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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第七章 その4

空気がまだ震えていた。

耳の奥で、切り裂かれた音が遅れて響く。

社の奥は血と風の残り香で満ち、あらゆる音が遠くに沈んでいた。


入生田は手帳を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。

足元には、もう動かない学生たち。

誰の血が誰のものかもわからない。

現実感がない。夢のようだ。


その中央に少女。

肩を抱え、泣いている。

涙は出ていない。嗚咽のような呼吸だけが続く。

彼女の周囲の空気が、まだわずかに歪んでいた。


龍城が一歩、二歩と進み出る。

冷静で、恐れも迷いもない。

その動きには、覚悟があった。


「…人には過分な力だ。あれでは身体が保たん。」

低い声で呟き、入生田に視線を向ける。

「体勢を立て直したいところだが――お前を連れて安全に撤退できるとも思えんか。」


入生田は喉を鳴らすしかなかった。

問い返す暇もなく、少女が顔を上げた。

その瞳は朱く濁り、涙ではなく光を宿していた。


次の瞬間、風が逆巻いた。

見えない何かが龍城を薙ぎ、彼の身体が宙を舞う。

背後の祭壇に叩きつけられ、石が砕け散る。

粉塵とともに、何かが転がり出た。


古びた鞘。

錆びた儀礼刀だった。


龍城は呻きながらもそれを拾い上げる。

刀身は曇り、ところどころ錆びていた。

が、抜いた瞬間、空気が研ぎ澄まされる。

まるで刀身が燐光を放つかのようだった。


少女が叫ぶ。

「やめて! 来ないで!」

風が奔り、岩壁が裂けた。

龍城が踏み込み、錆びた刃を振り抜く。

鈍い光が走り、風が逆流した。


一瞬の閃光。

空気の歪みが、音もなく裂けた。


少女の身体が震え、糸が切れたように崩れ落ちる。

血は出ていない。

ただ、力が抜けたように倒れた。


静寂。

風の音だけが残る。


龍城は刀を地に突き立て、深く息をついた。

「…少しばかり肝が冷えたな」


入生田は膝をつき、震える声で漏らした。

「なんなんだこれ…あんたも…いったい…?」


龍城は視線を向けずに答えた。

「“朱の咎”。――聞いたことくらいはあるんじゃないか」


その名が空気を重くする。

伝承の中だけの言葉。

だが今、目の前の血と風がそれを証明していた。


龍城は刀を鞘に戻し、祭壇の欠片を拾い上げる。

「お前が見たものは、公表されない」

静かに言い切った。

「記録は残すがいい。だが報告書になどしたら――閑職行きがオチだろうな」


入生田は何も返せなかった。

ペンを握る手が震える。

自分が震えているのか、地面が揺れているのかもわからない。


龍城は一度だけ振り返り、薄く笑った。

「――それでも書くか?」


返事を待たず、彼は背を向けた。

社の外では、夜風がようやく動き始めていた。

血の匂いを薄めるように、冷たい風が流れていく。


入生田は震える手でペンを取った。

ペン先が紙を擦る。

インクが滲み、文字が震える。


――記録する。

それしか、できなかった。

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