建前』と読んだ。

「なぁ弭芹、俺はこの第五支部長で終る気はないんだ。だから、お前には期待してる」

「……はい。頑張ります」

 真藤が炯霞に寄せる期待。それはもちろん炯霞の活躍を意味するのだが、炯霞が有名になればなるほど、それを見出した真藤の評価にも繋がっていく。

 言葉に隠された意味を正確に汲んで炯霞は返事をする。ここまで堂々と「お前を利用してのし上る」と公言する人も珍しい。

 炯霞はその潔さが気に入っている。

「ここにいる六人に内々の話がある」

 改めて真藤が言う言葉に、六人も姿勢を正して聞く体勢に入る。今の話の流れから言って大体の予測が出来る話ではあった。

「そろそろ、移動者査定の時期だろう事は分かっていると思うが、実はその査定は明日からの二日間で行われる」

 明日という言葉に六様の驚きがあった。話の予想はできても、まさか明日なんて急な事だとは思ってもいなかったからだ。

「その監視者は今日到着予定でな。他の奴等には分からない様に案内なんかを依頼するかもしれない。よろしく頼むぞ」

「了解しました」

 話しはそれだけだと解散を言い渡して涼しい顔をしているが、この六人に監視者の事を教えたと言う事は、接する機会を多く持て、自分を売り込む機会が増えるという事だ。

「報告終了致します」

 失礼しました、と全員で礼をしてから支部長室を後にする。

(移動査定……これを逃したら一年後か)

 自室に戻り自由行動となってから、炯霞は部屋の明かりもつけず寝台に転がっていた。影が恐れられているだけに、暗闇を嫌う者も多い中、炯霞は闇が平気だった。

 好きだという訳ではないが、嫌いでもない。考え事をする時には良く暗闇の中にいる。

(父さん……母さん……)

 孤児として影消に入隊している炯霞だが、実のところきちんと両親の記憶がある。

 六歳までは両親と共に貧しいがそれなりに楽しい生活をしていたのだ。しかし、ある日突然二人は殺された。

 炯霞の目の前で二人は襲われ、炯霞自身も首を絞められ殺されかかった。けれど寸での所で逃げ延びた父に助け出され真実を聞いた。

『いいか炯霞。母さんを殺したのは……』

 その時に聞いた犯人を追う為に、炯霞は影消に入隊した。

(首都に……必ず)

 炯霞が首都を目指すのは、仇を探す為。その為には今回の査定でどこでも良い。上の都市に移動を果たさなければ。



「くそぉ! 弭芹のやろう!!」

 悔しまぎれの男に殴られた壁がどん! っと鈍い音を立てる。支部長室から自室へと帰る途中、案の定二班の斬る者と還す者に呼び出され、散々嫌味と罵りを浴びせられながら殴られた。

「自信満々に飛び出した挙句返り討ちってどういう事だよ!?」

「十五体いたうちの五体しか手に負えないなんて使えなさすぎるぜ」

 二人の言う言葉は辛辣で、でも真実だった。悔しくても反論は出来ない。そうして黙って殴られる事一時間。

 やっと解放されて男は恨みの全てを炯霞のせいにした。

「あいつさえ来なければ俺が一斑だったんだ! あいつさえ居なければ……!!」

 一斑になったところで冷遇は変わらない。今日の失敗がなくなるわけじゃない。だけど思わないではいられない。

『あいつさえ居なければ』

 消えてしまえば良い!

