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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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88/107

第二幕 第六章 その1

昼下がり、庁舎裏の喫煙所。

雨上がりの湿気が残り、アスファルトがまだ鈍く光っている。

入生田昭雄いりゅうだ あきおは柱に背を預け、胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出した。

ネクタイはゆるみ、シャツは少し皺だらけ。

だが、そのスーツはよく見ると上質な生地で、

手首に光る時計は有名ブランドのものだ。


それをまるで安物のように着崩して、

灰皿の前で煙をくゆらせながら、

手帳を片手にぼんやりと空を見上げている。


「入生田さん、手帳なんか真面目に見て、仕事詰まってんの?」

喫煙所に入って来た若手の職員達は、物珍しげに彼に話しかけた。

「んにゃ。これ地図だよ」

「地図?何してんすか、今さら」

「暇つぶし…。雨の日はタバコが美味しくないねぇ」

「天気で味変わらないっしょ」

「いやぁ、君も年取るとわかるよ?違うんだなぁ、これが」


若手職員は苦笑いを浮かべる。

入生田の手帳には市の地図が貼られ、

赤いボールペンでいくつもの小さな印が書き込まれている。


「へぇ…?ん、その地図の印は?」

「俺は文化財係だよ?文化財の位置に決まってんでしょうがキミィ」

「うわー、入生田さんらしからぬ答え!」

「いやいや、手を抜くためには覚えとくと楽なのよ」

「流石っ!期待を裏切りませんねぇ」

「んはははは!」


入生田は笑いながら、フィルターを灰皿の縁でねじ潰し、ふと手首の時計を見やる。

まるでその重さを確かめるように。


「さて、小便して仕事戻るとしますかね…」


後ろ手にひらひらと手を振り、

のんびりとした足取りで庁舎の影に消えていった。


若手たちは顔を見合わせて、同時にため息をつく。

「…あの人、定年まであの調子なんだろうな」

「てか、もう定年近いんじゃね?」

「いや、あの人は“定年にならなそう”な顔してるよ」


雨上がりの湿った風を背に、入生田は庁舎へ戻った。

タバコの匂いがまだジャケットの裾に残る。

エレベーターホールを抜けて文化財課のドアを開けると、

そこには腕を組んで待ち構える女性の姿。

板橋沙織(板橋 さおり)

今年新卒入庁して総務部庶務課に配属された新人だ。


「……おかえりなさい、入生田主任」

「おお、板橋くん。玄関の番でもしてた?」

「ええ。主任が“またサボってる”って庶務の上司が」

「ひどいなぁ。俺はね、肺活量のメンテナンスをしてただけだよ」

「健康に悪いメンテナンスですね」


沙織はため息をつき、書類の束を掲げた。

「これ、確認お願いします」

「ああ、それ?見たよ」

「見ただけじゃダメです。押印してください」

「押したつもりなんだけどなあ」

「つもりじゃ経理は通りません」


入生田は肩をすくめ、朱肉を手に取る。

シャツの袖をまくると、手首の銀時計がちらりと光った。

「…経理って、情がないよねぇ」

「ルールです」


判を押して満足げに頷く入生田。

「ほら、これで問題ない」

「あの、日付、昭和ですけど」

「懐かしいなあ」

「懐かしくないです!」


沙織はつい声を張り上げ、

周囲の職員がくすりと笑った。沙織は顔を赤らめながら小声で尋ねる。

「本当に主任、どうして昇進しないんですか?」

「俺が出世なんかしてみろ。苦労増えるのは皆だぞ。だから我慢してんだ。謙虚だろ?」

「皮肉ですか?」

「いや、褒めてほしいだけ」

「…はいはい、もう結構です」


沙織が机を片づけようとすると、

入生田が資料を数枚ずらして言った。

「あー、それ触らないで。あとで使うんだ」

「こんな紙の山、いつ使うんです?」

「そのうち。たぶん」

「…たぶんで仕事しないでください」

「役所って“たぶん”で回ってるんだよ。知らなかった?」

「知りません!適当なことばかり…」


沙織が去ると、入生田は椅子に沈み込み、

ペンをくるくると回した。

デスクの隅には、赤い印がいくつもつけられた市の地図。


「…眠いねぇ」


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