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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第七章 その5

夜が明けた。

霧が山肌を這い、風のない朝が訪れる。

風守社の境内は、まるで時間が止まったように沈黙していた。


警察と役所の人間が現場に入り、

誰もが口を閉ざしたまま、あらかじめ決められた筋書きの通りに動いている。

少女は担架に乗せられ、遠ざかっていった。

その背を見つめる入生田の肩を、龍城が静かに掴んだ。


「まだ真実を知らせたいか?」


その声は低く、霧の底から響くようだった。

入生田は思わず息を呑む。

何かを言い返そうとしたが、龍城はもう霧の中へ進んでいた。

霧の向こう、朱の社を朝日が淡く照らしていく。



数日後。

市役所の一室。

茶渋のついた湯呑、灰皿に燻ぶる煙草。

上司は報告書に目も通さず、面倒くさそうに言った。


「文化財課が怪談なんぞ書いてどうする。

上に出せるか、こんなもん」


入生田は唇を噛みしめた。

それでも諦めきれず、新聞社や週刊誌を訪ね歩いた。

しかし、返ってくる答えはどこも同じだった。


「ああ、あれか。左翼の内ゲバだろ?もう終わった話さ」


打ち合わせ机の上で、彼の報告書は紙屑のように扱われた。

伝えようとした言葉が、指の間から零れ落ちていく。



夜。

資料館の倉庫。

薄暗い裸電球の下、埃の舞う中で入生田は封筒を見つめていた。

――捨ててしまおう。

そう思った。だが、手が動かない。


脳裏にあの時の言葉が蘇る。

霧の中、背を向けた龍城の声。


「まだ真実を知らせたいか?

…だが、皆が知ったところで対処できる問題か?」


「あんたらしくない物言いだな」

食い下がる入生田を振り返り、彼は鼻で笑いながら告げた。

「お前のように義憤に駆られる若い頃が、俺にもあった。ということさ」

――また頼む。もう少し動けるようにしておけ。

龍城の声は霧の向こうに消えて溶けていった。


あのときは、ただ冷たく聞こえた。

だが今は、少し違って聞こえる。

真実は、必ずしも公にすべきものではない――

その意味を、ようやく理解してしまった気がした。


入生田は報告書を封筒に戻し、棚の奥にそっと滑り込ませた。

灯りを消しながら、小さく呟く。


「朱の咎と思われる事案は、龍城に投げればいい。

俺風情に出来るのは、きっとそこまでさ」


扉を閉めると、古びた金具が鈍く鳴った。

倉庫の空気が少し震え、埃がゆっくりと舞い上がる。

遠く、山の方から一度だけ風が渡った。

まるで誰かが息を吐くように、静かに。


入生田は足を止めた。

闇の中で、封筒の位置を確かめるように振り返る。

その顔に、かすかな笑みが浮かんだ。


「知らぬが仏、だな…」


呟きが、埃に紛れて消えていく。

裸電球の明かりが一度だけ揺れ、静寂が戻った。


「…少しばかり肝が冷えたな」


その声は小さく、湿った空気に溶けていった。

やがて、倉庫の中は本来の闇に包まれる。

残されたのは、風のない静かな夜だけだった。


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