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ホームシック・エイリアン

作者: やすたね

 教壇に立つ教師から見れば歪な台形どころか、頂点が多少扁平な三角形にしか見えないのではないかと思うくらい教室の後ろのほうだけが満員御礼。教壇に近づくにつれ人が減って教師の唾が飛んでくる最前列などはもはや閑古鳥が鳴き、見事無人席が並んでいる。もっとばらけたらこの教室も広く感じられるのではないかと喬司は欠伸交じりに授業開始三十秒前にいきなり自分の横を陣取って早速出店を開きだした女子生徒を横目で睨みながら思うのだけれど、そう思う自分自身が最後列から一列前の、およそやる気の感じられない席に座っているのだから人のことをどうこう言える立場ではない。

 遅刻しても我が物顔で教室を闊歩する生徒がいないだけ幾分かマシだと昨年まで大学で講師として教鞭をとっていたという三十代半ばの教師は前期の授業で苦笑いしていたが、彼は、前の席に来いと何度言っても動く生徒などいるわけもなく、心なしか前期より疲れた顔をしてもはやなにも言わずに授業を始めた。大学生よりも高校生が素直なわけなどないのは自身の過去から分かりきったことではないかと思うのだが、きっと彼は素直な可愛い生徒達を期待していたのだろう。これが理想と現実のギャップというやつだ。

 昼食後の四時現目はもう冬も近いというのに秋晴れのいい天気も手伝って絶好の昼寝日和であり、やれ孔子がどうの、諸子百家がこうの、老子はこう言っただの、前期に比べいくらかやる気の失せた教師の声もちょっと歌詞が高尚な子守唄にしか聞えない。教室の半分はだらけていて、残りのうち二分の一は既に船を漕いでいて、後は必死に内職をし、真面目にノートを取っているのは残り僅か。喬司もなんとか目だけは開いているものの、しかしながら彼はその何処にも属してはおらず、彼の少し眠そうな目は黒板でも教師でもない違うところを向いている。それはどこかといえば窓際の、前から三列目、この授業ではもはや希少生物と化したまじめにノートを取る一人の女子生徒のほうに向けられていた。この席を陣取ったのは彼の習慣だが、それでも数多くない候補のうちから少しでも良く彼女が見える席を、と選んだのもまた事実だった。

 大学のように自分の進路に合わせて自由に授業を選べる単位型のカリキュラムが売りのこの高校では違う学年の生徒と同じ授業を履修していることもあり、この授業もそういったものの一つである。一年次二年次と避けては来たものの、社会科の単位が足りないからこのままでは卒業出来ないと担任に脅され、どうやらこれが楽そうだと前期から一二年生に混ざって履修しているものの、彼女の姿は前期にはなかったように思える。

 腰まである長い黒髪や、崩すことなく見本みたいにきっちり着こなされた制服や、化粧っけの無いくせに目鼻立ちのはっきりとした顔などこの高校において目立つべき要素は幾つも兼ね備えているのに、こんな何百人もいるわけも無い教室でその存在に気付かないのは些か奇異のように感じられる。もちろん、この短い夏休みの間にいきなり髪が腰まで伸びたとか、整形をしたとか、そういった事情もありうるのかもしれないが、いくらなんでもそんなことが起これば噂好きな女子生徒のターゲットにされ、あることないこと吹聴されて一躍有名人になっていることだろう。後期一発目の授業で気になった喬司は、早速友人達にリサーチをかけてみたのだが、あまり成果は芳しくないものではなかった。いや、誰も彼女のことを知らないのかといえばそうではなく、むしろ逆であり、喬司が知らなかっただけで彼女は学校の有名人らしいのだが、部にも所属していなければ特に親しい友人もいないらしく、まさしく梨の礫だった。正確に言えば、入学当初放送部にいたらしいのだが散々自分の理想を同輩はおろか先輩にまで強要し、うまくいかぬとどこかの時点で悟りを開き入部一ヶ月で早々にわけのわからぬ啖呵を切って辞めていった、らしい。

「なんかもう、みんなポカンって感じで」

 当時放送部に所属していた友人の談である。放送部の中では電波ちゃんと呼ばれていたという本当にどうでもいい情報も喬司にあますことなく伝達された。

「で、なんて言って辞めてったの?」

「私は迎えを待っているだけだからうんたらかんたら。放送部が一番近いと思ったからどうのこうの。こんなところにいる価値は私にはないから云々」

 宇宙人とでも交信する気だったのかしら、と彼女はちょっと皮肉っぽく言って笑って、これ以上は別にあの子について言うことはないと早々に話題を変えられてしまった。

 結局、彼女について知り得たのは名前と学年くらいであり、そもそも、学年なんて胸に下がっているリボンで分かるし、名前だって知ろうとすれば直ぐに分かるもので、とどのつまり、情報収集は失敗だったといえる。放送部の彼女の彼氏はかく語りき。

