幕間 ―朱山市郷土資料館の日常―
午後の郷土資料館。
展示室のテーブルには紅茶とクッキー、窓の外には朱山の紅葉。
香織は脚を組んで笑っていた。
「ねぇ美音ママ、“呪いの壺展”とかどうっすか? 絶対ウケるって!」
「香織ちゃん、それ展示したら私たちが呪われるわ」
「じゃ、“開けたら終わる箱”とか!」
「それ、もう展示するのに開けた時点で終わってるわね」
「えっ…会話の切れ味が容赦ねぇっす」
笑い声が溶けて、午後の光が揺れる。
今日も資料館は平和だった。
けれど、香織の何気ない一言が、その空気を変えた。
「…でもさ、あたしたちもいつか結婚とかして離れちゃうのかなー」
――カチャ。
美音の手が、カップの取っ手で止まった。
紅茶の表面に、波紋が広がる。
「……結婚、ねぇ」
穏やかな笑顔。けれど、香織は一瞬、息を呑んだ。
美音は笑顔のまま――しかし冷たく重い空気を放っていた。
まるで部屋の中を押し潰すかのように重く、その中で美音の背中の空気がわずかに揺らぐ――香織にはそう見えた気がした。
それはまるで“朱の咎”と対面したあの時のように。
「翔流くん?」
美音の声は穏やかだったがいつもよりも少し低く
「どこへ行くの?」
いつの間にか扉から出ようとする彼を咎める。香織にはいつ翔流が席を立ったのかすら気づかなかった。
「…え、あー。命の洗濯?」
「ふふ。戻ったら“干し方”を教えてあげるわ」
その笑顔のまま、空気がひどく冷えた。
翔流は何も言わず、そそくさと退散した。
「…え、美音ママ?あたし悪いこと言ったっすか?」
香織が震える声で尋ねると、美音は静かに微笑んだ。
「違うの。ただ、友達がね、次々結婚していくのよ。
わたしなんか、ちっともいい人と巡り合わないのに…」
その声は小さく、どこか泣きそうで。
香織は慌てて両手を振った。
「な、なに言ってるんすか! 美音ママめっちゃ綺麗だし、優しいし!
ていうか、それに気づかない世間が悪いっす!」
(と言うかここで半隠居みたいな仕事してるから仕方ない気もするけどこんなこと…言えないっす)
「ふふ…ありがと。励まされたわ」
微笑む美音の目に、ようやくわずかばかりの柔らかさが戻る。
夕方。
扉に付けてあるのベルが鳴り、翔流が戻ってきた。
手には小さな紙袋。
「…美音。これ」
見覚えのある可愛い紙袋の中には、レーズンサンド。
「前にここのが好きだって言ってたろ」
「…覚えててくれたの?」
「まぁね。甘いもん食べて気分転換しようぜ」
美音は少し驚き、少し照れて、そして笑った。
「ありがとう、翔流くん。やっぱり優しいよね」
「いや、ママが怖かっただけ」
「えへへ。…咎より怖い?」
「いや、それは比べるもんじゃないねぇ」
香織は、見る見ると笑顔が柔らかくなる美音と、とぼけたように笑う翔流の――その二人のやり取りを見ながら、心の中で呟いた。
――こんな気遣い達人のイケメンがそばにいるから、美音ママの恋愛基準が狂うんすよ。
やがて閉館時間も過ぎ、美音が資料館の鍵を掛けながら、声をかける。
「翔流くん、香織ちゃん、駅まで送るわよー」
翔流は即座に両手を振る。
「いやー、まだ命惜しいんで」
「え?美音ママ普通に運転上手いっすよ?」
「…マジかよ!成長したなぁ、美音さん」
「ちょっと翔流くん、それどういう意味?」
「いやいや!だって昔はこう…な?」
「“こう”ってなにかしら?」
「…命、惜しいんで」
香織が吹き出し、美音が可愛らしく頬を膨らませる。
秋の夜風が三人の笑い声をさらっていった。




