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遺産目当てのあなたのもとに帰らないと決めたら

作者: サヤマカヤ

可愛らしい男性を書きたくなりました。

 

 青天の霹靂とはこのことか。

 カイサは田舎領主である父に呼び出された部屋を出て、フラフラとした足取りで廊下を歩く。

 女だてらに剣術を得意とするカイサには珍しく覇気のない様子に、只事ではないと察知した使用人たちが声をかけるべきか躊躇っていた。


「カイサ!領主様の話はもう終わったのか?」


 庭から声をかけて来たのは、すらりと背の高い精悍な男性。

 躊躇うことなく駆け寄って来たのは、彼がカイサの婚約者だから。

 庭でお茶をしているときに父に呼び出されたカイサをずっと待っていたのだ。


「あれ?顔色が悪くないか?」

「フーゴ……」


 やや鈍感なところのあるフーゴでも、カイサの様子がおかしいことに気づいた。


「何があった?」

「だ、大王様に嫁げって……」

「は?」

「多産で有名なバベッド領から輿入れさせろって……」


 カイサの言葉の意味を理解したフーゴの表情が強ばった。

 大王様――つまり、国王は何人もの側室を娶っているが、いつまでも跡継ぎが生まれない。

 次なる側室として、カイサに白羽の矢が立ったのだ。

 北に位置するバベッド領は多産の傾向があり、子沢山家庭が多い。

 カイサも五男八女の、十三人の兄弟妹がいる。

 通常なら決して側室に選ばれることのないただの田舎領主の娘。

 それだけなりふり構っていられなくなっているということか。


 来年にはフーゴとの結婚も決まっていた。

 絵本にもなっている国の英雄たちのように、いつか夫婦で魔獣の討伐隊に選ばれることが夢のカイサ。

 日々剣術を磨き、研鑽もしていた。

 側室になるということは、夢見た未来は来ないということ。


「……カイサが大王様の側室になるのか?」

「王命には逆らえないってお父様が」

「やったじゃないか!」


 フーゴもショックを受けているに違いない。

 そう思ったのに、予想だにしない言葉がフーゴの口から飛び出した。

 聞き間違いかと思ったカイサはゆっくりと顔を上げる。

 そして、フーゴの表情から聞き間違いではないことを悟った。


「どうして……?」

「こんな田舎領主の娘が国王の側室だぞ。大出世じゃないか!」

「でも、私たちの結婚は――」

「俺は待ってるから。カイサがいつか戻ってくると信じて待ってる」

「フーゴ……」


 カイサの瞳に涙が浮かぶ。

 一途な言葉は嬉しくもあり、悲しくもある。

 無理だとわかっていても、逃避行の提案でもしてくれることを期待した。


 幼なじみでもあるフーゴとの婚約が決まったのは昨年のこと。

 領内の軍に所属する軍人たちの剣術大会があった。

 そこで優勝した者は、一つだけ領主へ願い事ができることになっている。

 昨年の優勝者はフーゴで、カイサとの結婚を願い出た。

 幼なじみで想い合っていたが、領主の娘と忠臣の息子。

 身分違いで結ばれることのないはずだった二人が、フーゴの努力で叶えられそうだったのに。


「だって、大王様はもう御歳五十五歳。こう言っちゃ不敬だけど、いつ死んでもおかしくないだろ」


 嬉々として喋りだしたフーゴ。

 何が言いたいのかまったくわからないカイサは、ただぼーっとフーゴの顔を見つめた。


「五十五歳っていったらこの辺だと長老クラスだし、どんなに長生きしてもあと十年だ。王の側室だと、ただの田舎領主の娘という立場よりもぐっとカイサを格上げしてくれるぞ」

