第二幕 第三章 その1
外では、春風が窓の桟を軽く叩いていた。
机の上に広げられた書類を前に、美音が小さく微笑む。
「インターン、来るんすね」
香織が顔を上げた。書類には教育委員会の印と“春季実習受け入れ”の文字。
「ええ。来月から何人か大学生が来るみたい」
「学芸員志望の子たちっすか?」
「そう。去年の秋にも来たでしょう?」
「いましたね。あの、夜中にお菓子食べてた人たちっすよね」
「ふふ、そう。資料整理よりおしゃべりの時間のほうが長かったけど」
ふたりの間に小さな笑いが生まれる。
だが美音の表情はすぐに曇った。
「それでね。宿直室、ひとつしかないの。香織ちゃんの泊まりは、しばらく難しくなるかも」
「…そっか。全然大丈夫っすよ。家、帰ります」
「お母さんは?」
「どうせ男のとこっす。ずっと帰って来ないし、もう慣れました」
言葉の調子は軽いが、カップを持つ手がわずかに揺れた。
美音は穏やかな笑みを湛えながら口を開く。
「ね、うちにおいでよ。空き部屋あるんだから」
「いえ、大丈夫すよ。ちゃんと帰りますから」
「そう…?」
香織は笑い、カップの中の水を飲み干した。
その笑顔が無理をして作られたものだと、美音はすぐに悟った。
だが、香織も進級する。彼女の自立しようという一歩を自分が止めるのはおかしいでしょ?
そう考える理性が、心配する心を抑え込んでいた。
窓の外では桜の花びらが風に乗って舞っていた。
この地域の山桜だ。ソメイヨシノより少しだけ早く咲き誇り、甘い桜の芳香を漂わせる。
冬の間中閉め切られていた換気窓を開けると、
柔らかい陽射しとその桜の甘い香りがふわりと室内に流れ込んだ。
夕方。香織は資料館の玄関の鍵を閉めて外に出た。
朱山の稜線が薄桃色に染まり、単線の列車がゆっくり鉄橋を渡っていく。
カタンカタン、という車輪の響きが遠くに消えた。
ポケットから取り出したスワロフスキーのデコケータイ。
液晶には「新着なし」の表示。
「…ま、そんなモンか」
風が髪を撫でる。春の匂いがした。
坂を下りながら、どこかの家の夕飯の匂いに胸が締めつけられる。
「ちゃんとやんなきゃな…」
小さな呟きが、茜色の空に溶けていった。