「なに、喬司。お前電波ちゃんに興味あんの?」

 語ってすらいなかった。豊川なんかこんなもんかと、自分の友人に向けて喬司は心の中で毒づいた。

 色恋沙汰では決してないのだ。それは例えればつまり、新しい玩具が発売されたときの気分に似ている。どんな内容なんだろ。そう気になっているうちが花。実際買ってもらったらきっと糞ゲーで、埃の被る間もなくさっさと中古屋なんかに持っていってしまうんだろう。そんな子供の心境と非常によく酷似していた。

 

 テスト前でもない放課後の自習室は閑散としていた。宿題に取り組むものもいれば漫画読んでいるやつもいて、喬司の後ろの席からはヘッドフォンの音漏れが特に酷く、妙にアニメ声のお世辞にもうまいとはいえない歌が漏れ聞えている。聞いている奴が茶髪にピアスのおしゃれさん気取りで、回りの女子があれ、三組の小野君じゃん。ウソー。げんめつー。かっこいいと思ってたのにー。とか好き勝手言いながらクスクス笑っており、どうやらおしゃれさんとアニソンは互いに相容れないものらしい、喬司はまた一つ女心というものを学んで大人になった。

 仕入れたばかりの知識はそもそもおしゃれさんでもなければかっこいいと言われたこともない彼には使い道もなく、そんな糞の役にも立たないものよりも喬司にとっては自分の向かいの席に座っている人物のほうが気になった。腰まであるいい匂いがしそうな長い髪は夕日に透けて少々赤みがかった茶色に輝いていて、その髪が化粧っけのない、それでいて色の白く目鼻立ちのはっきりとした、そのなにか世界のどこかで起きている紛争でも憂うような表情に翳を落としている。きっちり第一ボタンまで絞められたブラウス、自然に少し垂れている緑色のリボンは一年生の証。飾り気のない灰色の軸をしたボールペンに細い指を沿え、自習室の喧騒も気にすることなく一心不乱に白いノートを数式で黒く染めて行く。

彼女だった。

 なにか声をかけようか、そう考えた後、いや、ここで声をかけたりなんかしたら、相手は電波ちゃん、なにか変な勧誘でも受けまいか、と妙に心配になり、いや、そんなことはないだろう。むしろいきなり声をかけたりなんかしたら相手は不審に思うはずだ、と考え直し、最初にその考えが浮かんでこなかった自分をちょっと責めた。なによりここは自習室、人は少ないが、人目はある。こんなところで声をかけようものならすぐに明日には電波ちゃんに言い寄った男として例のアニソンおしゃれさんよりも奇異の目で見られることは必死であり、どちらかと言えばカーストの底辺の方に位置していることを自負する喬司は逡巡する。

「あの、」

 向こうから声をかけてきた。これは予想外だ。

「私の顔になにかついてますか」

 その声は鈴のように澄んでいるが、いや、人の声を鈴の音に比喩するなど手垢のついた陳腐な例えだとは思うのだが、とにかくよく通る声であることには間違いはなく、また、思いっきり不審者に向けるそれの響きを伴っていた。予想外の事態に喬司はただ慌てふためくことしかできず、それでもなにか彼女の気を引くようなことを、と普段使わないすっかり軽くなった頭を必死に働かせる。

「いや……別に」

「じゃあなにか」

「UFOが……」

「UFO?」

 彼女の眉が少し動いた。興味を示した印か? いや、まだ予断を許さない状況だ。

「そこらへんに浮いてたら、どうなるかな……と思って」

 回りの談笑がぴたりと止んだことで喬司は自分が下手を踏んだことを知る。彼女の整った眉がまた動いて、吊り上って……。

「ここは自習室です。へんなこと言うなら出て行ったらどうですか。邪魔です」

 電波ちゃんは、まともだった。


 木曜四時間目のいつも通りの授業開始前、指定席に彼女の姿はなく、いつもは喬司が教室に入ったときには既に重鎮しているのだが、今日は休みなのだろうか。ふとそんな考えが浮かんだ。

 あの一件以来、喬司は彼女の姿を全く目撃することもなく、そもそも探す気力すらなく、つまりはゾンビのようにただ足を引きずってなんとか学校に来ていたに過ぎない。自習室にいたであろう人々の口によって喬司の行動はその日のうちにいたるところに散らばっていってしまったようで、翌朝彼が眠い目をこすりつつ自分のクラスに入った時には、友人知人、その他多くにずいぶんとからかわれ、この上彼女になにか言われたら、もう立ち直れそうに無い、つまりはそんな単純ことだ。