「……格?」

「それに、奥方様たちには死ぬまでに使い切れないほどの遺産も入るらしいじゃないか」


 カイサはフーゴが何を考えているのか気づいてしまった。

 フーゴがいつまでも待つと言っているのは、愛する婚約者ではない。

 いずれ遺産をたっぷり持って戻ってくる女を待つと言っているのだ。


 いずれ元側室を娶ることができる。そうなれば、俺の格も上がる。金も入る。そのためなら十年くらい待てる。

 フーゴの顔にはそう書いてあった。


 顔を見るだけで幸せだと思うほど大好きだったはずなのに。

 急速に心が冷めていった――――


 ◇


 正室である王妃様やたくさんいるという側室からいびられるのだろう……。

 王宮へと向かう特別列車の中、カイサは後宮という知らない世界への恐怖心と戦っていた。


「精神的ないびりは嫌だなぁ。物理的ないびりには対抗できる自信があるけど」

「お嬢様は剣術がお得意ですからね」


 王宮までの道中を付き添っている侍女が笑う。

 気を紛らわせるために、侍女とずっと話しつづけた。


 豪華な馬車や貸し切りの特別列車で移動すること二週間。

 辿り着いたのは、カイサ専用の立派な宮だった。

 後宮を取り仕切っているという厳しく偉そうな官吏がカイサを真っ直ぐに見てくる。


「許可なく自分の宮からは出られませんように」

「出たいときはどうしたら?」

「カイサ様の希望で出るということは不可能です」

「それでは、どういうときに出られるのですか?」

「陛下に呼ばれたときだけです」


 どういうことで呼ばれることがあるのだろう?とカイサが思っていると、官吏が「端的に言いますと夜伽のときです」と感情なく言う。


「早速今夜、お呼びですので準備してお待ちください」


 そのために嫁いできたのはわかっていても、動揺からカイサの瞳が揺れる。


 略式ながら行われた婚儀で初めて国王と会った。

 国民から大王様と呼ばれるくらい、辣腕を振るって国家を繁栄させた。

 一方で、冷酷無比だとも言われ、噂も多く恐れられていたが、見る影もない姿に驚いた。

 カイサが見たのは、おしろいを塗っても隠しきれないほど土気色の肌で、明らかに体調が悪そうな老人だった。


 カイサの侍女だという何人もの女性たちの手によって粛々と準備が進められた。

 準備が整うと静かに座って呼ばれるのを待つ。

 婚儀の間でさえ一度もこちらを見ることのなかった人と――――そう思うと手足から熱が奪われ、身体が勝手に震え出す。


 外から扉をノックする音が聞こえ、身体に力が入る。

 侍女長の応対している声がやたらと遠くに聞こえるような感覚になった。

 必死に震えを抑えようと集中していると、肩口に何かが触れて肩が跳ねた。


「驚かせてしまい申し訳ございません。どうしてもこれをお渡ししたく……」


 側に控えていた侍女は小声で話し、カイサの手の中に何かを忍ばせてくる。

 見ると、金色の小さなケースだった。


「これは?」

「苦痛を和らげる薬です。気付かれないようにお飲みください」

「……ありがとう」


 蓋を開けてみると中には丸薬のようのものが入っていた。

 顔を上げると、すでに侍女長が戻ってきている。

 侍女長の表情が強ばって見えたので薬に気付かれたかと思ったが、違う理由だった。


「延期になったそうです。通常の夜着へお着替えいたしましょう」

「延期ってどうして?もしかして、陛下は体調が優れないの?」

「…………」


 結局、延期になった理由は教えてもらえなかった。


 いつ次があるのかとドキドキしながら過ごしていたが、何もないまま一日一日と過ぎていく。

 身の回りの世話をしてくれる侍女はたくさんいるので生活に困らないし、妃教育と称した勉強の時間が一日を占めているので忙しいくらいだった。


 そのまま二週間も経つと、緊張感も薄れる。

 宮から出られないのは退屈でつまらないが、小さな庭も付いているので多少の気分転換はできるし、僅かな自由時間には日課である剣の素振りもできる。

 侍女の中に剣術の心得のある者を見つけ、稽古に付き合ってもらえるようになった。


 初めは苦痛だった妃教育での勉強も、自分の興味のあることを学ぶようになると資料を読み込むのに没頭したり、講師から話を聞いたりするのが楽しみになった。


「なるほど!」

「ふふふ。カイサ様は本当に英雄たちの話がお好きですね」

「私も他の子供たちのように憧れていたもの」


 十年前にこの国を襲った大魔獣出現事件。

 突如、特大の大魔獣が現れ、街や人々を襲った。

 剣士や魔術師などの討伐隊が組まれ、彼らは見事討伐してみせた。

 絵本にもなっているため、英雄たちに憧れる子供は多い。

 自分は剣士だ、自分は魔術師だ――と、それぞれ一度は夢見るもの。

 妃教育では絵本では語られていないもっと詳細な被害や復興について知ることができた。

 英雄たち一人一人の情報も暗記するほど読み込んだ。


 後宮という狭い世界でも楽しみを見いだし始めた矢先、官吏来訪の知らせが届いた。

 今夜の夜とぎに指名されたと言われるのだろう。


「いよいよ……」

「大丈夫です。抵抗しなければすぐに終わります」


 侍女長に励まされ、カイサは苦笑いをする。

 そんな励まし程度では心持ちが変わることがないとわかっていても、それ以外言いようがないのだろう。


 官吏がいる応接室の前まで来ると立ち止まった。

 これから言われることを少しでも冷静に聞くために、ゆっくりと深呼吸をする。

 心の中で大丈夫と何度も自分に言い聞かせてから扉を開けた。

 椅子に腰掛けているのは、カイサの父よりも年上の男性。

 国王の側近であり、後宮の管理者でもある。

 覚悟していても、ついに……と思うと気が重い。


「国王陛下が身罷られました」

「え?……え、亡くなられた?」

「本日、早朝のことです」

「…………えっと」


 国王ほどの人が亡くなったときにどんな言葉を返せばいいのか、カイサには思い浮かばない。

 書類上夫婦になっているとはいえ国王に対して何の思い入れもないので、悲哀も惜別の気持ちも湧いてこない。


「後のことは追ってご連絡しますが、早急に代替わりの儀式が行われる予定です。そうなれば、奥方様方の宮も明け渡さなければなりません。今から少しずつ準備を始めてください」

