第二幕 第三章 その5
春の陽が傾き始めるころ、朱山の坂道は淡い光で満たされていた。
細い舗装路の両側にはまだ花を残した桜の木々。
鴨宮恋羽はその坂を一歩ずつ登っていた。
風が吹くたびに花びらが舞い、制服の肩や髪に降りかかる。
(ここ…で合ってる。…よね?)
小さな石段を上がると、古びた建物が見えた。
白い壁に瓦屋根。正面の木製の看板には「朱山市郷土資料館」と墨字がある。
思ったよりも静かで、人の気配はない。
扉の前に立ち、少しだけ深呼吸をした。
「いらっしゃいませ。朱山市郷土資料館へようこそ」
カラン、とドアベルが鳴った瞬間、柔らかな声が響いた。
カウンターの奥から現れたのは、淡い桜色のスカートスーツ姿の女性。
赤茶の髪をゆるく左右で結い、肩で揺れている。
その笑顔に、恋羽は思わず姿勢を正した。
「こんにちは。鴨宮と申します。あの…塚原さんに、会いに来たんですけど」
「香織ちゃん?…お友達ね!あらあら初めてじゃない?お友達呼ぶなんて」
女性は嬉しそうに目を細めた。
その声に温かみがあり、恋羽の緊張が少し和らいだ。
「わたし、風祭美音って言います。ここの職員で。
香織ちゃんにはいつも助けてもらってるんですよ」
「鴨宮…恋羽です。あの、突然すみません」
「いいのいいの、さぁどうぞ。よく来てくれたわね」
美音は向日葵のようににこやかに頷き、奥の部屋へ声をかけた。
「香織ちゃーん、鴨宮さんが来てるわよー!」
ほどなくして、軽い足音とともに香織が現れた。
髪をひとつにまとめ、エプロン姿の彼女はいつもの学校の印象とは違い、
どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「わっ、ホントに来てくれたんだ。嬉しいっす」
「…迷ったけど、なんだか来てみたくなって」
香織はにこっと笑い「良かった」と言いながら奥の部屋へ案内する。
古い書棚の間を抜け、資料室のテーブルに湯気の立つカップが並べられていた。
「美音さん、ハーブティー入れときましたー!」
「ありがと、香織ちゃん。鴨宮さんもどうぞ、温かいうちに」
カップを手に取ると、ほのかにカモミールの香りが立ちのぼる。
(なんか、落ち着く…)
そう思った瞬間、胸の奥の緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。
「学校、大変?」と美音。
「はい…少し。周りがすごくて」
「そうよね、進学科ですって?ちゃんと息抜きしないとね」
「…はい」
穏やかな会話。
午後の光が窓から差し込み、木製の床に影を落とす。
美音が書類を整理し、香織がペンを走らせる音が聞こえる。
静かで、安心する――そんな時間。
だが、その静けさが、突然「過剰な静けさ」に変わった。
カップを持つ手が止まる。
湯気が立ち上る音が聞こえない。
風の音も、美音の話し声も、何もない。
音が――消えた。
(…まただ)
心臓の鼓動だけが響く。
まるで深い水の底に沈んだような、圧迫された静寂。
目の前で美音の唇が動く。けれど、声が届かない。
震える指で耳に触れる。温かい。聞こえないだけ。
(いやだ、また、やだ…!)
その瞬間、肩に手が置かれた。
「鴨宮さんっ!?」
香織の声が――聞こえた。
音が、戻ってくる。
部屋の中の空気が急に重くなり、恋羽はカップを落としそうになる。
「ご、ごめんなさい…急に、耳が…」
「大丈夫? めまいとか?」
美音がすぐに駆け寄る。
「いえ…本当に、すみません」
恋羽はかすれ声で答えた。
美音は心配そうに眉を寄せつつも、無理に詮索はしなかった。
香織は黙ってハンカチを差し出した。
「無理しないでいーよ。怖かったら、今日はもう上がる?」
恋羽は首を振り、小さく笑った。
「ううん。…ありがとう。大丈夫だよ、もう平気」
春の陽は傾き、窓の外の桜が淡く光を散らしている。
風が吹くたびに、花びらがひとひら、窓枠をかすめて通り過ぎた。
恋羽はそれを見つめながら、静かに息を吐いた。
心の奥にまだ残るざらついた不安。
それでも――ここには、少しだけ“安心できる音”がある気がした。
ここの音は消えないで欲しいな。
咄嗟にそう思った自分の心に、恋羽は少しの驚きと暖かみを感じていた。