 人の不幸を願う時、暗い感情が膨れ上がる。その感情が限界を越えた時

「っ! ぅ、ぅわぁ!」

 人通りの少ない路地に、男の悲鳴が木霊する。

 男の眼前に迫るのは意思を持って人を襲う影。通路の照明が切れた薄闇の部分から、鎌首を上げて男を見下ろす。

どうしてか直ぐには襲って来ない影を、不思議に思う余裕も無いほど慌てた男は咄嗟に逃げ打つが、その退路を塞ぐように、一人の姿が立ちふさがった。

「…っ…お前は!」

 影消内に影が出現している事に驚きもせずに、その人は男の前に立ち、至極冷静な口調で短く問う。

「憎い?」

「何を……っ…!」

 突然伸ばされた手に、怯えて体を竦めるがそれは攻撃の為の手ではなく、そっと包み込むように優しく頬に触れて来た。

「殺したい?」

「っ……?!」

 耳元に寄せられた唇から出る囁きはとても甘く、まるで睦言を紡がれているかの様だがその内容は男の心理を曝け出していた。

 息を飲んで驚く表情は、言葉の肯定。

その男の反応に満足したのかその人は薄く微笑んでから両手で男の顔を掴んだ。

「じゃあ、力をあげる」

「! っ…ぁ…ぁああああ!」

 にやりと歪んだ口元が、男の恐怖を煽り次に来た衝撃に耐え切れず悲鳴を上げる。

 鎌首を持ち上げたまま見守っていた影が、その人の合図で男の体を覆い、蝕み、侵食する。

中に入り込んで内側から男を壊し、支配して行く。

「ご気分は?」

「……はぁ…はっ…さいこーだ……」

「それは良かった」

 くすりと笑んでその人は姿を消した。

 荒い息を整えられないままの男は、それでも己の中から滾る力に喜び、打ち振るえ、喉の奥から引き攣るような暗い笑いを続けていた。

「…は、ずせ…り……」

 ころしてやる

 笑う男の背後には、ゆらりと揺れる黒い影。

 壁に映るその姿は、まるで影に操られて歩く操り人形のようにも見えた。


 

(監視者の案内は天祇がするって言ってたな……)

 壬蔓ならば、新人の案内役を請け負ったりもするので、周囲の者達には監視者だとは分からないだろう。

そして壬蔓が案内と言う時点で、彼女の移動は確定しているのだろう。元々が第一都市の出身だそうなので、それも納得できるが。

(移動枠が何人なのか、だな……)

 有望な人材を全て連れて行くのか、それともその中からも選ぶのか。第一斑と言えどそこまでは知らされていなかった。

「でも、天祇には感謝かな……」

 後ほど班員として紹介するから集合しろと、さっき伝達が来た。

 無条件で監視者に目通りできるのはありがたい事だ。そこを変に自分だけを売り込もうとしない壬蔓の誠実さに炯霞は好感を抱いた。

「あの人、きついけどただ真っ直ぐなだけなのかも……」

 第五都市に来てから一月と少しが過ぎた。

殆んどの時間を任務に費やしていたので、まだ支部内の事は把握できていないが、人間はなんとなく分かってきた。

 特に班員である壬蔓と武流は一緒にいる時間が長いだけに、分かりやすい。

 武流は鎮めの者に、と言うより人として気に入るかどうかが基本にある。もちろん、鎮めの者と言うだけで初めから嫌い寄りに分類されている事はいなめないが。

 壬蔓は他人にも厳しいが自分にも厳しい。ただひたすらに真っ直ぐだ。その厳しさが鎮めの者にとっては冷遇と取れるが、良く見ていると誰にでも同じ態度だ。

「あとは皆同じだもんな……」

 第六都市でも第五都市でも変わらない。斬る者と還す者が固まって、鎮めの者を冷ややかな目で見ている。

 鎮めの者は固まるか、自分一人の世界に入り込んでいるかどちらかだ。

「違うのは……」

 思い浮かべるのは桃色の髪。いつも微笑んで前を向いている仄。

「あんな子、初めてだ……」

 訓練学校の頃からあんなに前向きに物事を見ている人はいなかった。会話がちゃんと成立する。それだけでも炯霞には新鮮な出来事だった。

「……移動したら、離れちゃうな……」

 ぽそりと突いて出た言葉に自分で驚く。

 物には執着しない。大切にすれば壊された時の辛さが増すから。その考えは人に対しても同じだった。

 それなのに、そんな感情を自分が持った事に驚いた。

(何時の間に……)

 いつからそんなに大切になったんだろう。

 そう考えて見ても特に大きなきっかけがあった訳ではない。強いて言うのなら出会ったあの時。

優しく名前を呼んでくれた。

それが一番のきっかけだろう。

 あれから何があった訳でもなく、ただ普通の会話を続けていただけだけれど、それだけで癒される気がした。

(だけど……仕方ない)