「わかりました」

「では、失礼いたします」

「あ、ご苦労様です」


 官吏が応接室を出ると、側に控えていた侍女長を見る。

 侍女長は顔を強ばらせていて、カイサよりも事の重大さを理解しているようだった。


 ◇


 王宮の門を出ると立ち止まってゆっくり振り返る。

 結局、入内しただけで何も起こらないまま一ヶ月を過ごした王宮。

 王の崩御で直系は潰えたが、すぐに次期国王が決まった。

 恐ろしいほどの早さで次の王の時代が始まろうとしている。


 たった一ヶ月とはいえ、豪華な食事や充分なお世話を受け、噂どおりにたっぷりの遺産を貰った。

 王宮に向かって一礼すると、門番たちが慌てて礼を返してきた。

 正室や他の側室たちは何台もの馬車の列を作ってパレードのごとく王宮を後にする予定になっている。

 自分の足で歩いて王宮の門をくぐると申請した元側室はカイサだけ。


 僅かなものしか持ち出していないカイサは、誰よりも早く後宮を出た。

 まるで旅人のような出で立ちのカイサを、門番たちが物珍しそうに見ている。


 たっぷりの遺産の半分は実家へ送ってもらった。

 北に位置するバベッド領は大型の魔獣がよく出る。

 武器が駄目になりやすいし冬用の装具は高価なので、この遺産が大いに役に立つだろう。

 残りの半分は銀行へ預けてもらった。

 今後袖を通しそうもない豪華な衣類は侍女たちに下げ渡した。サイズが合わなくても売ればそれなりの金額になるはず。

 今のカイサの持ち物は、少しの着替えなど身の回りの物を入れた鞄と愛用の剣くらいしかない。


「すみません。駅へ行く馬車の乗り場ってどっちですか?」

「駅!?あ、あちらです!」


 目が合った門番に馬車の乗り場を聞くと、声を上ずらせながらも教えてくれた。

 にっこり笑って「ありがとうございます」と言うと、教えられた方向を向く。


 急速に心が冷めたあの日、たとえ解放されたとしても絶対にフーゴの下には戻らないと誓った。

 その誓いどおり、カイサはバベッド領とは反対方向へと旅に出る――――


 ◆◇◆



「あっ、それも美味しそう」

「旨いよ!」

「じゃあそっちの串も一本ちょうだい!」


 王宮を後にしてから三ヶ月。

 カイサはこの国の南端の街へ辿り着いた。

 雪山や草原が広がっているバベッド領とは正反対の景色が広がっている。

 見るもの全て新鮮で、温暖な気候も気に入ったカイサは数日前からこの街に滞在していた。


 ここは見たことのない形の木が生え、本でしか見たことのなかった青い海が広がっている。

 海は本に書かれていたとおりに青く、想像以上に美しいものだった。

 ただ、白い砂浜の白とは真っ白ではないことを知った。

 はしゃいで靴のまま砂浜を歩くと、靴の中にいつまでも砂が残って厄介なことは勉強になった。


 この街の好きなところは青くきれいな海だけではない。

 振り返るとオレンジ色の屋根と白い壁に統一された建物が建ち並び、その奥には山があって緑が広がっている。

 後宮を出てからの三ヶ月、南下しながらいろいろな街を見てきたが、ここより食べ物が美味しくて景色も良い街はなかった。

 暖かい気候からか、今まで出会った人は気さくで気持ちのいい人が多い。


 宛のない旅も少し疲れがたまり始めている。

 そろそろ一度腰を落ち着けて、ゆっくり過ごすのもいいだろう。


「本当にきれいな街。本格的に家を探してみようかなぁ」

「おっ。部屋探しかい?」


 露店のおじさんがカイサの独り言を拾うと、高台は高級住宅街だとか入り江の向こう側の地区は昼間でも治安が悪いなどの情報を教えてくれた。

 地元の人間が使う不動産屋までの地図もかいてくれた。


 早速地図を見ながら向かうが、土地勘のない場所のため道に迷ってしまう。


「あれ?こっち?んー……?」


 近くまで来ているはずが、それらしい建物が見つからない。

 大好きな統一感のある建物が、こういうときは厄介だった。

 かいてくれた地図が簡略化されすぎているのも相まって、これ以上は誰かに聞かなければ辿り着けそうになかった。

 しかし、あまり人通りがない。


「どうしよ――あっ!すみません!」

「……はぃ」


 地図に視線を落としていると、人が近くを通りかかった気配がしたので反射的に声を掛ける。

 弱々しく小さな返事が耳に届き、そのとき初めてちゃんと相手を見た。


 カイサの声に反応して立ち止まったその人は、暑い地域だというのにフード付きの外套を羽織っていた。

 フードを被っているので顔はよく見えないが、身長や声から男性だとわかる。

 少しだけ怪しげな雰囲気に内心警戒してしまうが、他に歩いている人がいないし、自分から声を掛けた以上聞かないわけにいかない。


「この不動産屋さんを探しているのですが、わかりますか?」

「……あぁ、それ…………」


 それきり、カイサが差し出した地図を見たまま無反応の男性。

 よく見ると、微かにゆらゆら揺れている気がする。


「あの……?」

「…………」

「っ!?ちょっ!?大丈夫ですか!?」


 いきなり膝から崩れ落ちた男性を咄嗟に支える。


「大丈夫ですか!?」


 道に横たわらせると、パサリとフードが脱げた。

 ふんわりと柔らかそうで癖のあるきれいなブルーグレーの髪と髪の毛より濃いグレーの睫毛が光を浴びて煌めいている。

 シミ一つない白い肌には薄らと汗をかき、頬が上気し、男性と思えぬ色香にカイサの目は奪われてしまう。


「うぅ……」


 柳眉が苦しげに寄せられ、カイサはハッとする。

 汗をかいているということは、暑くて倒れた可能性がある。


 カイサは自分の鞄を探って手ぬぐいを出すと、水筒の水を含ませる。

 額や首筋に濡らした手ぬぐいを当てるが、男性の表情は和らがない。


「こんな暑いのにこの外套じゃ……前を開けますよ!」

「や……」


 外套の合わせに手を掛けたカイサの腕に、男性が弱々しく触れる。

 構わず外套の前を開くと、よくわからない文様が描かれた独特なデザインのシャツを着ていた。

 外套の前を開けると少し風が抜けて涼しくなったのか、男性の表情が少し和らいだ。

 ほっとすると、男性の着ている個性的なシャツが気になってしまう。


「この文様、何かに似てる……」


 そうだ、大型魔獣の動きを封じるときに使う魔術陣に似ている――と思ったとき、「あらっ?どうしたの!?」と声が掛けられた。

 見上げると、地元民らしきおばさんが見下ろしている。


「あ、この人が突然倒れて」

「先生じゃないの!」

「先生?」

「山の診療所の先生なんだ。いつもそんな外套着てたら倒れちまうって注意してるのに」

「お医者様なんですか」

「そう。山の麓でね。腕は良いのに、自分の健康には無頓着みたいでたまに暑くてバテるんだよ。ちょっと待ってな」

「えっ?」

「今、旦那を呼んでくるから。先生がいくら細くても、さすがにお嬢ちゃんと私だけじゃ麓までは運べないだろ」

「あ、そうですね。お願いします」


 十五分ほど歩くと、山の麓に辿り着いた。

 森に少し入ったところに蔦に覆われた建物が建っている。


 おばさんが慣れた様子で玄関横の植木の下から鍵を取り出すと玄関扉を開けた。

 医者を背負っている旦那も中に入って行く。

 ここまで医者の外套を持ってついてきたカイサも小さく「お邪魔します」と言いながら中に入る。


 中に入った瞬間、薬の匂いがした。

 手前にちょっとした待合スペースがあり、奥に診察台が置かれている。

 おばさんの旦那が診察台に医者を寝かせた。


「それじゃ、後は頼んだよ」

「……えっ!?頼んだって!?」

「先生が目を覚ますまでは一応いてくれるかい?私たちは店に戻らないといけないからさ」


 医者だとわかったが、見ず知らずの人間の家に一人で残されるのは少し気まずい。

 できればおばさんだけでも残ってくれないかと期待の眼差しで見つめる。


「残ってやりたいけど、お客さんの予約が入ってるんだよ」

「予約?」

「そ。うちは不動産屋をしていてね。内見の予約が入ってるからもう戻らないと」

「不動産屋さんですか!?」


 カイサが身を乗り出したので、仰け反るおばさん。


「そ、そうだよ。なんだい?」

「探してたんです。道に迷ってこの方に聞こうと思ったところで倒れちゃって」

「そうだったのかい。家を探してるのかい?」

「はい。この街が気に入ったので」

「お嬢ちゃん、一人で?」

「はい」

「仕事は?」

「仕事はこれから。ですが、貯金はあります!家賃を滞納することはありません!」

「それじゃぁ貸せないね」

「え!?どうしてですか?お金はありますけど」


 遺産の半分を実家に送ったとはいえ、充分な金額は銀行にある。

 遊んで暮らしたとしても、暮らしに困ることはない。


「港があるからいろんな人間がいる。昼間はいいけど、夜は結構治安が良くないし、女性を狙った犯罪も。うちでは余所から来た女性に一人暮らしの部屋は紹介していないんだよ。仕事をしていれば知人もできるからまだ頼れる人もいるだろうけど、一人だとね」

