第二幕 第七章 その2
昭和四十六年十月十一日。午後三時三十五分。
朱山山頂、風守社。天候、曇。風、強し。気温、十六度。
文化財課・入生田昭雄(記)。
万年筆のペン先が震え、紙に薄く汗が滲んだ。
湿った風が袖をはためかせ、ノートの端をめくる。
ここまで登るだけで、息が焼けるようだった。
――どうして俺なんだ。
数刻前の市役所。
茶渋のついた湯呑、灰皿には燻ぶった煙草。剥げかけた地図と短縮電話の一覧表。
課長は煙草を咥えたまま言った。
「風守社で学生が立て籠もってる。警察じゃ手を出せん。文化財だからな」
「…それを俺に?」
「若いだろ。動け」
そう言われれば、それで終いだった。
若いというだけで、何でも押し付けられる。
理不尽だとわかっていても、声を荒げたところで、結果が変わらないのも理解している。
それでも当時の自分は、まだ“記録すること”の意味を信じていた。
山道はぬかるみ、背中の革鞄が重い。
トランジスタ無線のノイズが途切れ途切れに鳴る。
地図は古く、道筋は少しずれている。
それでも脚を止めることはできなかった。
登山口で待っていたのは、この山の地権者――龍城武臣。
役所で働いていれば自然と憶える家系の主だ。
古い武家の家。大地主、工場経営、市長すら頭を下げる、言ってみれば朱山の領主。
外套の襟を立て、編み上げの革の長靴を履いていた。
年の頃は三十代だろうか、口元に薄く髭を蓄えている。
会釈しても反応はなく、歩幅だけが一定だった。
その足取りは若々しく、言葉を交わさずともただものではない気配を感じた。
ぬかるんだ山道を踏みしめながら、入生田が息を整えた。
「ところで、立て籠もってる連中は、どういう手合いなんです?」
前を歩く龍城は振り返らずに言った。
「所謂、学生運動だ。」
吐き捨てるような声音。
「世の中を変えたいと吠えるくせに、何ひとつ見えていない。
知恵足らずだな。バカだから自分の妄想に酔える。
――程度の低い連中だ。」
冷たい言葉だった。
だが、そこに怒りではなく、長い幻滅の色が滲んでいた。
少し間を置いて、龍城は静かに続けた。
「父はこんな連中をのさばらせるために出征したのかと思うと、反吐が出る。」
短い言葉のあと、風の音だけが残った。
それ以上、何も言えなかった。
入生田は黙ってその背を追う。
彼の歩幅は変わらない。
山の呼吸と一緒に、確かなリズムで続いていく。
山頂の鳥居が見えた。
黒ずんだ注連縄、苔のこびりついた石段。
誰もいないのに、空気がざわついている。
重要文化財のはずだが、その荒れ果てた姿は、まるで人の手を拒んでいるようだった。
だが、そこにあるだけで威圧感があった。
「ここに学生が?」
「五人。昨夜からな」
武臣は短く答えたきり、社の方を見据えていた。
入生田は無線を取り出し、通信を試みる。
応答はノイズばかりで、「…注意してくれ」とだけ聞こえた。
その直後だった。
風が、変わった。
地面の落ち葉がふわりと浮かび、上へ吸い込まれていく。
最初は上昇気流かと思った。
だが違う。空気が、下から押し上げられている。
まるで地の底で、何かが息をしているようだった。
「…わかるか?」
武臣の低い声。
意味を問う前に、風が止んだ。
音が、消えた。
木のざわめきも、鳥の声も、葉の擦れる音もない。
ただ、耳鳴りのような沈黙だけが残った。
鼓動の音がやけに大きく響く。
何秒、あるいは一分だったのか。
再び風が戻ったとき、頬が冷たかった。
武臣は鳥居を見上げたまま、動かない。
その背中が、妙に遠く感じられた。
「もう少し近づくぞ」
短くそう言い、彼は歩き出した。
入生田は手帳を閉じ、胸ポケットにしまう。
汗で湿った指を見つめ、ふと考えた。
――現実を記すって、なんだろうか。
その沈黙が、胸の奥に残った。