 上に登る。そう決めて来た。

 だから歩みを止めるつもりは無い。何よりも前に進むしかないと言っていたのは仄だった。

「行かなきゃ」

 ぐっと力を込めて体を起こす。

 少しでも寂しいと感じた想いを部屋の暗闇の中に残して、壬蔓に指定された場所へと向かう。

 顔合わせの場所として指定されたのは影消の者ならば誰でも入れる談話室のような場所だ。

 人の集まる場所でわざわざ監視者を紹介しなくとも良いだろうと思うのだが、それが監視者からの指定なのだそうだ。

「来たわね」

 談話室の一角に既に壬蔓と武流が揃っており、二人の横に知らない顔の少女が居た。

 それが監視者なのだろうが、随分と若い。見た目だけで言えば自分とそう変わらないだろう少女は、青みがかった長い髪が印象的だった。

「弭芹、彼女が研修者だ」

「研修……? あぁ、はい。宜しくお願いします」

「宜しく」

 流石に監視者だとこの場で言うのは避けた様で、それを察して炯霞が微笑んでお辞儀をすると、にこやかに右手が差し出された。

 一瞬戸惑ってからその手を取ると、ぎゅっと握り返されてぶんぶんと振られる。

 ずいぶんと陽気な挨拶に面食らってまともに見ていなかった審査官の事を見て見ると、満面の笑みで炯霞を見つめていた。

「……汐、自己紹介をして。弭芹が戸惑ってるわ」

「あー、ごめん! あたし汐。姓は神祈ね」

「能力!」

「もー、相変わらず怖いなぁ壬蔓は。水の剣を使う斬る者ね」

 改めて宜しくー! と再度握ったままの手をぶんぶんと振られる。

 呆気に取られている炯霞がふと横を見ると、武流が苦笑している。きっと武流も同じ自己紹介をされたのだろう。

(仄と正反対の印象だな……)

 穏やかな印象を受ける仄と反対で、汐からは苛烈な印象を受ける。壬蔓でも相当きつい印象だと思ったが、汐の強烈さに比べると大人しく思えて来る。

(太陽みたいだ)

 憧れるのに近寄れない熱さを持つ、そんな雰囲気が汐からはした。

「ねぇねぇ壬蔓。この子可愛いねー。いじめちゃ駄目だよ?」

「人聞きの悪い事を言わないで」

 握手していた手をやっと放されたと思ったら、今度は頭の上に乗せられてぐりぐりと撫でられる。

 それで改めて汐の方が炯霞より身長が高いのだと認識する。

(もしかして、子供だと思われてる……?)

 呆れ果てた様子の壬蔓は汐を止める事に諦めているようだ。もちろん武流は笑っているだけで止める様子は無い。

「あ、あの……」

「んー? なに? って、あ! あたし君の名前聞いてなかった。名前は?」

「あ…、姓は弭芹、名は炯霞。炎の笛を使う鎮めの者です」

「炯霞か。響きの良い名前だね」

 どこまでも自分の調子を崩さない汐の喋りに、困り果てているとやっとの事で壬蔓が助け舟を出してくれた。

「汐、話しが進まないわ。真面目にやって」

「もー、固いなぁ……」

 文句を良いながらも汐は炯霞から手を放し、大きく短く息を吐いてすっと表情を変えた。

「今日から三日間の間でこの支部内にいる能力者を監視します。私の独断で移動者は決定されますが、限りある時間では限界もあります。そこで第一斑の皆さんには協力して貰う事も多いと思いますが宜しくお願いします」