「そんな……。あ。でも、私剣術が得意で」


 食い下がるカイサに、おばさんは少し困ったように旦那を見た。


「余所者の女性に一人暮らしの部屋は貸さないっていうのがうちの方針だ。安全のためだよ」


 寡黙な雰囲気の旦那にも言われ、カイサは眉を下げる。


「そんな顔をされてもね。ごめんよ」

「……いえ」


 残念極まりないが、ある意味で親切な不動産屋で良かったと思うことにした。


「とりあえず、先生のことよろしくね」

「わかりました」

「もしも先生が目覚めなくて暗くなってしまったら、危ないからここに泊まっていきなよ」

「え」


 一応男女が一つ屋根の下で危ないのではないか。

 親は田舎の地方領主で中流階級に近い自由気ままな生活だったとはいえ、未婚の男女が二人きりで一晩を過ごすことはダメなことと教えられてきた。


「大丈夫だよ。ほら、見てごらん。こんなに仙人か妖精かって雰囲気で弱々しい先生が何かするってことはないって」


 診察台に寝ているのは年齢不詳の中性的な人。

 医者ならば十七歳のカイサより年上のはずだが年下に見えるくらいだし、ほっそりした指や腕の太さはカイサとそう変わらない。


「……確かに、そんな気もします」

「それじゃあよろしくね」


 そうして不動産屋夫婦は帰って行った。

 ただ、看病しようにもとくにやることはない。

 すでに顔の赤みも取れ、すやすやと眠っている状態。

 医者が目を覚ますまで一人でどうしようか。

 室内を見渡すと、いろいろと目に付いてしまう箇所がある。

 かろうじて待合スペースと診察台付近はきれいにしてあるが、作業台の上は物が乱雑に積まれている。

 棚の埃や床のゴミ、天井付近には蜘蛛の巣まで。

 開け放たれた窓から心地良い風が吹いてくるが、埃が光に煌めいているのも見えてしまう。

 診療所とは思えない衛生状態に、次第に鼻がムズムズし始めた。


「よしっ。掃除しよう!」


 ◇


「ん……」


 雑巾をギュッと絞ったところで、背後で寝ている医者が身じろぎした。

 振り返って見ると、医者はぼーっと天井を見つめ寝ぼけている様子。


「気が付きました?大丈夫ですか?」


 医者がゆっくりと首だけ動かしてカイサを見る。

 ぼけっと数秒見つめていた医者の瞳が徐々に見開かれていく。


「……ぅわ!?」

「あっ、落ち――」


 急に起き上がった医者は、カイサの忠告も間に合わず診察台の向こう側へと転げ落ちた。


「痛たた……」

「大丈夫ですか!?」


 診察台越しに覗き込めば、腰を押さえて苦痛に顔を歪めている。

 カイサの声かけに反応し顔を上げた医者は涙目になっていた。


「痛い……」

「ですよね。よかったら湿布でも貼りましょうか?」

「大丈夫。君はどうして……?」


 聞き取りにくいほど小声でぼそぼそと話す医者。

 少しでも聞こえやすくするために一歩近づくと、医者が少し後退りする。


「昼間、道を聞こうと声を掛けたんですが、覚えていませんか?でも、あなたはすぐに倒れてしまって。不動産屋さんご夫婦とここまで」

「あー……そういえば、そんな気もする……。でも、どうしてここに?」

「目を覚ますまではと思って一応様子を見ていました」

「それはどうもありがとう。もう大丈夫だよ」


 顔はカイサの方を向いているが、視線は明後日の方向を見ながら話す医者。

 さっさと帰らせようとしているのが伝わってくる。

 しかし、外はもう陽が落ちて暗い。


「不動産屋さんによれば夜は危ないとのことなので、部屋の隅でいいので今夜は泊めてくださいませんか」

「えっ!?」


 目を丸くし、初めて大きな声を出した――と言っても、やっと普通の人の通常の声量程度。

 数瞬考えるように視線をめぐらせてから、何かを確かめるようにカイサの頭の先からつま先までチラチラと見てくる。


「え。む、無理.……」

「どうしてですか?」

「だって……僕は男だよ?ここに一人で住んでいるし。そんなところに女性一人で泊まるなんて、だめでしょ?」


 小声ながら早口で捲し立てるように話す。

 必死な様子で言葉を紡ぐ医者の顔はほんのり赤らんで恥ずかしそうに見える。


「……何かするつもりですか?」

「しっ、しないよ。僕は!」


 医者は目を丸くし、両手を前でブンブンと振って力一杯否定する。


「僕はって、私も何もしませんよ。それとも、夜に女性を外に出しますか?」

「そ、それは危ないけど……。んー……んー…………わかった。今夜だけだよ」

「ありがとうございます。ところで、お腹は空きませんか?保冷庫にあった野菜を使わせてもらってスープを作ったんですが」


 医者が「スープ……」と復唱した途端、お腹が空腹を訴える音を奏でた。

 耳まで真っ赤にしてお腹を押さえる医者。

 聞こえてしまったか確認するようにちらっと上目遣いでカイサを見てくる。

 カイサは思わず(何この人。可愛い)と思ってしまった。


「――さぁ、どうぞ召し上がれ」

「……いただきます」


 真剣な表情でフーフー、フーフー、フーフーと息を吹きかけ、左手で持ったスプーンをそろそろと口に運ぶ医者。

 口に入れた瞬間、ぱぁと表情が明るくなった。

 声が小さくぼそぼそと話すし視線もあまり合わないので、恐らく極度の人見知りなのだろう。

 それでも素直な感情が顔に表れてしまうようだ。


「ん。美味しい」


 医者の子供のような反応が可愛くて、笑いがこみ上げてくる。


「そ、それは良かったです」

「……どうかした?」

「いえ。なんでも」

「そう?」


 カイサの声が震えているので、こてんと首を傾げて考えているようだった。

 が、すぐにどうでもよくなったのか再び真剣な表情でフーフー、フーフーと息を吹きかけている。


「猫舌ですか?」


 医者は少し恥ずかしそうに「うん……」と返事をする。


「……えっと、名前って」

「あ、私はカイサと申します。先生は?」

「僕はヴィル」


 ちらっとカイサの顔を見て「カイサは北の出身だよね?」と続けた。


「はい。北の方の出身ですが、なんでわかったんですか?」

「あの、色白だから」

「先生も北の方の出ですか?」

「違うけど。どうして?」

「私以上に透き通るような綺麗なお肌なので」

「えぇ?やめてよ。僕は男だし、そんなことないよ」

「…………」


 もじもじしつつ、色白と言われるのが嫌なのか眉根を寄せるヴィル。

 悩ましげに見える言動を見て、カイサは複雑な気持ちになる。

 ヴィルは美しい上に言動が可愛くて、この人と一緒にいると女としての自信を失いそうな気がしてしまった。


 ◇


 戸棚を閉める音や水を流す音が微かに耳に届き、ゆっくり目を開ける。

 見慣れない部屋は、昨夜ヴィルが私室を貸してくれたから。

 生活音が聞こえてくる居間の扉を開けると、ふわりと良い香りがする。

「おはようございます」と声を掛けながら入ると、「おはよう!」と女性の声がした。


「あ。昨日の不動産屋さん」

「よかった。先生なら追い出すことはないと思ったけど、まだいたね」


 台所に立っていたのは、昨日の不動産屋のおばさんだった。

 おばさんの息子が他の病院でもなかなか治らなかった病をヴィルが治してくれたことがあったらしく、お礼として時々ヴィルのお世話をしにきていると話した。


「そういや、家を探しているのならここに住んだらどうだい?」

「え?ここって、ここですか?」

「そう。ここに住んで、先生の面倒をみてやってくれないかい?」


 おばさんからの提案を聞き、カイサは案外悪くないと思った。

 昨日は声も小さいしほとんど視線も合わなかったが、「女の子を診察台で寝かせられないから」と自分のベッドを譲ってくれる優しさを感じられた。

 しかし、ヴィルがあわあわと反対しながら間に入ってくる。


「ちょ、ちょっと。何を言ってるんですか?そんなのだめです」

「どうしてだい?」

「だって女の子ですよ。僕は男で、独り身だし」


 カイサに人見知りしているので声が小さいのかと思っていたが、おばさん相手でも声が小さいヴィル。

 声は小さいが、カイサに対するよりははっきりと主張している。


「先生、この子に手を出そうってのかい?」

「ちがっ!そっ、そんなことは言ってませんっ」


 昨夜と同じように、ヴィルは顔を赤くさせて必死に否定する。


「だったら大丈夫だろ。それに、先生はあたしがこうして食事を作りに来ないと不摂生ですぐ倒れるだろ。昨日もあんな人通りの少ない場所で倒れたばかりだし」

「昨日は往診の帰りでたまたま……。僕だってやろうと思えば――」

「先生が倒れて迷惑するのは患者たちなんだよ!」


 おばさんの言葉にヴィルが言葉を詰まらせる。

 しかし、首を縦に振る様子はない。


「頑なだねぇ。そうだ。助手兼家政婦だと思えばいいじゃないの。一晩でこんなにきれいになったのはお嬢ちゃんがやったんだろ?」

「あ、はい。暇だったので」

「診療所ってのは、こう綺麗でなくっちゃねぇ。親切で腕がよくても汚い診療所じゃ患者が減っちまうだろ」


 何か言おうと口を開きかけていたヴィルだったが、おばさんの言葉に口を閉じた。


「お嬢ちゃん、料理はできるのかい?」

「簡単なものなら一応」

「じゃあ、先生の助手兼住み込みの家政婦でどうだい?」

「ちょっと、僕を置いていかないでっ。家政婦だなんて、彼女に失礼ですよ」

「失礼かねぇ。でも、お嬢ちゃんも仕事はこれから探すんだろ?」

「はい。家が決まったら仕事も探そうと思っています」

「なら、住み込みの助手兼家政婦でもいいだろ?仕事も家も見つかって一石二鳥だ」

「私は助かりますが」

「ほら!決まりだ!」

「決まりじゃないですっ」


 ヴィルが立ち上がって抵抗する。


「そもそも僕はっ!」

「そもそも?」


 ヴィルにしては珍しく大きな声を出したので、カイサもおばさんも彼に注目して続きを待った。

 しかし、注目されて落ち着かなくなったのか勢いは続かない。

 視線が泳ぎ、どんどん声が小さくなっていく。


「か、家政婦を雇う余裕はありませんし。ましてや住み込みで働いてもらうお金も、部屋もないし……」

「部屋は屋根裏部屋でもどうにかなるだろ。お金は……うーん。慈善事業みたいだもんねぇ、先生は」