「この前の話の続きなのだけど」

「……?」

 ごく自然に、まるで親友同士のそれのようにかけられた声は潜められてはいるもののよく通る鈴の音のような声であり、この声を喬司は聞いた記憶があり、それは彼にとってはもうトラウマレベルの悲惨な記憶であり、それでも恐る恐るながら喬司は指定席に向けていた顔をゆっくり横に回した。

「UFOはただ浮かんでいるだけじゃなくて、部活をしている生徒たちを攫っていったほうが、面白いと思うの」

 真顔でそうのたまうは彼女だった。

「異星人は探してるのよ。実験体に使える人間を。サーチしてるの。それで適当なのを見つけると、さっさと攫って行っちゃうの」

「……」

 彼女の言葉は意味不明で、喬司はやっぱり唖然として、返す言葉なんかやっぱり見つかるわけもなくただただ押し黙るが、そんな喬司に構うことなく、彼女は口元にうっすら浮かべるだけの笑みを見せながら、

「この前はごめんなさい。あそこは人が多くて、聞き耳を立てているようだったから、つい、ああいう態度を取ってしまって」

「いや、それはいいんだけど」

 なんで今日は指定席ではなく自分の隣に来たのか、と問いかけて、慌てて喬司は口をつぐんだ。指定席とは喬司が勝手に使っている言葉で、そんなことを言っても彼女には通じないだろうし、なにより彼女にストーカーかなにかの類だと思われたら困るし、それではなんと言おうか。考えているうちに彼女は教師がまだ登場していないのをいいことにすっと立ち上がり、当然のように教室中の視線を集めた。

「それだけ言いたかったの」

 香水でもつけているのか、甘い匂いと喬司を残して彼女は指定席へと去っていき、また当然のように教室中の視線が彼女の後を追う。

 喬司は考える。彼女の思惑は? さっきの発言は? 喬司は考える。時々彼女に視線を移す。彼女はいつもと同じ、それが彼女の責務だとでも言わんばかりに黙々とノートに教師の言葉を写し取っていた。喬司は考える。考える。考え……。


 授業終了のチャイムで目が覚めて慌ててノートの上に盛大に盛られたよだれを拭く。いつの間にか眠ってしまっていたようで、まだ少し寝ぼけた頭で教室を見渡せば、もうさっさと教室を出て行ってしまった人がほとんどのようで空席が目立ち、まだ残っている者も出て行く準備をしているようだった。彼女は、と視線をそのまま移行させれば、彼女の姿は既になく、きっと次の授業の教室に行ってしまったのだろうと喬司は安堵のような虚無感のような、そんな奇妙な感覚でほっと息を吐いた。

「おはよう」

 彼女は一日に二回、人を驚かすことを日課としているようで、喬司が気付かれないように口元を拭いながらもゆっくりと振り返れば頬杖をつく彼女の姿がそこにあって、よだれも見られたのか。しばし呆然。

「この後、授業は?」

「いや、今日はもう終わり」

 口元によだれがついていないか手で確かめつつ答えれば彼女はうっすら笑って、

「そう。なら、学食でもいかない? 私ご飯まだなの」

「別にいいけど」

 ノートやら教科書やらを適当に鞄に放り込みつつ、昼休みは一時間近くあるのになにをしていたのだと問うと、彼女は微妙に眉をしかめて、昼休みの食堂は混んでるから嫌なのと言った。ならば弁当でも持ってくればいいのにと喬司は思ったが、わざわざ藪をつついて蛇を出す必要もあるまいと考え直して疑問はそっと胸に仕舞っておくことにした。

 彼女と二人、連れ立って廊下を歩けばすれ違う人は振り返り、なにやらひそひそ笑い声、有名人の彼女が横にいるからかそれとも自分も変人カテゴリーに入れられてしまったのか、それともなにか他に理由はあるのか、喬司は分からなかった。彼女はなにも喋らず、だから喬司もなにを話したらいいのか分からず、分からないことばかりで混乱した頭のまま黙って歩いた。三階にある教室から食堂のある別棟までは徒歩五分程度、いつもなら直ぐにつくはずのそこまでの道のりは水を失ったシルクロード並に長い、気分的に。

