第二幕 第五章 その3
「はい、はい。うん、現地にはもう着いてる。…あ、来たみたい。そ、このあと地権者と待ち合わせてるのよ。うん、またあとでね」
美音はガラケーを閉じると、ふっと笑みを浮かべた。
「翔流くんの定時連絡。…ふふ、大学のくせに心配してくれるのね」
「やっぱマメっすねぇ、翔流にぃ」
香織が笑いながら肩をすくめる。
そのあっけらかんとした声に、美音も思わず吹き出した。
朱山の麓、和田河原家の屋敷跡。
取り壊しの足場が組まれ、庭の木々は枝を落とされている。
それでも、どこか人の気配が残っているように感じた。
白髪をきっちり束ね、薄いベージュの上着を羽織った老婦人――和田河原トヨは、
小さな手で鍵を取り出しながら静かに言った。
「蔵だけは昔のままなの。中に何か残っているかもしれないわ」
軋む音を立てて蔵の戸を開ける。
むっとした熱気が肌を撫でたが、次の瞬間、美音は息を呑んだ。
外では木の葉が揺れているのに、蔵の中だけ、風の気配が一切ない。
「…変ね」
思わず呟くと、後ろで香織が手で顔を扇ぎながら言った。
「ヤバいっす、美音さん!マジで風こないっす!サウナより熱いんだけど!」
「止まってるのね。…風が、ここを避けてるみたい」
「避けてる? そんなことある?」
「あるのよ、朱山では。昔から“風の通らない家は祟りを呼ぶ”って言うの」
香織は「出た、またそういうの~」と肩をすくめつつも、
どこか息苦しそうに胸を押さえた。
その指先がかすかに震えている。――咎がざわめいているのだろう。
美音は壁に近づき、貼られた札を見上げた。
「…鎮風」
「“鎮める風”? そんなのあるんすね」
「珍しいわね。普通は火とか水を鎮めるのに」
蔵の奥には、埃をかぶった帳簿が一冊残されていた。
美音が手袋をしてそっと開く。最後の頁に、墨の滲んだ文字が並んでいる。
昭和十七年 風を喰らう
その口はまだ開かず
「……これ」
美音は息を呑み、言葉を失う。
香織が覗き込みながら首をかしげた。
「“風を喰らう”? なんかバケモンみたいっすね」
美音は首を振り、帳簿の文字を指でなぞった。
「“風を喰らう”って、本来は人に使う言葉なのよ。
昔の文献では“風を受けて祈る巫”のことを、
“風を食む者”って呼んだ例があるわ。
つまり――この家の誰かが、“風”をその身に引き受けたのかもしれない」
「…それ、なんかヤバくないっすか」
香織が息を呑みつつも、ふと首をかしげた。
「そういや、美音ママも“風祭”っすけど、何か謂れあるんすか?」
美音は小さく笑った。
「ふふ、どうかしら。祖父が戦争で若くに亡くなってるから、家のことはあまりわからないのよ」
香織は一瞬、気まずそうに目を伏せた。
「…あ、すんません。そんな、つもりじゃ…」
「いいのよ」
美音はやわらかく微笑んだ。帳簿を閉じながら、静かに言葉を続ける。
「でも、朱山に“風を食む家”もあって、うちみたいな苗字もある。
みんな、朱山からの風を――特別に感じていたのかもね」
外で風鈴が、ひとつだけ澄んだ音を鳴らした。
その響きが、止まっていた空気をそっと解いた気がした。