 コレで良い? とばかりに壬蔓を見る汐は、既にまじめな調子からは外れており、本当に堅苦しいのが苦手なのだなと分かる。

「まったく……監視者としての威厳をもう少し持ちなさい、貴女は」

「この間似たような事教官に言われたー」

 苦笑する汐に呆れた溜息を付きながらも壬蔓の浮べる表情は姉の様な雰囲気があった。

 先程から繰り広げられる会話からすると、この二人は第一都市清華での知り合いのようだ。

「協力っても、具体的に何すりゃいいの? 俺偵察とかそう言うの向いてねーけど?」

 汐の持つ雰囲気に当てられたのか大人しかった武流だが、逆に監視者相手でも畏まらなくて良いのだと開き直ったようで、いつもの調子で話しに入り込んできた。

「簡単簡単。貴方達から見た支部内の実力を教えてくれれば良いの」

「って事は、俺らが『こいつ駄目』って言ったらそいつは即対象外?」

「そうなるわね」

 あっさりとした答えに武流が短く口笛を鳴らす。完全に面白がっているのが分かる。

「だからって嘘教えたり、個人感情挟んだりしたら貴方への査定が厳しくなるだけだから覚悟して」

「おっと、そこは流石に厳しいのな」

「当然」

 冗談めかしているが、汐の言葉は本気だった。適当なのかと思えば締めるべき所は締める。そう言う所がなんとなく壬蔓と似ているなと炯霞は思った。

「ねぇ、炯霞は推薦したい人いる?」

「え、えぇと……」

 くるっと振り返るなりいきなり話を振られて炯霞は盛大に戸惑った。

 いきなりの名前呼び捨てにも戸惑ったし、真っ先に自分の意見を聞こうとする所にも戸惑った。普通ならここは班長の壬蔓に振るべきところだろう。

「なんか炯霞って自分の事も物凄い冷静に分析して見てそうな感じするんだよね。だから聞かせて?」

「そ、んな風に、見えますか……?」

「見える。それから敬語禁止ね」

「え……」

「かたっ苦しいじゃん。あ、まさか壬蔓が敬語使わないと怒るとか?!」

 言葉尻と同時に壬蔓を振り返る汐の頭を、躊躇なく壬蔓が叩いた。べしっと音がするくらいの良い突っ込みだ。

「強要はしてない。訂正もしなかったけれどね。弭芹、貴方が気にしないなら私に敬語は必要ないわ」

「あ、いえ、でも……」

 今更、と言う気もするし、何より他の還す者や斬る者から見たらとんでもない事だ。何を言われるか分からない。

「こいつが俺らにタメ口なんか使ったら周りからボコられるぜ? いいんだよ鎮めの者は敬語使って媚びてりゃ」

 な? と同意を求められて炯霞は頷いた。

言葉は乱暴だが武流の言っている事は真実だ。差別的な意味合いが含まれた発言だが、コレばかりは素直に同意できる。

「もーなんで皆して鎮めの者を冷遇したがるかなぁ。影の探査とかあたし凄い苦手だから、それが得意ってだけで凄いと思うんだけどなぁ」

「どんなに凄かろうと、裏切り者なんだからしかたねぇさ」

「でもそれは昔の、ただ一人の事でしょ? 今大勢いる能力者の事じゃないじゃない」

 本題から反れた会話ではあったが、汐の人柄を見るのには最適な会話だった。こうまで鎮めの者を庇う人も珍しい。

会話の中に壬蔓が参加しないのは、どちらの意見にも寄らない中立を保っているからだろう。そして汐の持論は前から知っているのか、さして驚いた様子もなく聞いている。

「昔って程前の事じゃないだろ。いまだに大戦の傷跡はある」

「……まさか、貴方、大戦被害者?」

「親が、な」

 いつも陽気な調子を保っている武流にしては、珍しく苦々しい表情だ。うっかり言ってしまったという様子だが、今更隠すつもりもないのか、溜息を一つ吐き出してから語りだす。

「大戦が終結したのは俺が赤ん坊の頃。物心付いた時にはまだ戦争被害から立ち直ったばかりだった。お前等だってそうだろ?」

 武流と壬蔓は一つ違いで壬蔓の方が上だ。炯霞と武流は五歳違いなのでまだ炯霞の方が戦後の傷跡は見ていない事になる。

「俺は両親も影消に所属していたから、大戦で父親は死んで、母親は腕が無かった」

 軽い口調で語られてはいるが、内容は軽くなかった。武流の母親のように、現在の五十代から上の年齢にある能力者達は確かに戦争被害で体に障害を持つ者が多い。

「組織からの補助もあった。功労者としての報償もあった。だけど金じゃ解決できない傷跡もある」

 生活の不便さや、傷跡から来る後遺症、痛み。そして何より精神的な傷。

 それらはどんなに手厚く労われても、中々消える物ではない。武流の母親もまた、そうした苦労を強いられ、そんな母を見て育った武流は鎮めの者を嫌うのだろう。

「戦う時に高揚すんのは確かだ。だから戦い自体を嫌いだとは言わない。力があるから頭取ろうとした奴の気持ちが分からない訳じゃない。だけど、大戦が無かったらと思うのもホントだよ」

