第二幕 第四章 その1
五月ももうじき終わりという頃。
空気がどこか重たい。晴れているのに、雲の奥に湿り気を含んだような午後だった。
朱山市郷土資料館の窓から射し込む光はやわらかく、古い木の床の上で反射して、埃がきらきらと舞っている。
香織は展示ケースのガラスを布で拭きながら、息を吐いた。
「ふぅ…。湿気ってマジで敵っすね。どんだけ拭いてもすぐ曇る」
小さく文句をこぼすと、奥のカウンターで書類を整理していた美音が、ペンを止めた。
「え?あぁ、ごめんなさい。なにか言った?」
「もー、美音さん聞いてなかったっすね」
「ふふ、ごめんなさいね。ちょっと考え事してて」
その笑顔はいつも通りだった。
でも、香織にはわかる。最近の美音は、どこか上の空だ。
電話中も、掃除の最中も、ふと何かに耳を傾けるように顔を上げることがある。
そのたびに、視線が窓の外へ向かっていた。
「なんか、最近忙しそうっすよね」
「そう見える?」
「うん。ていうか、顔がちょっと疲れてるっす」
美音は一瞬だけ目を丸くしてから、すぐに笑みを取り戻した。
「もう、香織ちゃんったら。わたしがアラサーになったからっておばさん扱いしないでくれるかしら?」
「アラサー?全くちっともおばさんじゃないっすよ。でも…なんか、気になるんすよね」
そう言いながら、香織はほつれたマットの端を整えた。
美音の笑顔が、少しだけ引きつって見えたのは気のせいだろうか。
「…最近、なんかあったんすか?」
「どうして?」
「いや…なんか、誰かに見られてるような。そーゆー感じ?」
冗談めかして言ったつもりだった。
けれど、美音は返事をしなかった。
手に持っていたファイルをぎゅっと握り、ほんの一瞬、視線を落とす。
「あ…。ごめんなさい。変なこと言ったっす」
「ううん、違うの。ただ…ちょっと、気のせいだと思うわ」
ようやく返ってきた声は、いつもよりわずかに低かった。
香織は慌てて笑って取り繕う。
「で、ですよねー。ホラーの見すぎっすね、あたし」
「ふふ、それならいいけど」
いつも通りの調子に戻ったように見えた。
けれど、館内を満たす静けさが、やけに耳に残る。
換気扇の低い唸り。紙をめくる音。
そのすべてが、まるで誰かが聞き耳を立てているように感じられた。
閉館の時刻を過ぎ、照明を落とす。
外は少し曇っていて、朱山の坂道には早くも薄闇が降りていた。
香織が入口の鍵を確認すると、美音が声をかけてくる。
「香織ちゃん、今日は一緒に駅まで行きましょう」
「え?美音さん、方向違うじゃないっすか」
「いいの。少し歩きたい気分なの」
そう言って、カーディガンの袖を引き寄せるように抱えた。
その仕草が妙に慎重で、香織は小さく首を傾げた。
二人並んで歩く坂道は、まだ桜の葉の青さを残している。
風がぬるく、街灯の光が舗道に滲む。
美音は時折、背後を振り返っていた。
そのたびに「どうかしたっすか?」と尋ねると、「ううん、なんでもない」と笑ってみせる。
駅前で別れるとき、美音が少し強い声で言った。
「香織ちゃん、暗くなったら寄り道しないでね。まっすぐ帰るのよ」
「え?…うん。わかったっす」
返事をしながら、香織は小さく息を吸った。
あの人の優しさが、どこか切実に感じられた。
振り返ると、美音はまだその場に立っていた。
街灯の下、少し寂しそうに笑って手を振る姿が、やけに印象に残った。
その夜、香織は布団に入っても、なかなか眠れなかった。
瞼を閉じても、あの“誰かに見られている”ような感覚だけが、ずっと消えなかった。
微睡みのまぶたの裏で、窓の外を見上げる美音の横顔が、何度も何度も浮かんでは滲んでいた。




