第二幕 第四章 その2
展示室の片隅で、香織は雑巾を絞りながら壁の時計を見上げた。
閉館まであと一時間。
昼過ぎから何度も鳴っては止む電話の音に、胸の奥がざわつく。
「また…?」
受話器を取ると、やはり沈黙。
わずかに風が吹くようなノイズだけが耳に残り、ぷつりと切れる。
番号表示はない。真っ白なディスプレイが虚ろに光っている。
「ここの電話、誰からかわかんないんすよね…」
独り言のように呟いたその声が、静かな館内に響いた。
返事などあるはずもないのに、背後の空気がゆらりと動いた気がして、
香織は思わず振り向く。
窓の外に、人影のようなものが見えた。
午後の光が差し込む中、白いシャツの誰かが立っていたように見えたが、
瞬きをしたときには、もういなかった。
「気のせい…。っすよね」
冗談めかして呟きながら、香織は電話の受話器を元に戻す。
しかし、耳の奥にはまだ、あの息づかいのような音が残っている。
事務室の扉が開き、美音が入ってきた。
「ごめんなさい、ちょっと外の来館者対応してて」
「んー、別に平気っす。でも、なんか変な電話きたっすよ。二回も」
香織の言葉に、美音の笑顔がほんの一瞬だけ止まった。
「変な電話?」
「無言っす。息だけ聞こえて、すぐ切れるんすよ」
「…そう」
その短い返事が、やけに重かった。
美音はすぐに笑顔を取り戻し、「きっと間違い電話ね」と言った。
けれど、机の上で握られた指先が小さく震えているのを、香織は見逃さなかった。
「…美音さん。もしかして、なんか知ってるっすか?」
「え?」
「最近、外でも誰かに見られてるみたいだし」
「あはは、怖いこと言わないでよ。昼間からホラー映画みたい」
軽く笑う声が少し高い。
いつもの落ち着いた美音の声じゃなかった。
沈黙が落ちる。
時計の針の音が、やけに大きく響いた。
香織は頬をかきながら立ち上がり、窓の外を覗く。
誰もいない坂道。
それでも、遠くの街灯の根元に、
人の足のような影が一瞬見えた気がした。
「…ホントに気のせい、っすよ…ね?」
自分に言い聞かせるように笑ってみせる。
だが美音はその言葉にうなずかず、
そっとカーテンを閉めた。
夕方、閉館作業を終える頃には、
外はすっかり灰色に染まり始めていた。
窓を叩くような小雨が降りだす。
「香織ちゃん、今日はわたしが戸締まりするから、先に帰っていいわ」
「え?いつも一緒に帰ってたじゃないっすか」
「いいの。明日の資料、もう少し見直したくて」
「でも…」
美音は微笑んで、「大丈夫」と小さく首を振る。
その笑顔が、どこか無理をしているように見えた。
「…わかったっす。じゃ、また明日」
香織が出口に向かう背中で、電話が鳴った。
一度、二度、三度。
けれど美音は、受話器を取らなかった。
振り返ると、彼女はじっと机の上の電話を見つめていた。
まるで、その先に誰かがいるかのように――。