 そこまで言って武流はチラっと炯霞の事を見る。鎮めの者は無条件で嫌われる。それは武流の様に考えている人が多くいるからだろう。

 鎮めの者が起こした反逆。

 鎮めの者にしか起こせなかった叛乱。

「鎮めるって事は、影の精神を揺るがす何かをするって事だろ?」

 疑問は炯霞に向けられている。

 同じ影消の能力者だと言っても、斬る者と鎮めの者では能力の方向が違い過ぎて、互いの力をあまり熟知はしていない。

「影の、って言うより生物全般に効く催眠術、みたいな感じです」

「影は生物かよ?」

「意思がある限りは、生物としての精神攻撃は有効です」

「催眠で従わせる事も?」

「……できます。力があれば」

「じゃあ、今でも裏切りは可能なわけだ」

「力と、その意思があれば……」

 問い詰めるでもない淡々とした武流の質問に、言いたい事が分かるだけに居た堪れない思いをしながら炯霞は事実を曲げる事無く答えた。

 武流は現代に蘇ったと噂されている『伝説の武器』を持つ『白の能力者』の事を指しているのだ。

 それが分かるだけに、汐も口を開く事が出来ない。

 自分の持つ白の武器。それが大戦を収めた伝説の能力者達が持っていた武器の生まれ変わりだという。

 その為に汐は大事にされる。もう一度来るかもしれない『裏切り』の時に備えて。

「斬る者と還す者の存在は確認されてるんだったな? だったら鎮めの者だって存在してる筈だ。総何時が目覚めたら、第二大戦の始まりってな?」

「だけど、裏切るとは限らないじゃない」

 やっとの事で搾り出した汐の声は、自分が非難されている訳でもないのに涙声だった。

「裏切るのを前提で、鎮めの者に冷たく当たって、何が変わるの?」

「用心に越した事は無い」

 冷たく言い切る武流に、汐が反論しようと声を上げかかった時だ。

「!?」

 ガタン、と大きな音を立てて突然炯霞が椅子から立ち上がった。

「なんだよ弭芹、文句が……」

「違う!」

 怒鳴り声に気圧されて武流が言葉を呑む。

 いつも穏便な調子を崩さない炯霞の怒鳴り声は、談話室に居た他の能力者達にも聞こえ注目を集めた。

 けれど当の炯霞はそんな事を気にした様子もなく談話室の入り口を振り返り、警戒心を剥き出しにした野犬の様な目付きで睨んだ。

「弭芹……一体……?」

「…来る!」

 壬蔓が珍しく動揺した様子で炯霞に声をかけたと同時に、炯霞は手の中に朱色の笛を出現させた。

 戦闘態勢に入った炯霞をその場に居た皆がいぶかしむ中で、数人の鎮めの者が一様にばっと警戒態勢を取った。

 炯霞がいち早く気付いた気配に、他の能力者達も気がついたのだ。

「まさか、支部内に影が……?!」

 憶測を壬蔓が口にした途端、入り口のドアが吹き飛び、叛乱する濁流の様な形状の影が飛び込んで来た。

「っ!」

「緊急戦闘配備!」

「鎮めの者、抑えるぞ!!」

 息を飲み、怯む者達の中で咄嗟に叫んだ壬蔓の指示と、炯霞の号令に能力者達が我に帰った。

 ぴぃいっと甲高い音を立てて、炯霞の笛が鳴り響き炎の蝶が雪崩れ込む巨大な影に向かって飛び回る。

 他の鎮めの者が放ったのであろう蔦が影の一部を絡め取り、見えない壁が押し留める。それでも尚、ジリジリと前進を続ける影に銀に煌く無数の線が走る。

「細切れになれ!」

 上げた両手を振り下ろすと、武流の糸が巨大な影を切り裂いた。が、その時に違和感を感じた。

「手応えがない……」

 細切れにされた影は還す者達によって次々と消されているが、影の勢いは治まらなかった。室内に次々と溢れてくる影の動きを止めるのに鎮めの者が必死になり、還す者も出来る所から次々と影を消してゆく中で、壬蔓もやはり違和感を感じていた。