「だって、お金ないって言うから……。代わりにお芋とかくれたりしますし」

「厳しく言えば払えるはずだと思うけどねぇ……」


 さすがのおばさんも、先立つものがないのであれば無理強いできないか……と、引く姿勢を見せる。


「私、そんなにいい報酬は必要ないですよ。住むところに困らなければいいので」

「そうかい!?現物支給でもいいのかい?」


 カイサには遺産がある。

 ずっと現物支給だと困るが、いつかまたどこかへ旅に出るまでなら問題ない。


「先生!こんな子、なかなか見つからないよ」

「で、でも――」


 まだ抵抗を続けるヴィルに対し、おばさんの声が少し低くなる。

 真面目な話し声に変わり、ヴィルの表情も真面目なものへ変わった。


「先生にはこの前言っただろ?私たちは高齢になってきたから、息子が一緒に暮らそうって言ってくれてるって」

「王都で騎士をされているのでしたっけ」

「そう。先生に治してもらってからみるみる元気になってね。その息子が呼んでくれてるんだ。旦那とも相談して、行こうかって言ってるんだよ」

「そうですか。息子さんと一緒に住めるならいいですね」

「だけど、そうなったら先生の面倒は誰が見るんだい?あたしたちがいなくなって先生が倒れたなんてことになったらと思うと、なかなか決断できずにいたんだよ」

「僕のことは気にせず――」

「だけど、世話してくれる人がいれば安心して行ける!」

「でも――」

「どうしても嫌って言うなら、せめて街中に移ってもらうよ!ここじゃ一人の時に何かあってもなかなか気付いてもらえないんだからね」

「えっ!?それは嫌です!」

「この建物はうちが管理してるんだし、追い出すことだってできるんだからね!」

「……わかりました。彼女を助手兼住み込みの家政婦として雇います」


 おばさんから脅すように言われ了承したものの、ヴィルは眉根を寄せ、声は不本意そうだった。

 反対におばさんは満足そうに帰って行った。


「本当にいいんですか?」

「よくないけど、ここを追い出されたら困る……」


 ◇


 カイサの目の前には小さな女の子が仁王立ちになり、立ち塞がっている。

 腕を組み、頬を膨らませ、カイサを睨む女の子。

 今、ヴィルの治療を受けている年配の女性に付いてきた女の子だ。


 カイサには弟妹がいるので幼い子供には慣れているが、思い当たる節がないのに初対面から敵意を剥き出しにしている他人の子供は初めてで、どうしたものかと困っていた。


 八つ当たりされたときや生意気なとき、弟妹ならビシバシと厳しく接することもできるが、一応お客様にそれはできない。

 待合スペースにいる他の患者さんたちは微笑ましそうに女の子を見ているだけで、誰も助け舟を出してくれない。


「…………どうしたのかな?」

「あなた、せんせえのなに?」

「先生の?助手兼家政婦よ」

「じょちゅけんきゃちぇいふでしゅって?」


 正しく言えたふうに澄ましている様子が可愛いしおかしくて、カイサの肩が震える。

 カイサが笑いを我慢しているのを感じ取った女の子は、むっとした顔をする。


「あたしはせんせえとけっこんのやくそくをしているのよ!」


 診療所内に響き渡る声量で自分の優位性を主張する。

 直後にガシャン!と診察スペースで何かしらの器具を落とした音がした。

 女の子は音に気を取られることなく、ふふんっと勝ち誇って得意満面カイサを見る。


「あらっ。そうなの!?あなたは先生の婚約者なのね!」

「そうだよ!だから、かせいふならあたしのいうこともききなさいっ!」


 機嫌よくさせるために「はいお嬢様」と傅いてみせることは簡単だけど、このくらいの年の子供は本気で言っている可能性もある。

 傅いて見せた結果、増長されても困る。

 後々厄介になるのは避けたいが、今機嫌を損ねるのもできたら避けたい。


「こらっ。お姉さんに向かって偉そうなこと言わないの!」


 どうしたものかと悩んでいると、診察を受けていた女の子の祖母が注意をしてくれた。


「でも、あたしはせんせえのおよめさんになるんだよ!?」

「そうだとしても、今は違うでしょ?そんなふうに偉そうにしないの!」


 身内が注意してくれて助かったと思っていると、視界の端で何かが動く。

 見るとヴィルが小さく手をパタパタさせて、違うと主張していた。


「……うーんと、今は何歳?」

「四歳!」

「そう。先生とはちょっと年が離れているけどいいの?」

「としがはなれていてもいいの!すきだから!」

「まぁ、情熱的!先生ったら、愛されていますね!若いお嫁さんなんて皆から羨ましがられますよ、きっと」


 わざとらしくヴィルを見ると、目を白黒させていた。

 二日目にして、ヴィルを揶揄うと面白いと気づいてしまった。


「ちっ、違うよ。僕は――」


 慌てて否定すると、足元の方から「えっ?」と声がする。

 見ると女の子が不安そうな顔でヴィルを見上げていた。


「先生は若い子が好きだから結婚の約束をしたんじゃなくて、あなただから約束したって言いたいんだと思う」

「……ほんと?」


 不安そうに上目遣いで見てくる少女と目が合い、絞り出すように「うっ、うん」と返事をしたヴィル。

 その返事を聞いて安心したようで、祖母と帰っていった。


 その後もひっきりなしに患者さんがやってきて、待合スペースの椅子が空くことはなかった。

 皆の様子から医者として頼りにされているし、地域住民から愛されていることが窺い知れた。


「お大事になさってください。お気をつけて」


 カイサのお腹がグーグー鳴って空腹を主張し始めたころ、午前中最後の患者が帰っていった。


「午前中って忙しいんですね。今まで一人でどうしてたんですか?」

「えっと、患者さんたちが手伝ってくれたり」

「あー、なるほど」


 カイサは深く頷く。

 ヴィルはついつい手助けしたくなる雰囲気なので、患者たちも世話を焼いてしまっていたのだろう。


「午後も忙しいんですか?」

「午後は往診だからそうでも。でも、今日は忙しくないほうだよ。忙しい日は往診の予約時間に間に合わないこともあるから」


 バタバタしていたお陰か、助手をするためにたくさん話しかけまくったせいか、自然とヴィルの口数が増えてきた。

 何しろ、この診療所にはカイサが見たことも使ったこともない魔術道具がたくさんあり、何をするにもヴィルに使い方を聞かなければ始まらなかったから。

 使い方の質問と説明だったが、自然と二人の会話が増えていった。


「そうなんですか!?あっ!もしかして、昨日は凄く忙しい日だったんですか?」


 叱られると思ったのか、ヴィルは顔を背けて明後日の方向を見て答えない。


「わかった。お昼も食べずに働いていたんですね?」


 カイサの視線に耐えきれなくなったように、ヴィルは微かに首を縦に動かした。


「もぅ。不動産屋さんの奥さんも言ってましたが、先生が倒れたら患者さんが困るんですからね。あんなに皆から頼りにされてるのに」

「はぃ……」


 しゅん……として俯きがちになるヴィル。


「ご飯を食べる暇がなさそうなら、今度から早めに受付を終了しましょうか?」

「それはだめ。皆、僕を頼ってきてくれてるんだから」


 髪の毛同様にふわふわしたところのあるヴィルが、力強く否定する。

 少し意外に思いながらも、医師としての真摯な姿勢に感心した。


「それなら忙しすぎる日のお昼はサンドイッチとか作りますね。僅かな合間でも口に入れられるし、往診に向かいながらでも食べられますから」


 カイサは笑いながら「歩きながらなんてお行儀は悪いですけどね」と続ける。


「ありがとう」


 ぼそぼそとではなく、はっきりとした声だった。

 ヴィルの顔を見ると、しっかりと目が合う。

 ヴィルが初めてカイサをまっすぐに見てきたのである。


 優しい微笑みを直視したカイサは、胸がきゅっとしてそっと目を逸らす。

 とても可愛い小動物を見たときのように無性に撫で回したい衝動に駆られ、うずうずしてしまう。

 どんなに可愛いと心をくすぐられても、仮にも男性。しかも雇い主。

 自制するための視線逸らしでもあった。


「私は助手兼家政婦ですから、工夫するのは当然です」

「うん。だからありがとう。考えてくれて」


 なんだか無性に落ち着かない気分になり、手慰みに指先に触れた何かを掴む。


「痛っ……」


 突然指先に走った痛みに驚いて見ると、新鮮なナスの棘だった。


「どうしたの?大丈夫?」

「大丈夫です。それにしても、本当に診察代として野菜とかを置いていく人がいるんですね」


 受付の机の上にはトマトや芋などの野菜が置かれている。

 午前中に来た何人かの患者が、診察代として置いていったものだ。


「うん。でも、結構助かってるよ。新鮮だし」

「確かに新鮮ですね。これらは保冷庫に仕舞っていいですか?」

「うん。全部あっちの保冷庫にお願い」

「はい」

「あの、……からね?」


 野菜をまとめて運ぶためにカゴに入れていると、ヴィルがもごもごと何かを言い出した。

 一段と声が小さく、聞き取れなかったので「え?」と振り返ると黙ってしまう。


「聞き取れなくて、すみません」

「…………」

「もう一度いいですか?」

「……さっきの、違うからね?」

「さっきの?あぁ、女の子との結婚の約束ですね。わかってますよ」


 カイサが「はははっ」と笑うと、彼はほっとしたように息を吐いた。


「冗談のつもりが本気にされちゃったんですよね」

「うん……」

「さすがにあの手の話を真に受けたりしませんから、大丈夫ですよ」

「でも、あの子は本気にしちゃってるよね……」

「そうですね」


 ヴィルは眉を下げ困り顔になっている。

「どうしよう」と呟き、助けを求めるように見上げてくる。

 どうしたことか、カイサへ人見知りしなくなってきたことが伝わってきた。


「多分大丈夫ですよ。私の妹も幼いころは父と結婚すると言っていましたが、今では父を鬱陶しく思っているくらいですから」

「えっ。お父さん可哀想」


 自分事のように悲しそうな表情になったヴィルを見て、また撫で回したい衝動に駆られる。


(どうしてこんなに愛くるしく感じるのだろう……?やっぱり中性的な見た目だから?)