 彼女の思惑もさっぱりであり、地獄へ続く道があるならこんな感じなのかな、と喬司は思った。遠巻きに見てるだけでよかったのに。ゲーム、入手しちゃったよ。自分で買ったわけじゃなく、例えば、ほら、これ、ほしかったんだろ? といつになく得意気な顔をした父親がビニール袋を差し出してきて、袋から取り出して、すぐ顔を上げて父親を窺えばこれ以上ないほど満足気であり、なにも言えずにそっと元通り袋にしまい込み、例えるならそんな感じで、いらない、という権利は自分にはない。彼女のほうから近づいてくるなんて予想外だと叫びたかったが、そこそこ人も行き交う中庭の真ん中でそんなことしたら明らかに変人であり、また、彼女が怖いので黙っていることにした。

 ようやくついた食堂は閑散としており、もう昼食を済ましていた喬司はとりあえず購買で紙パックに入った紅茶を買って適当な場所を陣取り彼女を待つ。彼女は直ぐに戻ってきて、喬司は自分を誘ったわけだからなにか用事でもあるのかと思っていたのだけれど、彼女は案の定押し黙ったまま自分の昼食を攻略にかかっていた。てっきり自分が彼女についていろいろ調べ回っていたことがばれたのではないかと心配していた喬司はこっそりと安堵のため息をつき、それにしても彼女がなにも言わないので少々居心地の悪さを感じている。

「友達と来たりしないの?」

 ようやく思いついた言葉だったが、彼女にはあまりよい言葉ではなかったらしく、ただ不機嫌そうな顔をされただけだった。

「誰も理解なんかしてくれないの」

 相変わらず世界のどこかの飢餓問題について憂いているような顔をした彼女がようやく口を開いた時には、彼女の前にあるプラスチックのトレイに乗ったプラスチックのカレー皿は僅かなルーをこびり付かせただけとなっていた。

「別に私もそれを求めているわけでもないし、別にいいかと思って」

 どうやらそれがさっきの答えらしいが彼女は使いもしなかったなんのために持ってきたのか分からない割り箸を指先で弄んで、こっちに視線を向けることなく。

「私はみんなとは違うから。みんなと同じじゃないの。私は本当に居るべきところからの迎えを、ただずっと待ってることしか出来ないの」

 なんかそれ、変じゃない? 言う言葉が見つからなかったのでそれだけ言うと、彼女は、相変わらず視線を喬司に向けることもなく割り箸を弄んだまま、仕方ないことだし、となんでもないことのように言った。変じゃない? は、みんなと同じじゃないの、に対しての言葉だったが、どうやら彼女はただすっと待ってることしか出来ない、のほうに掛けたらしい。

「なんで俺にそんなこと話したの?」

「この前のUFOのお礼」

 面白かったから。彼女はそう言って笑って、じゃあ私帰るとさっさと立ち去ってしまって最後までよくわからない喬司はやっぱり取り残された。


 月日は全力疾走で駆け抜けていく旅人であり、喬司はさながらその旅人に乗られその尻に力いっぱい鞭を叩きこまれる馬であり、それはおそらく喬司ただ一人に当てはまることではなくこの世に生きる全ての人がそんなもんなんだろう、電波ちゃんを除いては。

「お前、この時期でこの成績とかなめてんの?」

 腕を組み背もたれに全体重を掛けてもたれ掛りぞんざいに足を投げ出し、白いワイシャツの上に紺色のミズノジャージという独特なファッションセンスを持つ男は白い長机の上に放り出された紙きれを顎で指す。街を歩いてもまず見ないであろうこのスタイルは学校内というごく限られた世界の中ではいつの時代もトレンドであり、この春の最新作に身を包んだ目の前の彼もまた不易でありながら流行でもあるものを追う一人である。教師とは思えない態度と口調の彼は立派な「先生」であり、喬司たち三学年の進路担当であり、ジャージを着ているくせに科目は数学だ。

神妙な顔をして眼の前の紙切れに視線を落とせば、そこに並ぶはDとE、唯一A判定の第一志望に至ってはコードのマークミスでもあったらしく見た事も聞いたこともない謎の大学名が表記されており、もはや笑いが込み上げてきて慌てて咳払いを一つしてごまかした。

「第一志望変えたのかお前は」

「いえ。きちんと確認したつもりだったんですが……」

「間違ってんじゃねーか。こういうところが模試の結果に出てんだよ」

 ヤクザも斯くやという喋り口調、飛んでくる唾を避けながら喬司は消え入りそうな声ですみません、もちろん本心では申し訳ない気持ちなど露ほどもないが、こうすることがこの時間を短縮する一番の方法だと十八年の人生で学んでいる。がなり声に俯いたままただひたすらすみません、次がんばります、いや、真面目に考えてます。その甲斐あってか案の定相手は喬司に興味をなくしたかのように一枚の紙を差し出し、受験校調査票、考えて書いてこい。そう言って喬司を進路相談室から追い出した。