「この影、まるで靄みたい……」

「弭芹! 気配探れ。こいつ本体じゃねぇ!」

 溢れて来る影を次々と切り刻みながら武流が叫ぶ。言われるままに気配を探る事に集中した炯霞が、闇の中に本体を捉える。

「靄を一掃して下さい! 入り口にいる!」

「簡単に、言うな!」

 室内に溢れる靄を相手にするだけでも、談話室に居た全員で手一杯だ。本体の影を叩かなければ終らないと分かってはいても、そちらに手を裂けば靄の中に取り込まれる。

「千切れ! 白の水!」

「っ!」

 どっと言う音と共に、信じられない量の水が靄を押し流す。

靄と対峙していた能力者達で咄嗟に避けられなかった数名が巻き込まれる。

「神祈、あんた伝説の……?!」

「そんな事は後! 負傷者の救出と影の捕捉!!」

 白の水、白の武器。伝説と語り継がれるその力を目の当たりにして、一同の注目が汐に向くが言うとおりそんな場合ではない。

 靄を押し流して隠れていた影が姿を現す。

「あれは……っ!」

「擬態?!」

 入り口に立ち尽す一つの影。

 ゆらりと揺れるそれは正真正銘影なのに、その形は人の姿を取っており、にやりと歪むその顔は

「第二班の……鎮めの者!」

「影に飲まれたか!」

 影が男の姿を借りているのか、それとも男が影に飲み込まれ、その体を操られているのか分からない。

「どっちだ……」

 分からないままに攻撃をすれば、男を傷付けてしまうかもしれない。けれど、今は迷っている暇もなかった。

「恨むなよ……!」

 舌打ちと共に放たれた武流の糸を、影は素早い動きで交わして特攻して来る。

「避けただと!?」

「危ない!」

 武流の糸を避けた勢いのまま間合いを詰めて来た影に、斬る者の弓が突き立つ。一瞬動きを止めたその隙を逃さず間合いを開けた武流が見たのは、笑った影がその弓を取り込んで一回り大きく膨らむ様だった。

「こいつ、能力を食いやがる!!」

 ニタリと笑って影は武流へと腕を伸ばす。

 伸ばされた腕から更に影が噴出し、形を取って蛇が鎌首を掲げた様に武流を飲み込もうとする。

「くそっ……」 

「蛟、避けて!」

「っ!?」

 炯霞の声に反応して殆ど無意識に武流がその場に伏せると、宙に居た影が炎に包まれた。

「燃え尽くせ焔の蝶!」

 炯霞が朱色の笛に口付けて、場に不似合いな美しい旋律を響かせる。

 その音が進む度に影を覆う蝶の羽は赤から橙に、橙から黄色に変わって行く。

「炎の温度が、上がってる……!?」

「こいつ、鎮めの者のくせに影に攻撃してやがる!」

 斬る者の能力でしか傷付かない筈の影が、炯霞の焔によって焼け焦げ、崩れてゆく。崩れ落ちた灰が、徐々に復活している所から還す事は出来ないようだが、それでも驚愕に値する実力だった。

「響け剣の歌」

 衝撃の走る中、冷静に動いていた壬蔓の歌が、炯霞の笛に乗って影を覆い切り刻み消して行く。

 二つの美しい旋律に、影の断末魔が乗って異常な不協和音を響かせながら事件は収束した。

『…は……せ………りぃ………!!』

 完全に影が消え去る前に聞こえた掠れる様な声は、確かに第二班の鎮めの者の声で、影が彼の真似をしていたのではなく、彼が影に飲まれてしまっていたのだと知らせた。

(さようなら……)

 笛から唇を離して、炯霞は消え去る影に向かって静かに目を伏せる。

 影は人だけでなく色々な物を飲み込んで大きくなり、人を襲う。何故発生するのか、何故意思があるのか、人を襲うのか、それらはまだ解明されていないが、分かっている事はただ一つ。

 影に飲み込まれたら、殆どの確立で戻って来れないと言う事だけだ。

「弭芹、今のは……」

「第二班の鎮めの者だったようです……」

 炯霞の答えにやはりと溜息を付いて、壬蔓は影の消えた場所を見つめながら呟いた。

「何処で影に飲まれたのか……」

「どうせまた手柄取りたくてしくじったんだろ」

 先日の失敗を持ち出して、切り捨てる武流の言葉には容赦がない。けれどそれはただ差別しているからではなく。焦っているからの様にもみえた。

「それより弭芹」

「はい?」

「お前、なんだよあの力」

「あ……」

 周囲ではすでに現場の復旧作業が始まっているが、武流にはどうでも良い事だった。

炯霞の使ったあの力。鎮めの者が影を攻撃したあの力。温度が上がる度に色を変えて行った焔を見て、武流の中に一つの疑問が蟠る。

「火って確か、青い方が温度高いんだったよな?」

「……そう、みたいです」

「だったら、お前のあの力。最後まで高めたら焔の色は最終的に……」

「皆無事か!?」

 バタバタと音を立てて談話室に入って来た増援隊の声に、武流の言葉は途切れた。

「何故支部内に影が?!」

「人の形をしていた? そんな高等種の影が第五都市なんかに、なぜ……」

「第一斑、良い所に居た。状況報告を」

 ざわついた雰囲気に流され、事後処理に追われた第一斑はその後仕事の話し以外をゆっくりする時間などなく、武流の蟠りも消える事無く残り続けた。

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