Dark Sanctuary
深夜0時を回ろうとしている。埼玉のとある駅のホームにはほとんど人がいない。
土曜日のこの時間帯だとかなり混んでいることがあるのだが平日だとその逆で人子一人いない状態が多くある。私は大学のサークル内での飲み会で遅くなりこの終電電車で帰宅しようとしていた。あまり深夜まで起きているほうではないので何度か転寝してしまいそうになる。
ホームなら少しばかり寝ても大丈夫だろう。これが電車の中なら一大事だが。歩いて帰ることになってしまう。
「ちょっと寝ようかしら」
いや、だめよ。今のこの格好。
ちょっと羽目を外してかなりラフな服装をしている。
同回生より一回り大きな胸、スラリと長い脚、サラサラな髪、自分で言うのもなんだがかなり美人の部類に入ると自覚している。
現に今日の飲み会でも先輩連中はこぞって私のほうに話しかけてきた。話しかけられるのは悪くないが先輩の一部にいるデブで臭くてオタクっぽいやつに絡まれるのだけは勘弁だった。こんなところで寝てしまったあの先輩のような男に襲われてしまうとも限らない。
そんなのだけは絶対に勘弁。
「電車が来るまであと十五分ちょっと」
手にした文庫本に目を落とす。映画化もされたらしい小説だったが、読み始めてみると意外に退屈だった。途中までは非常に面白いのだが、オチがとってつけたような感じになっていて非常に拍子抜けになった。
作者はラストが思い浮かばなかったのか、それとも途中で飽きたのか。どっちかと考えられる。
ホームに風が吹き込み心地よい涼しさが彼女を癒す。知らないうちに、文庫本を膝の上に置いたまま、瞳を閉じようとしていた。
いけない。いけない。一定の恐怖感が、転寝の心地よさから現実に戻す。
それにしてもこの転寝というやつはどうしてここまで気持ちの良いものなのだろうか。布団に入って目を閉じれば同じように眠りの世界に自分を誘うことができる。だがこれはその何十倍もある、麻薬のような心地よさがあるのだ。
あわててホームに設置された円形型時計を確認するが、まだ多少余裕がある。ホッとしたが、頭は反睡眠状態のままだ。
「ん?」
ベンチに座っている彼女はふと何かの気配を感じた。
数メートル斜め先にいる一人の男性。スーツを着てないことからサラリーマンということは分かる。黒と白のチェックの服装に、短パンズボン、頭は一部禿げあがっていて、身長も低いうえかなり太っている。
今やほとんど絶滅危惧主なガラケーでどこかに電話しているようだが、ぶつぶつ小さい声で言っているのか上手く聞き取れない。額には汗がびっしょりで汚らしいこの上ない。
ヤダ……何あれ。
サークルのオタクがかっこよく見えるほど不細工なこの男。
こんな男が数メートル先にいるなんて眠気も一気に覚めてしまう。
外は辺り一面真っ暗な闇。周りに駅員が立っている様子もない。このホームにいるのは彼女とこの男だけなのかもしれない。いやそうだろう。電話を終えた男は携帯をポケットにしまいなんとあろうことか彼女が座っているベンチの真横にいっしょに座ってきたのだ。
ツーンと酸っぱい加齢臭のような独特な臭いが鼻を襲う。覆いかぶさってくるような圧迫感。一秒たりとも耐えられないこの空間。
もう一度周りを見渡すがやはり人がいる気配はない。奥のほうはよく見えないがおそらくいないだろうと予想する。誰もいないホームのベンチ座る一人の若い美人大学生。隣にいるのは禿でデブで汗びっしょりで臭いオタク風の男。
最悪だ。
史上最悪だ。
アンビリバボーだ。
男は相変わらず額に汗びっしょりで、手もなぜか震えている。呼吸も荒い。明らかに変質者だ。
まさかこのまま私はこの男の襲われてしまうのかもしれないと一瞬頭によぎる。こんな男にやられるぐらいだったらあの時先輩の一人と一緒に帰っておけばよかった。今さらになって痛烈に後悔する。
もしも護身術の一つでも習っていたら今すぐにこの男をテヤーッといった感じでボコボコにしてやるのに。警察には襲われそうになったと説明すれば絶対にわかってくれる。所詮この世の男は美人に弱く、不細工に厳しい。当然の摂理だ。
でも生憎護身術を習っているわけでもなければ、腕っぷしも強いわけではない。なぜこんな妄想をしたのか。現実逃避が悲しくなってくる。電車が遅い。転寝のときはすぐに時間が過ぎて行ったのに今はあり得ないほど体感時間が長く感じる。彼女の中ではもう2時間以上もこの男一緒にいるような感覚だ。
ふと無意識に男のほうを見てしまった。
「嘘……」
絶句した。男と目があったのだ。
男は彼女のほうをじっとじっと見つめていたのだ。ギンギンと大きく開き、多少充血している目。目の下にはくまもあり不摂生な生活をしていることが見て取れる。
なに?なんなの?この男は?誰か……助けて……
「間もなく。一番線に急行列車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください」
ようやくアナウンスが来た。このアナウンスをどれだけ待っていたことか。彼女は急いでベンチから立ち上がり、白線の内側に立って電車が来るのを今か今かと待つ。
早く来い。早く来いと。後ろに感じるあの男の存在。闇の向こうから光を放ってやってくる電車。この電車が唯一の脱出口なのだ。もうほとんど涙が出そうな状態であるが必死に我慢する。
ホームに入った電車はゆっくりすぎるほどの速さで止まる。プシューッと空気の抜ける音がしたと同時に扉が開く。
これで助かった。
「行くな!」
「キャッ!」
襟首を力強く掴まれ引き戻される。男の仕業だ。まさかここにきてこんな強引な手段に出るなんて。
そんなに女がほしければ新宿でも五反田でもどこにでも好きなところ行けばいいじゃない。必死に抵抗して電車の中に入ろうとする。
急がないと時間がない。扉が閉まる前に。男は今度は腕をつかんで離そうとしない。
「間もなく扉が閉まります。駆け込み乗車はご遠慮ください」
いやあああああああああああ。お願い神様。意を決して彼女は男の足をふみ、そのはずみで男は手を放した。電車内に飛ぶように入る。
すべてがスローモーションに見えた。私を電車内に入れて。
「やめろぉ!」
彼女は電車内に男は電車の外に。そして扉は締まり、電車は発車する。
男は何かを怒鳴りながら必死に追いかける。いや、怒鳴っているというより叫んでいるようにも見える。だが何を言っているのかわからないし、そんなのことはどうでもいい。
助かった。震える身体。蘇る数分前の忌まわしい記憶。何でこんな目に。
もう二度と深夜になるまで飲み会には参加しない。帰りはタクシーを使って帰ろう。彼女は誓った。
電車内にはあのホームと同じように誰もいない。安堵感から座席に座り、床を見ながら一息つく。目を閉じて、さっきのことは忘れようと。
「ん?」
何かの気配を感じた。まさかあの男が?
目を開けそっと上を見る。だがそこにいたのはあの男じゃなかった。
痩せ型で髪が長く、スーツを着た長身男。ただならぬ異様な雰囲気を醸し出している。
男は不気味に笑う。
私は戦慄した。
この男が手に持っているもの、まさか……。
私はすべてを理解した。だがもう手遅れだった。
私の悲鳴は電車の轟音に消され外の人間に聞こえることはなかった。
(END)