 中庭に出ると木枯らしが吹き、喬司は身を縮こませて白い息を吐いた。雲に負けた太陽はよわよわしい光を僅かに届けるのみとなり、すっかり葉は落ちはげ頭になった木々が淋しく身を寄せ合い、この寒さも手伝って猫の子一匹歩いていない。体温が奪われていく指先を守るためにポケットに手を突っ込みたいところだが右手にはさっきの調査票がありそれも出来ない。いっそのこと紙飛行機にでもしてやろうかしらんとも思うのだが、進路室から中庭は丸見えであり、つまり喬司の行動も誰にも見られていないとは限らず、仕方なく右手は出したままただ歩いた。

 食堂に続く道の途中にあるベンチ、見慣れた顔が時間に置き去りにされたように空を仰ぐ。相変わらず世界のどこかで起きている空爆を憂いているようないつになく思いつめたその横顔に、喬司は一瞬足を止めた。

 あの一件以来、喬司は彼女と学校で出会えば挨拶をするくらいの関係にはなった。時々喋り、時々あの時と同じように学食に行く、それくらいの関係。その度に彼女は喬司には理解できないことをいろいろ語ってくれて、やっぱり喬司はなにも言えずに黙っているだけだった。噂によれば、喬司と彼女が初めて言葉を交わしたあの自習室での一件以来、彼女に好意を寄せた三組の小野君が積もり積もって淵となりぬる想いを彼女に告げて見事自爆したという話だが、もちろん当の彼女に聞けるような勇気は喬司にはなかった。

「あまり喋らないのね」

 ふいに、彼女の声が食堂の雑音を引き裂いて喬司に真っ直ぐに届いた。その細い指は紙パックに刺さったストローをもてあそび、暖められた空気にぬくぬくとし満腹感に睡魔まで忍びよってきていた喬司はそれではっと目を覚ます。彼女としても喬司のネクタイの色で彼が先輩だということはわかっているはずなのだが、敬語を使う気は潔いくらいに全くないようだ。

「ごめん。退屈だった?」

「全然。寧ろ、黙って聞いててくれて、なにか落ち着く」

 喬司が黙って聞いているのは、彼女の話が余りにも突拍子のないものでなんと返せばいいか分からなかったからで、これは本当に電波ちゃんだったのかもしれない、なんてこっそり頭の隅っこで考えてしまっていた喬司は、彼女の言葉に少し胸が痛んだ。がなり声を立てる奇抜なファッションの男の前では神妙にしてただひたすら詫びの言葉を繰り返せばいいということは知っている喬司でも、一人ぼっちの電波ちゃんの前ではどんな顔をしてどんなことを言えばいいのかを学ぶ機会は今までの十八年間で皆無であり、三組の小野君に弟子入りした方がいいのかもしれなかった。

「迎えは来そう?」

 誤魔化そうとしてそう問えば、彼女は少し悲しい顔になって、

「まだみたい。連絡もないの」

と呟いた。きっと彼女の進路希望調査票には、宇宙のどこかにある知らない星の良く分からない職業なんかが書いてあるに違いない。

 彼女にやっぱり置いていかれてから、人ごみにあふれた昼休みの食堂で喬司はぼんやり考える。彼女はなぜ自分に声を掛けてきたのか、元はといえば、喬司がUFOなんて口走ったことから始まるのだけれど、それでも、彼女が自分と再び接点を持とうとする必要なんかないわけで。彼女はほんとに電波ちゃん? それともちょっと目立ちたいだけのかまってちゃん?

 結局のところ、彼女は淋しいだけなんじゃないんだろうか。缶コーヒーのそこにちょっぴり残った液体を一気に流し込みながら、喬司はふと思った。UFOだなんて口走った喬司を仲間だと思っただけなのか、それとも話しかけてきたからくっついてきたのか、それなら三組の小野君でもなんら問題はないわけで。どちらかは分からないが、三組の小野君ではダメな理由も分からないが、ただ、自分は懐かれたらしいということだけはよく分かった。

「喬司じゃん」

 豊川だった。横にはちゃんと放送部の彼女が並んでいて、同じクラスだし被ってる授業も少なくないし放課後は一緒に勉強したり遊びにいったりすることもあるし、電波ちゃんなんかよりもずっと毎日顔を合わせているはずなのに、ずいぶんと久しぶりに会ったような気がする。

