第二幕 第三章 その4
放課後の空は、うっすらと茜に染まっていた。
昼間のぬくもりがまだ残る舗道を、鴨宮恋羽はひとり歩いていた。
鞄の持ち手を握る指先に力がこもる。手のひらにはじんわりと汗。
風が少し強く、制服の裾をかすめて通り過ぎていく。
商店街の通りには、下校途中の学生や買い物客が行き交っていた。
たこ焼きの屋台、八百屋の呼び声、信号の電子音――。
それらがふいに遠ざかる。
一瞬、世界が息を潜めた。
風の音さえ止まったように。
胸の奥がきゅっと掴まれる。
誰かが笑う。けれど、声がない。
「……っ」
恋羽は立ち止まった。
まぶたを閉じ、息を整える。
心臓の音だけが、やけに鮮明だった。
(また…)
怖さが込み上げる。
けれど、しばらくして音が少しずつ戻ってきた。
焼き鳥の焦げる音、人の足音、車のエンジン。
すべてが一斉に押し寄せてくる。
「…大丈夫?」
声に振り向くと、ピンクのカーディガンを羽織った女子が立っていた。
明るい色の髪先が街灯に光り、ハート型の髪留めが小さく揺れている。
「顔色めっちゃ悪いけすけど。貧血とか?」
「あ…えっと、だいじょうぶ、です。ちょっと立ちくらみで…」
「そっか。進学科だったすよね?たしか…えっと。そう、鴨宮さん」
「あ、はい…。塚原…さん?」
「そうそう。朱中だった香織ぃ。あたしも朱高だよ。普通科だけど」
――塚原さんだ。
同じ中学だったけど、話したことなんて一度もなかった。
少し派手で、言葉遣いも悪くて。正直ちょっと怖い印象だった。
けれど、今目の前にいる彼女はまるで別人のようだった。
声は落ち着いていて、表情も穏やかで。
(こんなに優しい人だったんだ…。それとも、変わったのかな)
「進学科ってすごいよね。テストばっかで、息つく暇ないって聞くよ」
「…うん。ちょっと、ついていけない時があって」
「あー、やっぱり。あたしなんて普通科なのに一時期ヤバかったもん。
学校にも行けなくなっちゃってさ。でも、資料館のお姉さんに助けられたんだ」
「資料館?」
「うん、郷土資料館。あっちの坂の上にあるっしょ?
あたし、今そこのお手伝いしてんの。ポスター作ったり、整理したりネ」
「へえ…?」
恋羽は少し驚いたように瞬きをした。
資料館という言葉が、どこか懐かしい響きを持って胸に残る。
人と関わるのが苦手な自分には、縁遠い場所だと思っていた。
香織は続けた。
「そのお姉さん、美音さんって言うんだけどね。美人さんだし優しいし、めちゃくちゃ話聞いてくれる人でさ。
あたし、いろいろあったけど…それで元気出たんだ。
だからさ、鴨宮さんも疲れたら行ってみなよ。お茶くらい出してくれるし」
「…そんな、知らないのに行っていいのかな」
「いいのいいの。あたしもいるし!たぶん喜ぶと思うよ、あの人」
香織は笑って、パン屋の前で立ち止まった。
ガラス越しに漂う甘い匂いが、夕暮れの風に溶けていく。
橙色の光に照らされた彼女の横顔は、不思議と柔らかかった。
「ね、これ買って帰ろ。ここのメロンパン、焼きたての時間なんだ」
「…うん」
恋羽も、つられるように頷いた。
袋の中のパンはまだ温かく、ほのかに甘い匂いが指先に残る。
外に出ると、空はすっかり群青に変わっていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り、影が長く伸びる。
行き交う人の笑い声や車の走行音が、少しずつ遠くに溶けていった。
「またさ、今度ゆっくり話そ。資料館でもいいし」
「…うん。ありがとう」
恋羽の声は小さく震えていた。
けれど、その表情にはかすかな安堵が浮かんでいた。
香織はにっと笑って、手を振る。
その笑顔を見送りながら、恋羽は胸の奥で小さく呟いた。
(昔の塚原さん、こんな顔してたっけ…?)
夕暮れの風が、桜の花びらをひとひら運んでいった。
恋羽はそれを目で追いながら、ほんの少しだけ微笑んだ。




