ウル
心地よい五月の風が京都の町を吹き抜け。
人の良いパン屋のおじさんの様な太陽がアスファルトを暖める。
突き抜けるような五月晴れの下に彼女はいた。
ウルはレジで支払いを済ませ、サッカー台に6割ほど商品を詰めた篭をのせた。
「ふう・・・」
平日の午後4時、生協でやや遅い買い物を済ませるとウルはため息をついた。店内の雰囲気を味わうかのように眼を閉じ耳を済ませる。
『今日のお勧めはマグロでっせー。うちのダンナも大喜びですわ』
『あんた結婚してへんやーん』
店内の隅っこに置かれたラジカセから店員が出演しているらしい棒読みの台詞がエンドレスで流れ続ける。BGMと割り切るにはあまりにも寒いその内容であるが、ウルの全身は弛緩し、心は溶けそうだった。
『これだ』
恍惚とした表情で持参したエコバッグに買ったものを詰め続ける。
イラク北部のクルディスタンで緊張した日々を過ごしたウルにとって平穏な日々は乾き切った心を潤す砂漠の慈雨も同然だった。
普段は強い光を湛えた黒瑪瑙の様な瞳が、今はうっとりと細められ、艶やかな唇は軽く開いていた。だが、緩慢な動作とあいまって官能的というよりは、按摩でツボを上手に刺激されているかのように見える。
『これこそ、私が欲しかった平和だ。ハサンたちにも味わわせてやりたい・・・』
少し胸が痛んだ。
『しかし』
重くなったエコバッグを肩にかけると、さっきとは違う種類のため息をつき、顔を上げた。その視線の先にはこちらを見ながらひそひそ連れの女性に耳打ちする老婆の姿があった。今のウルは美脚のラインがあらわになったジーンズに開襟シャツ、美夜子から借りた
サンバイザーといういでたち。飾り気は無いが、ウルの美少女から美女へと移行しつつある羽化寸前の美しさを引き立てていた。
『なぜだ?肌の色が黒いというだけでなぜあんな眼で見られなければならん?』
ウルは自分の美しさが衆目を惹き付ける原因だとは気付いてなかった。イラクで無数の男に求婚されたが、外国人の女と見れば寄ってくる彼らは全くカウントに加えなかったし、
過去に男女問わず美人だとか言われたが、挨拶のようなものだと思っていた。
寧ろ、彼女は自分を美人とは思いたくないというフシがあった。
もし美人であるなら何故先輩と結ばれなかった?まさか、性格に問題があるとでも?
そのようなわけで、ウルは目つきを少し険しくしてゆっくりと二人に歩み寄った。
「なにか御用ですか?」
低い声で静かに訊ねる。相手はお年寄りだ。相応の敬意は払わねばならないと考えつつも、声音に苛立ちが滲み出るのを抑えきれない。
ウルに声を掛けられ驚いたのか、老婆は慌てて連れの女性の背中に隠れた。
『あまりジロジロ見られるのはよい気分ではないのですが』
そう続けようとした。
老婆の娘らしき40代の女性が困ったように言った。
「もう、おばあちゃん隠れんでも・・・ごめんなさいね、お嬢さん、いえね、うちのおばあちゃんがね」
娘の背中でごそごそ手提げをまさぐる老婆に眼を向け、ウルは一瞬緊張を覚えた。
武器?こんな年寄りが刺客?何故日本で?
高速で思考が疾走し、機先を制しようと無意識に一歩踏み出した。
「どこの国の女優さんかしらんけどサイン貰えんか頼んでみてくれっていうんですよ」
女性の困ったような言葉で頭が真っ白になったウルに老婆がマジックとメモ帳を突き出した。全身が凍ったウルの網膜に老婆の何度もぺこぺこ頭を下げる姿が遠い国の出来事のように映し出される。
・・・・・・。
「とんでもない。私は只のニートです。ここから歩いて10分ほどの美夜子の家で居候をしています。恋人も友達もいません」
淡々と答えるウルはパニックを起こしていた。おかげで聞かれてもいないし、言っても詮無いことまでつい口走る。
どう答えていいか分からないのだろう、曖昧に笑う女性に向かいウルは続けた。
「いや、失礼しました。日本は久しぶりなもので少し過敏になっていたようです。申し訳ありません」
ウルはダッシュで逃げたいのを堪え、じりじりと後ずさった。
「まあ・・・海外の方やのに日本語がお上手やねえ」
女性は話の接ぎ穂を見つけたのにほっとした様子で言ったが、ウルの頭には既に退却のタイミングを計る事しか無かった。
「光栄ですが、肝心のクルド語はしゃべれないのです。それでは、失礼します。よい一日を」
最後の一言を老婆に向けると踵を返し、颯爽と立ち去る。
後姿も絵になるねえ・・・おばあちゃん、美夜子って樫田さんとこのみよちゃんかな?
会話を背中で聞きつつ、自動ドアを出る。我慢して歩き続け彼女たちの視界から外れる所まで到達するや猛然とダッシュした。
「何故私はこうなんだ!」
半泣きで舌をヒラヒラさせ、苦いものを消し去ろうとする。
豊かな胸が大きく上下する。盛り上がってきた涙でにじみつつある視界を見慣れ始めた
景色が背後に流れていく。
『しかも、余計なことを言ったばかりに美夜子にまで迷惑が掛かる。ああ、もう死んでしまえ!』半泣きで走る褐色の美人を通行人は一様に驚いて眺めていたが、ウルはそれにも気付かなかった。
走ったり歩いたりを繰り返し、樫田家に着くと、手許を狂わせながら慌てて鍵を開け、靴を脱ぎ捨てどたどたとリビングの扉を開けた。
「ひよこおう!」
煎餅を咥え曲げられた座布団を絶妙のポジションにあてがい横になっている美夜子に悲痛な声を掛ける。
「ん・・・お帰りウル」
テレビから視線を上げたものの寝釈迦の様な姿勢は崩さない。
「聞いてくれ!私は・・・」
部屋着姿の美夜子のそばに荷物を放り出して膝まずき、約二分間身振り手振りを加えて
経緯を熱心に伝えた。
一通り黙って聞いていた美夜子は、
「それ、柴崎さんちの親子さんやわ。おばあちゃんもう80過ぎてんのに元気やな・・・
また会った時挨拶しとくわ」
「大丈夫なのか。美夜子の評判が悪くなったりしないか」
「なるかいな」
「よかった・・・」
テレビに視線を戻した美夜子にウルはしがみついた。
「生協さんは・・・お気に入りの店なんだ。行く場所を失わずに済んだ・・・」
ウルは自分も寝転がり、美夜子の身長の割りに豊かな胸に顔をうずめた。
「はいはい。暑っ苦しいな、もう」
そういいながらも美夜子はおざなりにウルの髪を撫でてやる。テレビから眼は離さないが。一人っ子のウルは溶けそうな幸福感を胸いっぱいに吸い込んだ。