 自分の感情が理解できずに考えていると、ヴィルが立ち上がって鞄を手に取る。


「それじゃあ午後からの往診に行ってくるね」

「え!?待ってください!」

「ん?」

「今午前の診察が終わったばかりですよ。そんなに時間が迫っているんですか?」

「時間は余裕あるけど」

「もしかして、私がいて落ち着かないからですか?」


 昨日に比べるとかなりカイサに慣れてきたように思うが、それでもまだまだ。

 時間があるのに休憩もせずに出かけようとするのは、外に出たほうがマシだと思うくらいに気まずいのかと思ってしまった。

 しかし、ヴィルは慌てたように手をパタパタさせて否定してくる。


「違うよ。街に出るついでに食器とか、必要なものを買ってこようかと思って。往診後に時間があるとは限らないから」


 この診療所はヴィルしか住んでいないので、布団や食器など一人分しかない。

 今朝、早めに買いに行かなければならないと話していたのだった。


「それなら、私も一緒に行きます。先生一人だと荷物を持ちきれないですよね」

「あ、そうだね。じゃあ――」

「とりあえず座ってください!急いでお昼ご飯を準備しますから、何か口に入れて行きましょう!」


 急いで作ったトマトとチーズのサンドイッチでランチにする。

 頬張ってすぐに笑みがこぼれるヴィルを見て、カイサの頬も緩む。

 テーブルを挟んで向かい合わせに座っているのにヴィルとはあまり目が合わないが、不思議と居心地がよかった。


 ◇


 カイサの手が掛かり、ヴィルの白い首筋から胸元までもが見えるほど服が引っ張られている。

 眉を下げ、泣きそうな顔で脱がされまいと抵抗するヴィル。


「やめてっ……!」

「昨日倒れたばかりですよ!?」

「大丈夫っ」

「今日の気温は昨日と変わらないんですからっ。外套は脱いでいきましょう!?」


 軽く昼食を済ませると布団などを買いに出発しようとした。

 のだが、ヴィルがまた外套を羽織るので、脱がそうとカイサは奮闘する。

 剣術を得意とするカイサは女性にしては力があるので、華奢なヴィルに負けるはずがないと思っていたが、思いのほか力強く抵抗されるのでムキになっていた。

 勢い余って中の服まで一緒に掴んで脱がそうとしていることに気づいていない。


「でも、これがないと落ち着かないんだもんっ」


 眉を下げて涙目になりながら上目遣いになるヴィル。

 直視したカイサは、漸く自分とヴィルの状況を客観的に見られた。

 押し倒す勢いで彼に迫り、ヴィルは追い詰められてテーブルの上に上半身を預けている。

 その上、はだけた服の隙間からは薄いが男性らしい胸筋を感じる胸元が顕わになっていた。

 一瞬、外套を引っ張る手が緩んだ。

 その隙に、ヴィルは素早く羽織直す。

 距離を取ったヴィルが初めに出掛けようとしたときよりもしっかりと前を合わせる様子を見て、カイサも諦めた。


「わかりました。でも、体調を見て暑そうならすぐに脱ぐって約束してください」

「……うん、わかった」


 絶対にわかってないと思いつつ、もたもたしているとあっという間に時間が過ぎてしまうため診療所を出た。


「ここ、素敵ですよね」


 診療所の周りは畑などがあって拓けているあるが、街へと続く道に出るには薄くツルが張ったトンネルの下をくぐならければならない。

 ツルの隙間からは木漏れ日が差し込み、所々ツルに小さな花も咲いている。

 まるで、おとぎ話に出てきそうな景色に、想像が膨らむ。

 このトンネルは妖精の住処に続いていそう――


「あっ、そうだ」


 カイサが心の中でメルヘンな想像をしていると、のんびりとした声が隣から聞こえてくる。

 視線を移すと、ブルーグレーのふわふわな髪や透き通るような白い肌に木漏れ日を受けて輝いている。


 このトンネルを抜けると妖精――ではないけど、妖精か精霊のような風貌の男性が住んでいる。

 ある意味、この場所にぴったりな人が住んでいるというだけで、カイサはなんだか嬉しくなった。


「って、聞いてる?」

「あ、すみません。なんですか?」

「診療所の裏の森は入らないようにしてね。森の中は特に出やすいから」


 森の中に魔獣が出やすいのは、どこの地域でも同じ。

 バベッド領でも森は危険とされていた。


「心得ています。でも、私はこれでも一応剣術が得意ですし、小型ですけど魔獣の討伐もしたことがありますよ」

「頼もしいけど、自分から近寄らないのが一番だから」

「先生がもしも対峙したときには呼んでくださいね。私が討伐しますから」

「……僕ってそんなに弱そうかなぁ」

「そうですね。か弱そうです」

「女の子に助けてもらわなきゃいけないほど弱くないと思うんだけどなぁ」


 力こぶを作るように腕を曲げたヴィルは、認めてほしそうにちらっとカイサを見る。

 人見知りらしい控えめなアピール。


「先生。残念ながら、外套で力こぶどころか腕の太さもよくわかりません」

「あっ……」


 ヴィルは自分でも腕を見て確認してから、所在なさげにプランと腕を下ろした。


「ふふっ」


 カイサが思わず笑ってしまうと、少し拗ねたように口を尖らせるヴィル。

 恥ずかしかったのかほんのり頬が赤く染っている。

 横目で見ながら、愛くるしい人だなぁと思う。

 カイサの生まれ育ったバベッド領は寒さも厳しく出没する魔獣も大型が多いせいか、無骨で勇ましい男性が多かった。

 こんなにも男の人を可愛いと感じるのは初めてのことだった。


 ◇


 往診が終わり、まだ買えていない布団などを買うため歩いていた二人だったが、ヴィルが小さな建物を指さした。


「あ、そうそう。手紙を出すならあそこに持っていくといいよ」

「手紙?」

「旅していたなら、ご家族とかに今どこにいるのか知らせるでしょ?」

「いえ。逐一居場所は知らせていません」


 ヴィルはぴたりと立ち止まる。

 どうしたのかと振り返ると、顔をまじまじと見られた。


「もしかして、家出じゃないよね?」

「違いますよ。諸事情で正式に家を出ることになったんです。その後、家に戻れるようになったけど、ちょっと旅してみようかと」


 家族へは、「暫く旅に出るけど心配しないで。たまに手紙を書きます」とだけ書いて送った。

 一方的な内容でも、相続した遺産の半分も送ったので躍起になって探されることはないと考えている。


「旅を始めてから一度だけ、生存報告がてら送りましたけど、そのときも場所が特定されることは書きませんでしたし」

「どうして?何かから逃げてるの?」

「逃げている訳では。自由に生きたいと思っただけです」


 意外にも、ヴィルは興味をなくしたようにまた歩き出す。


「ふぅん、そう。そういうこともあるよね」


 ヴィルは追及することなく肯定する。

 若い女性の一人旅はまだ一般的ではないため、この三ヶ月間一人旅だと言うと必ず理由を聞かれてきた。


「理由を聞かないんですか?」

「聞いてほしいの?」

「聞いてほしくないですが、一人旅をしていると必ず理由を聞かれていたので」


 カイサと目が合った彼はふと微笑む。


「話したくないことくらい誰にでもあるよ」


 それはヴィルにも話したくないことがあるということ。

 少し影を感じて、彼の顔をジッと見る。

 言い方がおかしいかもしれないが、ヴィルがぐっと大人びて感じた。


「ん?どうかした?」

「そういえば先生ってお幾つなんですか?」

「僕は二十三だけど」

「…………へぇ」

「ん?どうしたの?」


 ふわふわとした髪や透き通るような白い肌に、のんびりとした口調とどこか浮世離れした雰囲気のヴィル。

 見た目や言動からは十七歳のカイサより年下にも見えるが、医者をしていることを考えたら確実に年上であることはわかっている。

 さらに、不動産屋さんのおばさんの息子の治療をした話などを聞くと、結構年上の可能性もあると思っていた。


「思っていたよりは若いんだなって思いました」

「えっ、そう?僕って老けて見える?」


 頬を自分の手でつまみ、ムニムニと動かすヴィル。

 なんだか嬉しそうな表情をしている。


「見た目だけなら私より年下の可能性もあると思っていましたけど」

「う、うーん。そんなに若く?」


 ヴィルの今の反応や先ほど「家出」という言葉が出てきたことから、カイサは実年齢よりも幼く見られていることに気づいた。

 カイサは小柄で童顔のため、実年齢よりも幼く見られがちだった。


「私、十七ですよ」

「うん」


 この国の成人年齢は十六歳なのでカイサも立派な成人である。

 が、ヴィルの反応から、年相応に見られていたことがわかる。

 あえて年齢を言ったのが自意識過剰のような発言だったと恥ずかしくなってきた。


「あとは布団を買うだけですね。布団屋さんはまだ遠いんですか?」

「……どうだろう?」

「どうだろうって、場所を知らないんですか?迷いなく歩いているから知ってると思ってたのに。先生もこの街に越してきて浅いんですか?」

「七年……ん?八年?かな?」


 指を折って数えているが、首を傾げだした。


「とりあえずまだ十年は経ってないよ」

「でも、十年近くは住んでいるのですよね」

「う、うん。中心街にあるのは確かなんだけど。あ。あの人に聞いてみようか」


 それなのに布団屋の場所がわからないのか?と思っているのが伝わったのか、恥ずかしそうにしたヴィルは誤魔化すように通行人に話しかけに行こうとする。

 その時、路地から叫び声が聞こえた。


「今の声って」


 悲鳴のように聞こえた二人は顔を見合せる。

 先に動いたのはヴィルだった。

 カイサも後を追ってすぐに路地へと向かう。


 細い路地に入ってすぐに尻もちをついている若い女性がいた。

 他に人はいない。

 カイサはすぐに女性に駆け寄る。


「大丈夫ですか?どうしたんですか?」

「あ、あれ……」


 女性が顔を背けたまま建物の壁を指さす。

 ただの影のようにも見えるが、人の顔の大きさほどの黒い何かが壁に張り付いているようだった。

 建物と建物の間の細い路地のため、昼間なのに薄暗くてよく見えない。


「何あれ?」


 カイサは見たことのないものだったのでよく目を凝らすと、その何かが動いた気がした。

 さらによく見ようと身を乗り出すと、黒い何かに目があることに気づいた。

 目が合ったと思った瞬間、カイサに向かって飛んでくる。


「っ!?」

「離れて!」


 ヴィルの声がすると同時に閃光が走る。

 閃光が収まると、二人の前にヴィルが立ち塞がっていた。


「……せん、せい?」

「もう大丈夫だよ」


 振り返ったヴィルはいつもどおりの表情をしている。

 しかし、ヴィルの足の間から見える道の先には、黒い何かが落ちていた。

 黒くて艶があり足のようなものも見えるそれは、巨大な甲虫に見える。


「む……虫?」

「魔虫だよ」

「ま、ちゅう……?」

「あ、そっか。北部には生息していないもんね。魔獣の虫版ってとこ」

「……そんなものがいるんですね……」


 ぼんやりとした返答しかしないカイサの顔をジッと見るヴィル。


「驚いたのかな。魔虫は温暖な地方の森に生息しているんだけど、稀に街中にもでるから気を付けて。絶対に目を合わせたらだめだし、目が合ってしまったらゆっくりと後退するんだ。絶対に目を合わせたまま前進してはいけない」

