第二幕 第七章 その3
社の周囲を吹き抜けていた風が、ふいに変わった。
落葉が逆巻く。
龍城がわずかに顔を上げ、低く呟いた。
「不味いな…社の奥に入ったか。」
言葉の意味を問う前に、彼は歩き出していた。
決して走ってはいない。
だが、速い。異様なほどに。
「待ってください!」
息を切らしながら追う。
走ってもいないのに――疾すぎる。
距離が詰まらない。
足音は静かなのに、存在が遠ざかる。
社殿の戸口をくぐった瞬間、胸の奥が詰まった。
中は暗く、湿った血と埃の匂いが混じっていた。
灯の代わりに、外の薄明かりが障子越しに揺れている。
土と古木の匂いが混ざり、息を吸うたびに喉の奥がざらついた。
奥へ進むと、床板が途切れ、そこから先は岩肌になっていた。
洞窟――いや、山そのものの内側だ。
地の底へ吸い込まれるような冷気が、足元から這い上がってくる。
足音が吸われる。呼吸の音が大きすぎる。
その奥に、ぽっかりと広い空間があった。
岩壁には古い注連縄が打ち付けられ、半ば朽ちて垂れている。
中央には供物台のような石が据えられ、その表面は黒ずみ、光を吸い込んでいた。
天井の割れ目から微かな光が射し込み、漂う塵を銀の雨のように照らしていた。
だが、いまそこは――血と混乱の匂いに塗れていた。
五人の学生たちは既に正気を失っていた。
虚空を見上げ、笑う者。
己の腕を掻きむしり、血に塗れる者。
壁を爪で引っかきながら、何かを叫ぶ者。
その声は、どれも言葉にならなかった。
音はあるのに、意味がなかった。
いや――意味を失っていた。
世界が、壊れかけたテープレコーダーのように、ずれた音を吐き出していた。
そして、その中心に――一人の少女がいた。
肩を抱え、怯えるように後ずさっている。
瞳が、焦点を結ばない。
まるで、見えない何かを恐れているようだった。
龍城が一歩、踏み出しかけて止まった。
低く息を吐く。
「…最悪の展開だ。」
その言葉の響きに、入生田の背筋が凍る。
まるで彼だけが、この異常を知っていたかのように。
少女が叫んだ。
「来ないで!」
腕を振り払う。
その瞬間、空気が裂けた。
音よりも早く、光が線を描く。
立て籠もっていた男のひとりが、叫ぶ間もなく崩れ落ちた。
肩から腕が斜めに裂け、血が霧のように舞う。
赤い粒子が光を受けてきらめく――美しく、吐き気を催すほどに。
「なっ――」
何が起きたのか理解できない。
ただ、空気が、見えない刃で裂けている。
少女がもう一度叫ぶ。
「こっちに来ないで!!」
風が唸る。
岩壁が切り裂かれ、破片が宙に舞った。
ひとり、またひとりと、血の筋を残して倒れる。
目に見えない“何か”が、空気を切り裂いていた。
そのたびに、社の奥が呻き声を上げるように低く鳴った。
入生田は本能的に身を伏せ、手帳を抱きしめた。
インクが滲む。手が震える。
視界の端で、龍城がわずかに目を細めた。
その瞳に、かすかな光が宿る。
――まるで、何かを見透かしているように。
静寂。
血の匂い。
少女の嗚咽。
岩の滴る音が、ゆっくりと空間に沁みていく。
――なんだ、これは。
その言葉は声にならず、
ただ心の奥で、震えのように響いた。




