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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第五章 その4

蔵を出た二人は、資料館に戻っていた。

夕暮れの光が窓の外で朱に変わり、静かな気配が館の中に満ちている。

香織は机の上に並べられた古文書を指でつつきながら、口を尖らせた。


「うーん、やっぱわかんないっすね。“風を喰らう”の先が全部途切れてる」


「…記録はここで止まってるの」

美音は小さく頷いた。

「でも、見て。昭和十七年に“風を喰らう”、十九年に“その口はまだ開かず”。

 二年間――風は閉じ込められたままだったのよ」


「まさか、二年間ずっと?」

香織が目を丸くする。


美音は机の端に積まれた封筒を手に取った。

「これ……倉庫の奥から出てきたの。入生田さんが昔まとめてた資料みたいね。

 中に、和田河原正春の手記があるわ」


「入生田さん?って、あの入生田さんが?」

香織の声には、信じられないという色があった。


美音は小さく微笑んだ。

「そうね。でも…あの人にだって、若くて情熱的だった時期もきっとあったのよ。

 その頃にこの資料を集めていたんでしょうね」


封を開けると、黄ばんだ紙とともに、靖国神社のお札が一枚。

裏には掠れた筆跡でこう記されていた。


「祖国の危急にありて戦にも征けぬこの身なれど、せめて郷土を護る風とならん。

風、嵐となりて――」



香織が小さく息を呑む。

「これ…どういう意味っすか?」


美音はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「これ…国を守るために“なにか”をしようと決意していたのね。

 そのために恐らく、風を蓄えていたのよ」


「風を…?」


「ええ。祈りなのか呪いなのかはわからない。

 けれど、風を操る祈り――“風祈かざのり”。

 この地に伝わっていた古い術式よ。もし和田河原家がその一族だったなら、不思議じゃないわ。

 ただ、彼の命が尽きたとき、風は返されず、この地だけが無風になった」


香織は黙ったまま、机の上の小さな風鈴を見つめた。

色褪せたガラス、細い金属の輪。

短冊がわずかに揺れて、かすかな音を立てた。


美音は手を伸ばし、その風鈴をそっと揺らした。

「風を感じるためのものが、風を閉じ込めていたなんて――皮肉ね」


リィン――。


小さな音が響き、空気が震えた。

美音の髪がふわりと持ち上がり、窓の外で木々がざわめく。

止まっていた風が、まるで眠りから覚めたように流れ始める。

それはときに美音の身体をすり抜けるように、ときに彼女と戯れるかのようにその周りを優しく舞う。


「…今の、風?」

香織が小さく呟く。


美音は微笑み、窓の向こうを見上げた。

「自由になれたのね」


風鈴がもう一度、鳴った。

その音は短く、けれどどこまでも澄んでいた。


美音は目を細め、静かに言った。

「風はただ流れるもの。留まっていたら――風とは言えないものね」


風は静かに通り抜けていった。

それは祈りでも呪いでもなく、

ただ、流れるべきものがようやく流れ出しただけだった。

窓の外、朱山の稜線を撫でる風が、夕陽をきらりと揺らした。

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