「あー……」

 久しぶり。言いそうになって、慌てて相応しい言葉を捜して、見つからなかったので誤魔化したが豊川はそんな喬司に構うことなく、

「なにしてんのこんなところで」

「昼飯食ってて」

「電波ちゃんと?」

 一瞬ギクっとして慌てて平静を装う。

「最近ユーメー。喬司が電波ちゃんに言い寄ってるって」

「別にそんなわけでもないんだけど」

「隠さなくていいって」

 豊川はにやりと笑って、わざと彼女に聞えないように声を潜めて、顔を近づけてきた。そう言えば三組の小野君の情報を喬司にもたらしたのもやっぱりこの豊川で、その出所はきっと隣にいる彼女なのだろう。

「で、やっぱ電波ちゃんなの? あの娘」

「いや、わりかしフツー」

 喬司は嘯いた。これ以上詮索されるのはもう面倒になっていて、そのオーラが伝わったのか、二人はまだなにか言いながら、それでも笑いながら別の席に行った。やっぱり残された喬司は学食を出ようと席を立つ。

「喬司」

 声を掛けられた。またあいつかと思って振り向けば、

「電波ちゃん、最近ヤバイらしいぞ」

 意外と真面目な豊川の声、なにがヤバイのか分からないが、とりあえずめんどくさかったので、了解、とでも言って食堂を出た。もう直ぐ四時間目が始まる。


 その日は朝から天気が悪かった。火曜日の二時間目。図書館。生徒の姿は殆どなくて、多分みんな自習室にいるのだろうと喬司は思った。一、二年生で空き時間がある奴なんてそうはいないだろうし、受験もそろそろ本腰を入れなければならない時期だし、自習室があるのに図書館で勉強するやつはこの学校にはそうはいないらしい。

 隣では豊川がひどく手持無沙汰にシャープペンを器用に指先でクルクル、ご自慢の彼女は今頃仲のいい友人と授業を受けているはずで、心底暇だと言わんばかりの表情でどうやら彼女がいないと勉強にも身が入らないらしく過去問は一頁も進んでいない。

 雨が降っている。雪に変わるかもしれないと朝の天気予報では言っていたな、と、そんなことをぼんやりと思い出しながら喬司は頬杖をついて窓の外を眺めていた。読みかけの本は余り面白くなかったので半分くらいで止まっていた。

「なあ、喬司」

「なに?」

「電波ちゃんのクラス、なんか荒れてるらしいぞ」

 電波ちゃん、の名に反応して思わず窓の外に向けていた視線を戻せば、そこには悪戯小僧のようににやりと笑った豊川の顔、ようやく食いついてきたかとその表情はわくわくしており、およそ三十分、暇だ暇だと繰り返す豊川をひたすら無視し続けてきた喬司の作戦は豊川の勝利という結果で終わりを告げた。

「なんか、電波ちゃんのクラスのボス女、二年の小野に随分熱を上げてたみたいじゃん」

 二年の小野が三組の小野君と結び付くまで少しラグがあり、ああ、三組の小野君は二年生だったのか、とそんなどうでもいい情報を彼は得た。もっとも、豊川が真に伝えたかったのはそこではないだろが。

「バスケ部のマネージャーだからそれ経由で知ったんだろうな。電波ちゃんが二年の小野のこと手ひどく振ったらしい、って」

 三組の小野君はどうやらバスケ部に所属しているらしい、こうしてまた一つ喬司は顔ももう思い出せないような後輩について詳しくなった。興味ないし。そう言わんばかりに顔を背け、視線をまた窓の外に移動させる。雨はやむ気配もなく、寒々しい空気がガラス越しに伝わってくるようだった。

「なあ、喬司。こんな言葉を知ってるか? 電波の真似とて電波に近づけば、すなわち電波なり」

とは、豊川のご高説、喬司は彼の顔を見ようともせずまだ外を眺めながら、

「元ネタは?」

「……鴨長明?」

「兼好法師だろ、バカ」

 豊川は尚も口の中でごもごもなにか言っているが、すべて聞こえないふりをして、窓から見えるのはグランドと、去年落雷が直撃した真っ黒になって今にも崩れてしまいそうなポプラだった木、その下に傘もささずに小さな人影。雨も降ってるのになにやってんだか。物好きなやつもいるもんだ、そう思って目を凝らす。――彼女だった。

「あいつ……」 

 なにやってんだ。考えるより先に体が動いて、気がつけば図書館を飛び出していた。一階まで階段を、一段飛ばしで駆け下りる。下足箱に上履き、つっこんで、スニーカーの踵を踏み潰したまま外に出た。寒かった。雨が冷たくて、今にもみぞれになりそうで、それを全身に受けながらとりあえずグラウンドへと急ぐ。泥水を吸って重たくなったスニーカー、水たまりも気にせず飛び込めば、盛大に飛び散る泥しぶき。

