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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第三章 その6

春の雨が、静かに降っていた。

細かい粒が朱山の坂を濡らし、舗装路に淡い光を映している。

郷土資料館の窓越しに見る景色は、まるで水墨画のように滲んでいた。


「美音さん、今日市役所行ってるっすよ。展示の申請だって」

香織が窓を拭きながら言った。

「だから今日はあたしたちだけ。のんびりやろ」


「…うん」

恋羽は頷き、机に積まれた資料の束を整える。

部屋の中は静かだった。時計の針の音、雨が軒を叩く音。

それらが不思議と心地よく、恋羽は少しだけ息を吐いた。


「鴨宮さん、整理早いよね。進学科の人って、やっぱ頭の回転違うなぁ」

「そ、そんなこと…ないよ。こういうの、落ち着くから」

「へぇ、さっすが。でも、その落ち着くはちょっと分かるかもっすね」

香織は笑い、椅子の背にもたれた。

その笑い方は明るくて、柔らかくて――恋羽にはどこか救いのようだった。


そんなとき、恋羽の鞄の中で、かすかな音が鳴った。

携帯電話の着信音。

恋羽は反射的に取り出し、液晶を見た。

『おかあさん』


少し迷ってから、通話ボタンを押す。

「…はい、恋羽です」

声が震えないように努めたが、喉がきゅっと縮む。


『あんた、また寄り道?この前も言ったでしょ、今が1番大切な時期なのよ?』

『進学科なんだから、もっと上を目指さないと。何考えてるの』


声の調子は柔らかいのに、刺のように胸に突き刺さる。

「…ごめんなさい」

それしか言えなかった。

電話の向こうの言葉は途切れず続き、

恋羽の胸の奥で何かが軋んだ。


ピッ、と通話を切る音。

その瞬間、世界が――静まった。


雨の音が消えた。

時計の針の音もも止まったように届かない。

香織の声も、遠く霞む。

恋羽は自分の呼吸だけを聞いた。

息の音が大きく、胸の内で反響する。


(やめて…もう、あんなのやだ…)


視界が歪み、部屋の空気がねじれた。

紙がふわりと浮き、机の上のペン立てが揺れる。

恋羽の掌が震え、冷たくなる。

“朱の咎”――彼女の心の叫びが、音を消していく。


「鴨宮さん!?」

香織は椅子を蹴って立ち上がった。

だが、数歩進んだところで足が止まる。


見えない壁。

恋羽の周囲の空気が歪み、薄い膜のように光を屈折させていた。

そこから、冷たい圧が伝わってくる。


「なにこれ…?空気の壁…?これ――まさか朱の…咎?」

喉が震える。心臓が速く打つ。

「なんとか…しなきゃ。美音さんも居ないんだ、あたしがっ!」


香織は拳を握りしめ、必死に近づこうとする。

だが足元の空気が渦を巻き、抵抗するように押し返してくる。

「鴨宮さん!手が届かない…!どうして…っ」

痛むのか冷たいのか。手の感覚はよくわからなかった。

自然と涙が滲む。


恋羽の目には恐怖と苦痛が宿っていた。

彼女の唇が、声にならない悲鳴を形づくる。

香織の胸の奥が、ぐっと痛んだ。


「辛いもんね…。辛いの、わかるんすよ。あたしには特にね」

手を伸ばす。震える指先が、膜に触れる。


ひやりとした冷気が肌を刺した。

「でも、助けなきゃ。だって、見てらんないもん――!」


その瞬間、香織の背筋を走るように“何か”が弾けた。

掌から熱が走る。

光でも炎でもない――目には見えないけれど、確かに鋭い力。


「届いてっ!」


叫んだと同時に、

バシュッ、と空気が裂けた。


透明な膜が斬り裂かれ、

押しつぶされていた世界が一気に息を吹き返す。

風が流れ込み、雨の音が戻る。

恋羽の髪がふわりと揺れ、カップが転がる音が響いた。


「――っは…」

恋羽が息を吸い込む。

肩で大きく息をすると、瞳に焦点が戻る。


香織は駆け寄り、その肩を支えた。

「鴨宮さん!よかったぁ…」

手のひらがじんじんと痛む。

けれど、そんなことはどうでもよかった。


恋羽は小さく首を振り、「…ごめんなさい」と呟いた。

香織は涙をこらえながら、微笑んだ。

「謝んなくていいって。怖かったすよね。…もう大丈夫!」

香織は微笑みなが、恋羽にハンカチを差し出す。

その掌にはまだ、あの見えない刃の余韻が残っている。

けれど、それも悪くないと思えた。


窓の外では、雨脚が弱まり始めていた。

静かな雨音が、今は優しく響く。

恋羽はハンカチを受け取り、小さく息をつく。


「…少し落ち着いた?鴨宮さん」

「うん。ありがとう。…あの、ね。あの…恋羽…で、いいよ」

恋羽はまるで言いにくい事のようにそう言い、照れ笑いを浮かべた。

「うん!恋羽ちゃん。あたしのことも…香織って呼んでね」


恋羽の頬がほんのり染まる。

けれど、笑顔で頷いた。

「…うん。香織ちゃん」


そう名を呼んだ瞬間、心の奥で何かがほどけるような感覚がした。


少し照れたような、はにかんだ笑顔の香織に見送られ――

霧雨に変わった空の下を、恋羽は家路へと進んだ。


その歩みは、来たときよりも――明らかに軽かった。


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