第二幕 第四章 その3
夜の資料館は、昼間の穏やかさをすっかり失っていた。
蛍光灯を落とすと、非常灯の緑が床を照らし、古い木の板が湿気を含んで軋む。
香織はモップを片づけ、ふうと息を吐いた。
「やっと終わった…。今日も湿気すごいっすね」
窓の外は靄がかかったような夜気で、坂の下の街灯が滲んで見えた。
「美音さん、そろそろ閉めましょーよ」
返事がない。
事務室の扉の隙間から漏れる灯り。
「…美音さん?」
そっと覗くと、美音は机に座ったまま、受話器を手にしていた。
耳に当てず、じっと見つめている。
「また、無言電話っすか?」
香織が問うと、美音は小さく笑った。
「ええ。でも、もう切れたわ」
「番号、わかるんすか?」
「ううん。ここの電話、古くてね。誰からかはわからないの」
美音の声が落ち着いているのが、逆に怖かった。
そういう“大人の平気なふり”を、香織はもう何度も見ていたから。
その時――
――ガタガタ…。
香織はぞくりとして振り返る。
さっきまで居た入り口の方から物音が聞こえる。
外の風が、どこかでうなる。
「…閉めたはずっすよね」
――ガタン。
入口の引き戸が鳴った。
古い木枠が軋み、桟がわずかに揺れる。
風にしては重い音だ。
二人の視線が、同じ方向へ向く。
展示室の奥、暗闇の向こう。
ガラス越しに、誰かの影が立っていた。
作業服姿の男。
顔は街灯に照らされながらも、奇妙に暗く沈んで見える。
動かず、声もなく、ただそこにいる。
「…だ、誰?」
美音の声がかすれた。
――コツン。
戸が叩かれる。
指でガラスをなぞるような、乾いた音。
二度、三度。
「も、もう閉館時間すよ…」
香織の声が震える。
男は答えず、ゆっくりと取っ手に指をかけた。
ガタン。
鍵はかかっている。
だが、金具が古く、枠がずれて隙間が開く。
引き戸がきしみ、冷たい夜気が流れ込んだ。
「ま、待って!ここ、もう閉館ですって!」
香織が叫ぶ。
――ガシャン!
ドアの木枠が裂ける。
引き戸が歪み、男が足を踏み入れた。
その動きが、異様に静かだった。
男が中へ足を踏み入れる。
引き戸の歪んだ隙間から、湿った夜気が流れ込んだ。
「…風祭さん。こんばんは」
低く、抑えた声。
その言い方には妙な馴れ馴れしさが混じっていた。
「この人…前に、一度……?」
美音が眉を寄せる。確かに見た記憶がある。
けれど、目の前の男はどこか違って見えた。
「な、なに、の…用ですか…?」
やっと出た言葉で美音が問うと、男は首を傾げた。
そして、にたりと笑う。
「忘れ物を、ね。取りに来たんだ」
一拍、置いて。
そのまま、言葉を継がない。
ただ、美音をじっと見つめている。
喉の奥で湿った息が鳴る。
口元だけが動く。笑っている。
――まるで思い出すように。
視線が、美音の胸元から、腰、脚へとゆっくりと滑っていく。
生唾を飲み込むように、男の喉が動く。
その間、言葉はひとつもない。
ただニタニタとした笑みの中、呼吸の音だけがやけに大きく響いていた。
「…なに、見てんすか」
香織の声が低くなる。
男の笑みは消えず、ただ香織の方を見もしない。
まるでそこに誰も居ないかのように。
その瞬間――木の床が鳴った。
男の足音が一歩、また一歩と美音へ近づく。
「美音さんに、触るなッ!」
香織が叫ぶ。
その瞬間、男の拳が飛んできた。
こちらを視認もしていないと思っていた香織は、咄嗟の出来事に反応出来ず、頬に焼けるような痛みを感じ視界がぐらりと傾く。
「いったぁ…。
………。
こいつ!痛ぇじゃねぇか!」
その声は低く、空気がざらついた。
湿った風が巻き起こる。
展示棚のガラスが音もなく割れる。
香織の長い茶色の髪が、風に巻かれるように舞い踊る。
カーディガンもスカートさえもなびかせながら、彼女はゆっくりと歩を進める。
…朱の咎、あの時よりも全然強い…。
美音は半ば、信じられないものを観たように目を見開いていた。
見えない爪が空を走り、空気が震える。
一瞬遅れて、木の壁が裂けた。
男の体は大きく吹き飛び、展示ケースに叩きつけられた。
「がっ……!」
それでも香織の足は止まらなかった。
紅い瞳が男を射抜く。
そこには明確な意志を感じぬ、まるで硝子玉のような冷たい瞳だけがあった。
「やめて!香織ちゃん!」
美音の声も届かない。
男の作業服が裂け、腕と脚に赤い線が走り、血が滲む。
「やめなさい!やり過ぎよ!」
美音が叫び、香織の肩を掴んだ。
――この子、正気じゃ無い?
爪痕が残る程に指を食い込ませても、肩に触れた事さえ気づいてないような…。
いや、歯牙にもかけぬ雰囲気があった。
ピシッ。
布が裂ける。香織の肩に掛けた手の、カーディガンの袖に赤が滲んだ。
「――きゃっ!?」
しかし美音は、香織から手を離さずにいた。
頬に温かい感触。
美音の血が、香織の顔に飛び散ったその感触だけは彼女に伝わっていた。
その瞬間、香織は我に返る。
「あ…あた、あた…し…」
しかし、遅かった。
空気が悲鳴を上げるように唸り、床の埃が逆巻く。
咎が、主の意思を離れて暴れ出していた。
展示物が倒れ、資料が吹き飛ぶ。
「ひ、ひぃっ!」
男が腰を抜かし、這うように逃げ出す。
――あぁ、這々の体ってこの事だな、と何故か美音は咄嗟にそんな事を思った。
「ダメ!止まって!止まってぇ!」
香織の叫びが、風に掻き消される。
「香織ちゃんっ!」
はっと我に返った美音の手は、まだ香織の肩を掴んでいた。
血に濡れた手で、必死に。
「ごめん…。ごめんなさい……。あたし、こんなつもりじゃ――」
風が止まる。
書類の一枚が、ふわりと床に落ちる。
その静寂の中で――
「なんだよこりゃ」
場違いなほどの呑気な声だった。
「久々に来たら、ずいぶん賑やかになってんなぁ、ここ」
引き戸の向こうに、人影。
夜を背負って、ひどく自然な足取りで中へ入ってくる。
「あ…あなた…?」
長身のその男の、一部だけ朱い前髪を見つめながら。美音は息を呑む。
「美音さん、元気そうで何より」
「翔流くん!」
青年は、どこか懐かしげに笑った。
「さて――状況見るに、さっきのおっさんのせいってことでいいのかな?」
その軽い言葉が、不思議と空気を鎮めていった。