「……あれ、先生が討伐されたのですよね?」

「んっ?んー……」


 ヴィルは誤魔化そうとしているが、閃光に目を細めてもカイサにはしっかり見えていた。

 目の前にヴィルの外套が見えたと思ったら、翳した手から閃光を放たれた。

 術式の描かれた魔術石や魔術道具を使うのではなく、手から直接閃光を放ったのだ。

 それは魔虫の気持ち悪さを忘れてしまうほど、カイサにとって目を疑う信じられない光景だった。


 ――国民の多くが魔術師と呼ぶ人には、実は二種類いる。

 魔術師と魔法師。

 どちらも適性がないと務まらないのだが、魔術石や魔術道具などを駆使する人を魔術師、石や道具を使わずとも己の内なる力だけで魔術を使える人を魔法師。国の中枢ではそう区別されている。

 魔法師はこの国に数えられるくらいしかいなく、もれなく王都で国の仕事に従事している。

 魔術陣の研究や魔術道具の開発など、魔術師の仕事だと思われていることの中には魔法師しかできない仕事がたくさんある。

 魔術師は公募されていて、筆記や実技の試験に受かれば誰でもなれる職業なのに対し、魔法師は違う。

 常に人知れず捜索隊が全国を巡り、魔法師の才を持つ者を探している。

 病気や高齢などで魔法師として働けなくなった者であっても、その居場所は常に把握されている。

 と、カイサは妃教育で習った。


 しかし、現在一人だけ所在が把握できていない者がいる。

 それは歴代最高と謳われた天才魔法師。


 天才はある日突然、失踪した。

 内々に戻るよう暗号を出したり、必死に捜索したりしたが一向に見つからない。

 失踪から三年経ったとき、その天才魔法師は危険分子と判断され、生死を問わず討伐対象として登録された。


 十年前に大魔獣を発生させて国を混乱させた犯人も魔法師だった。その魔法師もある日突然失踪した後、事件を起こした。

 だから、捜索隊は魔法師の才を持つ者を探しつつ、失踪した魔法師のことも探している――


「どうして、ここに……?」

「ん?」

「いえ……。もう、帰りませんか……?」


 すぐに問いただしたかったが、街中で話すことはできない。

 どこに捜索隊がいるかわからないのだから。


 ◇


 台所のあちこちの扉が開けっ放しにされ、ガシャガシャン!と使わない鍋が大きな音を立てて床に落ち、パラパラと茶葉が舞う。

 魔虫の出現から様子がおかしくなったカイサを気遣い、今はヴィルがお茶を淹れようとしている。

 その様子をぼーっと見ながら、だから部屋が散らかるのだな……と冷静に考えていた。


「お待たせ。きっと心が休まるから、飲んで」


 口に含むと不思議な風味がして、反射的にカイサの眉間にしわが入る。

 昨日と今日、カイサが同じ茶葉を使って淹れたときにはこんな味ではなかった。

 まさか、ヴィルの正体に気づいたことが気づかれ、消そうと薬を盛ったのか……そんな考えが頭をよぎり緊張してしまう。


「薬草も混ぜて煮出したからやっぱり美味しくないね」


 彼は自分でもカイサに出したお茶をカップに入れて飲んだ。

 それを見て、消そうとしているなんて考えは杞憂だったのだと息を吐く。


「不味いけどゆっくりでいいから飲んで。心を落ち着かせる効能があるから」

「……ありがとうございます」


 カイサはついさっきまでどう切り出すべきか迷っていた。

 どうしてこんな所にいるのか、どうして突然失踪したのか。

 気づかれたらどうするのか……。

 いろいろと聞きたいと思っていたが、ヴィルの思いやりに触れ、気持ちが変わり始めた。


『話したくないことくらい誰にでもあるよ』と言ったのは、そういうことなのだろう。

 いつか、自分から話してくれるまで待とうか……そんな気持ちになった。


 目の前で心配そうな顔をしている彼は、約十年前に失踪したとされる天才魔法師なのだ

 だろう。

 有事のとき以外は許可なく王都から出られない魔法師の才を持つ者が南端の街で医者をしている時点で、ヴィルが失踪した魔法師であることを証明している。


 それでも信じられない気持ちもあり、改めてヴィルや室内を観察するように見てしまう。

 魔術道具の数々が目に入る。

 一人で生活しているから見たこともない便利な道具や治療に使う専門の魔術道具がいっぱいあるのだろうと思っていたが、きっと彼が作り出した道具だったということ。


 妃教育中に国の英雄に関する資料は穴があくほど読み込んだ。

 彼も、カイサの憧れの一人だった。


 十年前の失踪当時、年齢は十三歳。

 左利きで、儚い風貌のシャイな美少年。

 その天才魔法師の名前はヴィルベルト。

 十歳のときから魔法師として従事する。

 失踪するまでの僅か三年で、今世間に流通している数多ある生活用品魔術道具を生み出し、魔獣討伐に役立つ術式も作り出した。

 十年前に国を混乱に陥らせた大魔獣出現事件は、彼の行方不明になった父が引き起こした事件だった。

 国は彼に父親が犯人であることを告げずに討伐に参加させ、彼に実の父を討たせた。

 失踪するまでの記録からは、善良な子供であることが窺えた。

 そして今、カイサの目の前にいる彼も、善良な一市民に見える。

 十年前の犯人――彼の父のような事件を起こすとは思えない。

 彼の素性を確かめるのは、自分の興味関心を満たすため。

 そんなことのために聞けば、彼の心の傷を抉りかねない。


「魔虫にはびっくりしたよね。……大丈夫?」

「落ち着きました。お茶、ありがとうございました」


 カイサが笑顔を見せると、ヴィルはホッとした顔をする。


「よかった。魔虫は森とか、今日のような暗い路地にいかなければ滅多に遭遇しないから、気をつければ大丈夫だよ」

「はい。わかりました」

「布団はまた明日買いに行こう。とりあえず今日はまた僕のベッドを使って」

「あ、いえ。屋根裏部屋という立派な私室をもらえたので、今日から私は自分の部屋で寝ます」

「でも、布団がないよ」

「先生は昨夜患者さん用の布団を掛けて寝たんですよね?今晩は私が借りてもいいですか?」

「うん。わかった。それじゃあ上に運んでおくね。この荷物も一緒に」


 往診前に買っていたカイサ用の荷物と患者用の布団を抱えて部屋を出て行こうとするヴィル。

 一気に持って行こうとしているので、抱えた布団が周囲の物を引っかけてなぎ倒していく。

 パタン、ガタッ、ゴトンッ。

 一つ物が倒れるごとに「ん?何?」と振り返るが、本人には見えていないらしく被害が拡大していく。


「先生、ストップ!」

「ん?どうしたの?」


 止まれと言っているのにまだ振り返ろうとして、布団に水差しが引っかかる。

 カイサの目にはゆっくりと傾いていく水差しが映っている。

 パシャ……と音がしてカイサの手は濡れたが、間一髪水差しが割れるのは免れた。


「ふぅ。危なかった」

「あぁっ、ごめん……」

「もぅ。この辺はまだ片付けていないんですから、気をつけてください」

「うん。ごめん」

「私はここを片付けるので、布団を屋根裏部屋へお願いできますか?」

「うん、任せて」


 物を倒しながらも一生懸命運ぶヴィルの後ろ姿を見ていて、彼の平穏を壊したくないと思ってしまった。


「私が守ってあげなきゃ」

「んっ?何か言った??」

「あー!ストップ!また倒す!何でもないのでまっすぐ進んでください」

「はぁい」


 ヴィルが捜索隊に見つからないように、陰ながら守ろうと決めた――――



 ◆◇◆



 ヴィルベルトは十歳になる直前に才能があると言われて城に連れてこられた。

 幼い頃から母と二人で貧しい暮らしをしていたが、突然天才魔法師と持て囃された。

 母に楽な暮らしをさせてあげられることは良かったが、褒めそやしはしても何かを隠している周囲の人間が自分を都合よく使おうとしていることに気づき、次第に信じられなくなっていく。

