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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第三章 その3

四月の風は、まだ少しだけ冬の名残を引きずっていた。

放課後の教室には西日が差し込み、窓際の机に薄い桜色を落としている。

朱山高校進学科の二年教室。整然と並んだ机の列のあいだで、女子たちの笑い声が弾んでいた。


「ねぇ見て、このワンピかわいくない?」

「えー?でもこれ清楚すぎない?私が着たら地味って言われそう」


雑誌を囲む輪の中で、鴨宮恋羽かものみや こはねは笑顔を浮かべながらページを覗き込んでいた。

その笑みは柔らかく礼儀正しい――けれど、どこか一拍遅れている。

笑うタイミングも、頷く角度も、わずかにずれている。

それが自分でも分かるから、恋羽はなるべく表情を崩さないようにしていた。


「恋羽はどっちが好き?」

「え…あー。わたしは…こっち、かな。なんとなく」


控えめな声。すぐ隣の友人が首をかしげ、また笑い声が上がる。

恋羽もつられて微笑むが、胸の奥には冷たい隙間があった。

誰かと笑っているはずなのに、なぜか世界が遠い。

輪の中にいても、自分の声だけがどこかに沈んでいくような――そんな感覚。


窓の外では運動部の掛け声が響く。

風に混じって、チョークの音、ペンの転がる音、廊下を駆ける靴音。

無数の音が入り混じり、世界はあまりにも賑やかだ。

その喧噪が、恋羽には時折、痛みに近い疲労を与えた。


(…静かになればいいのに)


誰にも聞かれないように、心の中でつぶやく。

窓際の桜が風に揺れ、花びらが一枚、教室の中に舞い込んだ。

その瞬間、ざわめきが――消えた。


すーっ、と。

廊下の笑い声も、椅子を引く音も、遠ざかるように。まるで誰かがスイッチを切ったように止まった。

世界が息を潜めたような、異様な沈黙。

恋羽は顔を上げた。口を動かす子もいる。だが声が聞こえない。


(……まただ)


心臓が跳ねた。耳をふさがれているわけではないのに、音がない。

胸の奥に、圧のような静けさが広がる。

呼吸の音と鼓動だけが世界に残る。

誰かが笑った。けれど、その口の動きは音を持たない。

世界が、まるで遠のいたように。


ペンが指先から滑り落ちた。

コトン、と机を打つはずの音もない。


友人が振り向いて何かを言っている。唇が動いている。

“こはね? どうしたの?”――そんな形に見えた。

けれど恋羽には、何も聞こえなかった。


視界が霞む。手のひらが冷たい。

世界が柔らかい膜の向こうにある。

――どうして。もう…嫌だ…。

その言葉が、心の底で小さく弾けた瞬間。


音が、戻った。


「…っ、鴨宮さん?大丈夫?顔色悪いよ?」

「えっ…あ、ううん。なんでも、ないの」


隣の女子が心配そうに覗き込む。

恋羽は慌てて笑顔を作った。頬が引きつっているのが自分でもわかる。

ペンを拾い上げた指がわずかに震えていた。

握った掌は、汗でしっとりと濡れている。

さっきまで何が起きていたのか、言葉にできない。


放課後のチャイムが鳴る。

けれど、その音すらどこか薄い。膜の奥で鳴っているようだった。


夕焼けが窓を染めている。

桜の花びらがまだひとひら、彼女の机の上で震えていた。

恋羽はそれを指先でつまみ、そっと握りしめた。

花びらはすぐに掌の温度でしっとりと柔らかくなる。

その感触が、彼女に確かな現実を思い出させた――。


けれど心の奥底では、もう知っていた。

自分の耳に起こったのはただの錯覚ではない。

過度なストレスで難聴になることもある、そんな知識はあったが、そういうものとは違う気がした。


まるで世界の音のボリュームを下げたみたいな、言い知れぬ感覚。

いや、言い知れないんじゃない。わかってるじゃないの。

恋羽は自分に言い聞かせるように自嘲する。

――怖いんだ。すごく。


下校の時間も過ぎ教室の人影はほとんどなくなっていたが、彼女はなかなか席を立ち上がることが出来ずに居た。

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