第二幕 第五章 その1
夏の午後、湿った風が朱山市郷土資料館の窓硝子をわずかに震わせていた。
館内は静かで、古びた時計の音だけが、遠く水の底で響くように聞こえる。
来館者は少なく、照りつける陽のせいで展示室の空気も少し重たかった。
受付カウンターの奥で、美音は寄贈資料の目録を書いていた。
昼下がりの単調な仕事に小さな欠伸をかみ殺していると、入口の扉が軋んだ音を立てて開く。
「ごめんくださいね」
柔らかい声とともに、老婦人が一人、紙袋を抱えて立っていた。
白髪をきちんと結い上げ、薄い藤色の着物を着ている。
その姿はどこか懐かしく、資料館に漂う空気とよく馴染んでいた。
「こんにちは。ようこそ、朱山市郷土資料館へ。学芸員の風祭です」
いつもの挨拶をし美音が立ち上がると、老婦人はゆっくり紙袋の口を開いた。
「これを引き取ってほしいの」
差し出されたのは、古びた箱だった。
墨で「風除け」と書かれた箱書きがあり、蓋を開けると、そこには小さな鉄製の風鈴が納まっていた。
金属特有の鈍い光を帯び、錆の跡が鈴の縁にまだらに残っている。
紐の先には、古い経文の切れ端のような短冊が吊られていた。
「ずいぶん古いものですね」
「ええ。朱山の麓にある実家が取り壊されるの。あの家では、昔から“風を封じる”って言ってたわ」
老婦人は少し遠くを見るような目をした。
美音は受領票を取り出しながら、軽く頷く。
「風を…封じる、ですか」
「そう。あの家の人間は、風を怖がっていたの。嵐も、山から吹く夜風も。
だからこの“風除け”を下げて、風を閉じ込めるって」
美音は静かに箱を受け取り、机の上にそっと置いた。
老婦人は深く頭を下げ、「これで少しは落ち着ける気がするの」と呟いて帰っていった。
残された箱の中の風鈴を見つめながら、美音は小さく息をつく。
「風を封じる…ね」
その響きには、どこか引っかかるものがあった。
だが職務として、彼女は手早く簡易目録をつけ、登録番号の札を添える。
仕事を終え、夕の日が館に入る頃には、いつものように香織が遊びに来る。
「こんにちはー、美音さん!」
元気な声が、静まり返った館に明るく響く。
香織がやって来ると、不思議と空気が軽くなる。
展示室の奥で二人が小さく笑い合う声がして、閉館間際までそんな穏やかな時間が流れた。
やがて、館内の灯が一つ、また一つと落ちていく。
夜の帳が下り、最後のスイッチを切ったとき、空調の音が止まり――静寂が訪れる。
その瞬間。
「……リィン……」
誰もいない展示室の奥から、かすかな鈴の音が響いた。
風のない夜だった。




