Ⅴ
優しい風が頬を撫でる。さらさらさらり。
木々がその風を受け、枝を揺らし心地の良い音楽を奏でる。ざわざわざわり。
気付けば、私は一人森の中にいた。人間が何人いても一回り出来ないような太い幹の、天を仰ぐように高い歴史を感じる古い巨木。私の背丈より低い、まだまだ途方の無い年数のかかるだろう瑞々しい若木。大小、高低様々の樹木たち。
ああ、ここはとてもほっとする。まるで大きなものに優しく慈しまれながら、包まれているような安心感がある。
ー…
一瞬、何か聞こえたような気がした。振り向いても、辺りを見渡しても誰もいない。
ー…姫…私たちの愛しの姫…
やっぱり聞こえる。苦しそうで悲しそうで、でも慈愛に満ちた優しい声。
あなたはだれ?
ー風化の街へ…私に…私たちに救いの手を…
突然ごうと風が大きく鳴り、木々は激しくざわめき、とっさに目を閉じ耳を塞いだ。
そして、何も聞こえなくなった。
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それを聞いたティルは、朝食の片付けをしながら盛大に眉をひそめた。
「風化の街へ?何故だ」
皿を拭く手伝いをする蓮は、夢のことを正直話すか躊躇った。思わず目を伏せ、どうも元気の無い蓮の様子をティルは難しい表情でしばし見つめ、思い出したように皿を再び洗い始めた。
「今、風化の街へ行くのは危険だ。妖魔が出没している」
「ようま?何ですかそれ?」
「人の血肉を好物とする化け物だ」
蓮は目を見開き手を止めた。
「まだ噂だけで見たことは無いが、微かにあの場所で穢れを感じた。妖魔がいる可能性は高い」
ー…救いの手を…
あの耳に残る、苦しく悲しい、それでも優しい、胸がつかえるようなあの声。危険と分かったとしても、ほっとくなんて出来ない。
「…昨日、夢を見たんです。誰かが私に助けを求める夢を」
「夢…だと?」
「声だけで姿は分からなくて、それに何で私を姫とか呼ぶのか分からなくて…分からないことだらけなんですけど…でも行ってみたいんです。風化の街に」
皿を置き、正面から真っ直ぐ見上げるその真摯な目に、ティルはハッと息を飲み、そして、溜まった息を吐き出した。
「…俺もアレンや師匠の帰りが遅いのが気がかりだった。だが、蓮一人で留守番させるのは出来ない」
「え…それじゃあ…」
「分かった。一緒に行こう」
パァッと顔を輝かせ、ありがとうございますと深々と頭を下げた。ティルもしょうがないなとは言いつつも、嫌な表情はしていなかった。
「だがいいのか?あの魔術書、あと少しで解読出来そうだが…」
チラリと蓮は、テーブルの上に置かれた古ぼけた黒革の本に視線を移した。ティル曰く、これがこの異世界へと来ることになってしまった元凶らしい。確かに古本屋で買ったあの本と瓜二つだ。解読出来れば、帰ることが出来るようなのだ。
「きっと今帰ったら後悔します。それに、帰るんだったらちゃんとアレンとマエスタさんに挨拶してからじゃないと」
ティルは目を瞬かせ、そして可笑しそうに小さく笑った。
「…そうか。真面目だな蓮は」
「そう、ですか?」
真面目と言われてもあんまりピンとこない。授業中はよく寝てるし、宿題も時々やって来ないし、部屋も本だらけで整理整頓されてないし…。蓮はうーんと首を傾げた。
やっぱり自覚がないのかと、洗った手を手拭いで拭きながらティルは思った。
「何はともあれ、俺は準備してくる。蓮は納戸から外套を持ってきてくれ」
「外套って、大きいマントみたいなやつですよね?」
「あぁ、このあたりは街の外れであまり人はいないが、もし見つかったら大変なことになる」
確かに世界を滅ぼす双黒の聖霊姫らしい私が見つかったら、そりゃあ大変なことになるだろう。それぐらい蓮にも分かった。
「分かりました!すぐ持ってきます!」
思わずビシッと敬礼をして、蓮は直ちに納戸へ向かった。