「三浦!」

 呼びながら、そうだ、彼女は三浦という名だったと初めて認識し、そしてよく考えれば初めて彼女の名前を呼んだ気がした。彼女はゆっくり振り返って、息を切らした喬司の姿を認めて薄く笑ったようだった。

 川にでも飛びこんだみたいにずぶ濡れで、長い髪の毛先からは雫になった水がぽたぽた、それが制服に染み込んでいって、胸元だけ見える白いブラウスはすっかり透けて肌に張り付いている。体は寒さのためか小刻みに震えていて、いつも綺麗なピンク色したつやつやの唇はすっかり青くなってしまっていて、どのくらい、彼女はここにいたんだろう。

「お前、なにやってんだよ」

「待ってるの。迎え。ここにいれば、きてくれるの。帰りたいの」

 彼女は笑う。その笑顔はどこか弱弱しく。どこか熱に浮かされたような口調で、でも決して嬉しそうなそれではなかった。

「いい加減にしろよ」

 思ったよりも冷たい声が出た。彼女の顔が強張る。でもそれを気にする余裕もなくて。

「迎えなんか来ねえよ。何が私はみんなと違う、だ? お前だってただの女子高生だ。違うことなんかねえよ。ガキじゃねーんだから、もういい加減現実見ろよ。アホか。UFOなんか来るわけねえだろ。高校生にもなってそんなんもわかんねーのかよ。バカ。風邪ひくだろうか」

 言葉が一気に爆発した。今まで溜めていたものが噴出したようだった。一息で言い終えてから呼吸をすると、鼻の穴が酷く冷たかった。彼女の強張った顔を直視できずに、言うだけ言って喬司は目をそらした。沈黙が続く。

「分かってるよ……」

 それを破ったのは彼女だった。彼女は何かを憂うような表情はしておらず、蚊の鳴くような声。震えていた。彼女の頬を濡らすのは冷たい雨ばかりではなかった。

「分かってるよ……。分かってる……」

 あとは、盛大に声を上げて泣き出すまでそう時間はかからず、喬司はなにをしていいのかやっぱり分からなくて、雨の中、しゃがみこんでしゃっくりを上げながら泣きじゃくる彼女を黙って見ていることしかできなかった。

「教室、戻ろう。風邪ひくって」

 暫くたってからようやく手を差し出したもののその手は彼女に取られることなく、彼女は自分の力で立ち上がって、泣きながら、一人で消えて、やっぱり一人喬司はその場に取り残された。

その日以来、彼女と会っても挨拶することもないし、彼女が話しかけてくるということもなくなって、三組の小野君の横にいる姿なんかも時々見掛けるようになって、完全にクラスで孤立したらしい、前から馴染んでなかったけど、とは豊川の談だ。

 喬司が見掛ける彼女はいつも、どこかを眺めていた。きっと今の彼女の進路希望調査には、どこかの星でもどこかの世界でもなく喬司でも知っているようなそこらの大学の名が書いてあるようにも見えた。


 雪が降っていた。

 予備校帰り、ぐるぐるに巻いたマフラーが息苦しく、厚手のコートは重く、浮き世の風は身に沁みる。駅に向かう足取りはどこか宙を歩くかのようで、センター試験は近い。時間は午後十時を回っている。吐く息は白く、それはあの日を思い起こさせた。

「石川さん」

 雑踏に混じって、それでも真っ直ぐに耳に届く、よく通る鈴の音のような声がした。でも、それは彼女の声だった。彼女がこんな時間にこんなところにいるわけもなくて、いや、喬司は彼女がどこに住んでいるのかもどんな生活を送っているのかも知らないのだから、声の主が彼女でないと言い切ることは出来ないわけなのだが、彼女とこの時間のこの街の雰囲気はとてもミスマッチで、その上彼女が自分の名前なんか覚えていたのかも怪しくて、それでも喬司は振り返る。

 その一部分だけが時間から取り残されているようだった。喬司の通っている高校の紺ブレザー、首元に自然に垂れた緑色のリボン、ひざ丈のスカートはプリーツの折り目正しく、紺色ハイソックスに覆われていない色の白い足が寒々しい。見慣れた制服姿の彼女は見慣れない穏やかな笑みをその顔に浮かべていて、その顔はなんだか幼く見えた。

