第二幕 第四章 その4
風が唸りを上げ、展示棚が次々に砕け散る。
翔流はその中心へと歩み出た。
切り裂かれた空気が頬をかすめ、ジャンパーの袖を裂く。
血が滲んでも、彼は止まらなかった。
「…つらいよな」
香織のすぐ傍で、翔流は小さく呟いた。
「こんな力が憑いたせいで、色々あったろ?」
低く温度を帯びた声だった。
彼はそのまま、風を切り裂くようにして香織の肩へ手を置く。
手の甲が裂け、血が滴る。だが、その傷はすぐに閉じていった。
「わかるよ。俺には。痛いほどね」
言葉以上に、その心が香織の中へと流れ込む。
咎の風が、少しずつ沈んでいく。
「でもな、これはただの力なんだ。お前についてきてるだけの、純粋な力だ」
翔流の声が、柔らかく空気を包む。
「気をしっかり持てば、お前の助けにもなる。――心当たり、あるだろ?」
香織の唇が震えた。
翔流の視線が優しく細められる。
「…あぁ、色々あったんだな。伝わってくるよ」
そして後ろにいる美音を振り返りながら
「ほら、いいよな。美音ってさ。一緒にいると安らぐ。帰る場所、みたいだよな」
香織の肩が小さく揺れ、焦点の定まらなかった瞳に光が戻る。
翔流は彼女の頬に軽く手を添えた。
「見ろよ。美音が待ってる。心配な顔、させたくないもんな」
咎の風が止んだ。
紙片がふわりと床に舞い落ち、館内を静寂が満たす。
翔流は小さく息を吐き、笑った。
「うん。もう大丈夫。お前も咎のこと、ちょっとはわかってきたみたいだな」
「翔流くん…本当にありがとう」
美音が胸に手を当て、ほっと息をついた。
「でも、どうしてここに?学校じゃ…?」
「え?インターン来るって通知行ってないの!?」
翔流が目を丸くする。
「え、それってあなたのことだったの!?“インターン生が来ますよ”は見たけど、誰が来るとかは書いてなかったもの」
「えー!?マジかよ。だって住所と電話番号まで聞かれたぜ?あの、ほら…役所のなんとかっていうオッサンに」
美音は肩を落として苦笑する。
「…ああ、文化財課の入生田さんね。ほんと、あの人の“なんとか”っぷりには困るわ」
「だよな。絶対俺のこと覚えてねぇだろ」
翔流が苦笑し、香織も小さく吹き出した。
静けさが戻ると、木の焦げた匂いと、ひびの入った壁が現実に引き戻す。
「…それより、資料館どうしましょう」
美音が辺りを見回す。
「これ、どのくらいあれば直せるかしら」
「ごめんなさい、美音さん。これ…なんて報告書上げたらいいっすかね」
香織が肩を落としながら言った。
翔流は腕を組み、少し考える仕草をしたあと、
「んー…美音さん。じゃあ壱万円」
「え?」
「明日には直しとくよ。材料費ね、壱万円ぽっきり」
彼はニカっと笑いながら人差し指を立てる。
「ちょ、ちょっと翔流くん、そんなことできたっけ?」
美音が驚くと、翔流はやれやれと言う表情をしながら。
「美音さん、俺のこと忘れたの?ちょっと工務店でバイトしたから大丈夫さ」
「…あ…バイト?…そう、相変わらず、すぐ"理解"しちゃうのね」
「ほら、大学は下宿だからさ。金ねーんだよ。車も欲しいしね」
と、軽く笑って翔流は床に散らばった木片を拾う。
「じゃ、明日には元通りってことで。――報告書はさ、適当に誤魔化しといてくださいよ?」
手をひらひら振りながら、引き戸をくぐる翔流。
その背中を見送りながら、美音は小さく笑った。
「まったく…あの子、変わらないわね」
香織はどういう人なんすか?と不思議そうに首を傾げる。
壊れて開いたままの扉からはジメッとした夜風が吹き抜け、外では遠く虫の声が響いていた。
──そして翌朝。
すっかり元に戻った扉には、壱万円分の領収書とともに紙切れが一枚貼られていた。
「夜勤で全部直したんだから、今日は出勤してたってコトにして下さいよ?」
美音は思わず噴き出す。
「…本当に壱万円で直っちゃうのねぇ」
朝の光が差し込み、修復された木目が静かに輝いていた。
それはまるで、昨夜の騒動など最初からなかったかのように――。




