幕間 ―銀灰と少年の眼差し―
資料館の前に、エンジンの低い唸りが残っていた。
銀灰のボディが陽光を吸い込み、微かに鈍く輝く。翔流は運転席から降りると、誇らしげにボンネットを軽く叩いた。
「美音さん!みてみて!これ、知り合いのクルマ屋にまだあったんだ。新車だぜ!」
その顔は、少年のように無邪気だった。
一つ前の型、クールグレーメタリックのインプレッサは、彼の静かな情熱をそのまま形にしたように見えた。
美音は目を細め、微笑んだ。
「また派手なの選んだのねぇ。すごい羽根付いてるよ」
「えー!でもこれ、かっけぇっす!翔流にぃに似合ってるかも!」
隣で香織が身を乗り出すようにして車体を見上げる。翔流は嬉しそうに頷いた。
「うんうん、香織はわかってるねぇ」
「美音ママのミニも好きっすよ!屋根が開くとことか可愛いし。お菓子の箱みたいで好き!」
「あれもいいよな。スポーツモデルだし」
「え?そうなんすか?」
「え?そうなの?」
美音と香織の声が重なった。
翔流は肩をすくめ、少し得意げに笑う。
「まさかのオーナーが知らなかった展開かよ。あれはクーパーSって言って、スポーツグレードなんだよ」
「でも、オートマよ?」と美音。
「そりゃー今どきはオートマのスポーツモデルだって沢山あるさ」
「翔流にぃのはマニュアルみたいっすね」
香織がシフトノブを覗き込むようにして言う。
「これはスポーツというよりレースモデルだしなぁ。買ったとこ、昔バイトしとことある店なんだけどね。
ラリー用に新車未登録で買ったらしいけど、ラリーやるの止めてサーキットメインの店になって、倉庫に寝かしたままだったらしいよ」
美音は感心したように車を眺める。
「掘り出し物ね。…高かったんじゃないの?」
翔流は鼻をかきながら、少し照れくさそうに笑った。
「なんかね。このクルマ、お前が乗るのを待ってたんじゃないか?なんて言われてさ。めちゃくちゃ安くしてくれたんだ」
香織が助手席を覗きこみながら「うわー、シートかっこいい!」とはしゃぐ。
その横顔を、美音は静かに見つめていた。
翔流の頬には、久しぶりに年相応の表情が戻っていた。
それが嬉しくて、美音はそっと微笑む。
――あぁ、この子は、やっぱり此処に帰ってくるんだな。
「ほら、美音さんは助手席、香織は後ろに乗って。ちょっと走ろう」
翔流がそう言うと、香織はぱっと笑顔になって後部座席へ駆けこんだ。
美音は少し呆れたように肩をすくめながら、助手席に身を預ける。
「……あんまり飛ばさないでよ?」
「翔流にぃ!飛ばして!」
今度は真逆にハモった声が響く。翔流は苦笑しながらエンジンをかけた。
「まだナラシ中だから飛ばさないよ。ほら、ちょっと上の公園まで行って缶コーヒーでも飲んでこよう」
低い唸りとともに、インプレッサが滑るように発進する。
坂を上る風が三人の髪を揺らした。
シートに押し付けられるような加速Gを感じ、美音は慌てた声を上げた。
「ちょっ…ちょっと飛ばさないって言ったじゃない!」
「こんなの飛ばすうちに入らないさ」
助手席で美音が声を上げる一方、後ろの香織は笑い声を上げていた。
「この車速ーい!最高だよ、翔流にぃ!」
「はいはい、あんまり調子乗って飛ばすと美音ママが怒るから、これ以上は出さないよ」
ふと、美音が窓の外を見つめたまま小さく呟く。
「…こんなに飛ばしてるのに、全然揺れないのね」
「そりゃそうさ。なんたって腕がいいからね」
「やっぱ翔流にぃ、凄い!出来ないことは無いんすか?」
香織が目を輝かせる。翔流は少し考え、ハンドルを見つめたまま答えた。
「……。
…恋人……かな」
車内に、わずかな沈黙が落ち――
やや時間を開けて3人の笑い声が木霊した。
山の風が吹き抜け、銀灰のボディが陽を反射した。
まるで、三人の時間が少しだけ輝いて見えるように。