「三浦……お前……」

 一瞬の絶句の後、そんな格好で寒くないのかよ。それだけ言うのがやっとで、そのセリフはどこかこの空気に似つかわしくないことは喬司でも分かっていたのだが、それ以上なにも言えなかった。彼女の目はきらきらと輝いており、そんな目をした彼女を見るのは喬司はもちろん初めてであり、果して目の前の彼女は本当に喬司の知るあの彼女であるのかさえ疑わしい。喬司の知る彼女はいつもなにかを憂うような顔をしており、その血の気のない頬に愛嬌のあるえくぼを寄せている彼女など喬司は見たこともなかったし、彼女がそんな表情をすることを想像したこともなかったのだから。

「迎えが来たの。だから、お別れに来たの」

 ちゃんと来たの。彼女はぞっとするほど嫣然として混乱の中にいる喬司を置き去りにした。

「石川さんも連れて行ってあげたいけど、無理ね。だって、石川さん、私と違うもの」

「なに言ってんだよ、三浦」

「でも、私の話を聞いてくれたのは石川さんだけだったから」

 だから、ちゃんとお別れを言わなきゃ、って思ったの。子供のように無邪気な声は、喬司の中を北風と共に吹き抜ける。

「私は私の家に帰るわ。じゃあね。石川さん」

 彼女は手を振り、茫然とする喬司に笑みだけを残し、そのまま背を向けた。

「待て。三浦っ!」

 喬司が呼びとめる間もなく忽然と彼女の姿は消え、後には雪の積もった喬司が残された。今のは夢? 幻? それとも現実? 喬司はやっぱり分からなかった。

 電車時間が近いことを思い出して、喬司は駅に走った。駆け込み乗車でなんとか間に合って、まだ空いている電車の、ボックス席の窓側の席に座って窓の外で音もなく降る雪を眺める。眺めながら考える。考えても、やっぱり分からなかった。結局なにも分からないままだった。


 木曜四時間目のいつも通りの授業開始前、指定席に彼女の姿はなく、いつもの席にどっかり腰を降ろした喬司はぽっかり空いた空間を見つめる。授業開始を告げるチャイム、退屈な、眠りへといざなう魔法の呪文、終了を告げるチャイム、そのどれもが上の空、結局埋まることのなかった指定席。その日以来、指定席に座る彼女の姿をついに喬司は見ることはなかった。

 どうやら彼女が失踪したらしい、との情報を喬司にもたらしたのはやっぱり豊川で、三組の小野君は一躍悲劇の主人公になり、まさしくとの如し、もちろん中心にいるのは悲しい顔をした三組の小野君だ。噂好きな生徒達の格好の的にされた電波ちゃんは黒いスーツの強面たちにつれていかれたとか、親の借金で風呂に沈んだとか、車に無理矢理押し込まれているところを見たとか、昨日コンビニで社会人らしい男と総菜を選んでいたとか、ゲーセンに一人いたとか、いたるところで目撃されていたようだがそのどれもが無駄にリアルであり、しかし同じくらい信憑性はない。好き勝手な噂ばかり話す生徒達の輪に喬司は加わることもなく、でも、自分は失踪の日に彼女に会った、なんて言うわけもなく、やっぱり黙って窓の外を眺めているばかりだった。

 人の噂も七十五日、実際に七十五日はまだ過ぎてはいないのだけれど、センター試験が終わってこの世の不条理と自分の頭の出来を喬司が噛みしめているころには時の人であった三組の小野君も過去の人となり、もっぱら最近の話題は最寄りのコンビニに入った強盗のことに移っていた。少し遅れて全国デビューを果たした電波ちゃんは学生証の写真なのか、相変わらずいつか起こるかもしれない星間戦争を憂うような表情をしており、でももう自由登校に入った喬司は、三組の小野君が事情聴取を受けたらしいという情報を最後に豊川とその話をする機会も失った。

 喬司は空を見上げる。雪は降っておらず、そこらへんの薄汚れた壁を蹴れば弾みで落ちてきそうなくらい低い曇天、妙な圧迫感に辟易し、参考書やら過去問集やらですっかり重くなった鞄を担ぎ直す。気分が晴れないのは決して大惨事に終わったセンターの結果のせいだけではない。

 彼女に何があったとか、彼女がなんだったとか、本当に宇宙人だったのかとか、それともただ頭が残念だっただけなのかとか、いろいろなことを知りたい気持ちもあるけれど結局分かることはなにもなく。喬司も時間に追われ、そのうち彼女の記憶もきっとどこかに収納されてしまって、いつかは思い出すこともなくなるのだろう。それでも、今、ただ一つ思うことは。

 ひとりぼっちのエイリアンは家に帰れたんだろうか。

 ただ、それだけだった。


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