 そんなときに発生した魔獣出現事件。

 運悪く、母も魔獣の犠牲になった。

 犯人は行方不明になっている魔法師だとしか教えられていなかったが、母の敵を討つことができて少しだけ悲しみが紛れた気がした。

 しかし、後に犯人は自分の血の繋がっている父だと教えられた。

 父のことは母から何も聞かされていないし、顔も知らなかった。

 だから、悲しみや怒りに暮れるようなことはなかったが、ますます人間が信じられなくなった。


 何もかもが嫌になり逃げ出した。

 周囲の人間は突然失踪したと思ったようだが、本人としては熟考のうえだった。

 十三歳なりに、考えうる限りの準備も一人で進めた。

 どこにいても見られるような監視鏡という魔術道具を作り出し、それを魔法省や王城に仕掛けたりした。


 雲隠れするならどこがいいかと考えたときに思い浮かんだのは、一度任務で訪れたことのある南端の街。

 温暖で穏やかな気候とのんびりしていて開放的な雰囲気が気に入った。

 港があるので万が一国を脱出しなければならなくなっても、すぐに行動できる点も良い。

 しばらく身を隠すためには森の奥に隠れ住むのがいいだろうが、そうなると生活が不便になる。

 その街は海沿いに横長で中心部と森が近いことも、ヴィルベルトにとっては生活がしやすそうで良かった。

 ただ、すぐにこの診療所をひらいたわけではない。

 初めの一年は城の様子などを監視しながら国内を転々として、追っ手がどれくらいのものかを確かめた。


 魔法師の才を持つ者を見つけるための捜索隊は、特殊な魔術道具を使って判別している。

 だから、その魔術道具が反応しない術式を考え、特殊なシャツを作った。

 念の為、フードのついた外套も着た。

 何度か捜索隊の側や目の前を通ったが、シャツのお陰で捜索隊の魔術道具が反応することはなかった。


 魔法師の仕事から逃げた一年後、ヴィルベルトはお気に入りの街に診療所をひらいた。

 街に溶け込むためには仕事をしなければならなかったから。

 単純に薬草の知識には自信があったし、治癒魔法が得意だったから選んだ職業だった。

 技術さえあれば医者に年齢は関係ないので、問題ないと思っていた。

 王城では自分と同じ年齢くらいの魔法師が治癒魔法を使って王城の診療所で働いていたから。

 しかし、一つだけ誤算があり、一般人は治癒魔法を見たことがないことを失念していた。

 初めて見る治療法を恐れる人を見て、これではいけないと気づいた。

 そこで、医療用魔術道具を使って治療しているように見える道具を作った。


 初めは警戒されていたが、腕のいい医者がいると評判になり、忙しい毎日を送ることになる。

 患者たちから頼られ、世話を焼いてくれる人がいることに幸せを感じられるようになった。

 気づけばまた人を信じられるようになっていたのだ。


 そうして、忙しいが平穏な日々を送っていたある日、ヴィルベルトに不思議なことが起こった。

 忙しさにかまけて不摂生を舐めていると、暑さにフラフラしてしまう。

 これは危機的状況であることに気づいたときには遅かった。


 目覚めたら、少し前に亡くなった国王の最後の側室らしき女性が目の前にいた。

 監視鏡で見たことのある女性が自分の家に入り込んでいる。

 ヴィルベルトは咄嗟に見つかってしまったと思い、無意識に距離を取ろうとして診察台から落ちた。


 ◇


「嫌じゃなかったら僕のベッドを使って……」

「それなら、私は診察台をお借りしてもいいですか。長椅子でもいいですけど」

「お、女の子をこんなところに寝かせられないから」


 ヴィルベルトは理由を付けてカイサを自室に押し込んだ。

「おやすみ……」と自室の扉を閉めるとすぐに外側から自室全体に結界を張った。

 そして、監視鏡で自室内を確認する。


 まだ若い女性をこうして見張ることには人として少し抵抗もあるが、構っていられない事態になっている。

 しかし、彼女が誰かと通じる様子も不自然な動きも見られなかった。

 あまりに普通すぎて、監視していることに罪悪感が強くなり、すぐに監視鏡に張り付いているのはやめた。


 彼女の婚姻期間は一ヶ月程だったと記憶しているが、先王の側室ともなれば仰々しく扱われる。

 それは王が崩御したとて変わらず、王宮から出ても専用の屋敷や使用人を与えられるはず。

 少なくとも、こんな国の南端にある小さな街に一人で現れるなどあり得ない地位を保つ。


 しかし、彼女の纏う雰囲気に高貴さは感じられない。

 ヴィルベルトは魔法師として働いていたとき、王妃や何人かの側室と直接接したが、カイサはそのどれとも違うように思えた。

 それもそのはずで、カイサが選ばれた理由は多産の家系であるというだけ。家格や教養、容姿などを度外視した人選だったのだが、ヴィルベルトはそこまで把握できていなかった。


「もしかして……」


 いつの間にか居場所を特定されていて、油断させるためにカイサを送り込んできた可能性に気付く。

 この国では王妃も側室も、ただ国王に侍るだけではない。何かしらの役割を与えられていた。

 ある側室は情報収集能力を買われて晩餐会にゲストの一人として参加していたし、また別の側室は外国語に秀でていたため通訳を担っていた。

 それぞれに独立した宮を与えて側室同士を含め、外部との交流を極端に遮断していたため、国王に近いものだと気付かれることなく、彼女らは任務を遂行できていた。


 カイサの高貴すぎず庶民的過ぎない雰囲気は、まさに油断させるためのように思えた。

 ヴィルベルトは周囲を見渡した後、瞳を閉じて神経を集中させる。

 付近に感じられるのは、森の中の生き物の気配と診療所内のカイサだけ。

 他の命――捜索隊や他の魔法師の気配はない。


 無意識に詰めていた息を吐くと、監視鏡に視線を落とす。

 そこにはベッドに横たわるカイサの姿がある。

 無感情に監視鏡を見ていたヴィルベルトだったが、次第に唇がふよふよと震え出す。


「……ふはっ。子供みたいな寝相だなぁ」


 あまりに無防備すぎるカイサの寝姿に、ヴィルベルトの顔が自然と緩む。

 監視鏡をそっと伏せると診察台に横になった。


 彼女への疑惑が完全にはれることはなかったが、彼女への警戒心が薄れるのは早かった。

 彼女が働き始めた初日、忙しい午前中が終わると彼女がこんなことを言った。

「ご飯を食べる暇がなさそうなら、今度から早めに受付を終了しましょうか?」


 ヴィルはせっかく頼って来てくれる患者たちを追い返すことはしたくないと伝えた。


「それなら忙しすぎる日のお昼はサンドイッチとか作りますね。僅かな合間でも口に入れられるし、往診に向かいながらでも食べられますから。歩きながらなんてお行儀は悪いですけどね」


 笑いながら言う彼女は、「他には何が食べやすいだろう?スティックサラダとか?もらい物に芋が多いならフライドポテトとかもいいかなぁ」とぶつぶつ声に出して考え始めた。

 この街で出会った人たちと同じで、彼女から嘘は感じられない。

 素直に思うまま行動しているように見えるし、善良で思いやりのある人だと伝わってくる。


 とはいえ、出会って一日、二日で警戒を解くほど愚かではない。

 魔法師の力は隠し通す――そのつもりだったのに、彼女の目の前で魔法を使ってしまった。

 カイサが魔虫と目を合わせて近づこうとするなんて思わず、咄嗟の行動だった。


 彼女から伝わってくる緊張感から、ヴィルベルトの素性に勘づいたことがわかる。

 それはつまり、彼女がここに来たのは本当に偶然だったということ。


 元側室として、魔術師と魔法師の違いや失踪中のヴィルベルトの情報も知っているはず。

 彼女の緊張感がそれを物語っている。

 それなのに、彼女は何も聞いてこない。

 聞かれたところで誤魔化し通すつもりだったし、通報しようとしようものなら魔法で記憶を消して放逐するつもりだった。

 しかし、聞かれなければ聞かれないで落ち着かないものだと知った。


 いつ聞いてくるのかと思いつつ、日々が過ぎていく。

 聞かれないならそれでもまぁいいかと思うようになっていったある日、カイサの行動におかしな点があることに気付いた。

 それは往診で街へ出たときに見られた。


「あー!先生!先生っ!」


 半歩後ろを歩いていたカイサが小声で焦ったように呼んできた。

 振り返ると、何やら店のショーウィンドウを覗くように手招きしている。


「どうしたの?」

「見てください。これ!」


 それは何の変哲もない仕掛け絵本が見開きの状態で飾られているだけだった。

 これがなんなのかと思ったヴィルベルトがカイサの顔を見ると、カイサはチラチラと明後日の方向を見ている。

 カイサの視線の先を追ってみると、道の向こう側に捜索隊がいたのである。

 例のシャツを着て、更に外套も羽織っているヴィルベルトに、捜索隊が気付く様子はまったくない。


「ほら、先生見て!ほらほらっ」

「……うん。見てるよ」


 どうやら捜索隊に見つからないようにしてくれているらしい。

 ヴィルは彼女に付き合って、しばらく何の変哲もない仕掛け絵本を見続けた。


「この絵本が気に入ったなら、買おうか?」

「え?……あ、いえ。ちょっと気になっただけなので」

「そう?それじゃあ、久しぶりにケーキを買って帰ろうか」

「え!ケーキ?やったぁ」


 素直に喜ぶ彼女を、ヴィルは優しい眼差しで見つめるのだった。



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