第二幕 第二章 その5
「福沢って人、やっぱり変ですよね」
香織が紙コップのコーヒーをすすりながら言った。
「なんか、話もふわっとしてたし。電話も住所も嘘って、普通ありえないっすよ」
美音は頷きながら、机の上に広げた資料を見つめる。
「一応、戸籍と新聞のデータベースをあたってみたけど、該当なし。
朱山に福沢姓は、ちょっと遡っても登録がなかったわ」
「つまり、最初から存在しない人…?」
「もしくは、誰かの名前を使ったか。
でも、住所の筆跡があまりに自然なのよね。まるで――“本当にそこに住んでいた”ように」
美音は下唇の下に人差し指を当てると
「今思えば、あの人。スリーボタンのスーツっていうのもちょっと前時代的雰囲気ではあったのよね」
「え、あれって普通のスーツじゃないの?」
「最近はもうほとんど見ないの。ネクタイの結び方も少し古かったし…」
「あ!お爺ちゃん子だったとか?」
「子供じゃないんだから…」
美音はペンを止め、地図を広げた。
「このあたりが、記載されてた住所ね。朱山の北麓」
地図を眺めていた美音は上目遣いに香織の顔を眺めると――
「うん。行ってみましょうか」
香織の目が丸くなる。
「えっ、行くんすか? あたし学校の革靴しかないんすけど」
「大丈夫。私だってパンプスよ」
そう言って、美音は鞄を手に立ち上がった。
朱山の裾野を縫うように、細い道を小さな車が走っていく。
ミニ コンバーチブル クーパーS。
クリーム色のその小さな車は、オープンになる天井を少しだけ開けて車内に秋の風を感じさせていた。
山肌を撫でる風が、秋の葉を舞い上げた。
助手席の香織が笑う。
「美音さんの車、可愛いっすね。お菓子の箱みたい」
「それ、褒めてるのかしら?」
「もちろんすよ。なんか似合ってます」
「ふふ、ありがと」
舗装が途切れ、やがて道は砂利へと変わる。
ナビの画面は空白を示し、携帯の電波も途切れがちになった。
「…地図上では、この先が福沢さんの住所にあたる場所…なんだけど」
車を停め、二人は外に出る。
風の音が、山の静けさを裂いた。
「ここから先は車じゃ無理そうね」
美音はスカートの裾を押さえ、獣道を見つめた。
「ここ、道っすか?」
「道だったのよ。昔は…あ、ヒルとマダニには気をつけてね」
パンプスのまま、彼女は藪をかき分けて進んだ。
「どう気をつけるのが正解かわかんねっす!」
倒木を越えた先で、香織が声を上げる。
「これ…家の跡っすか?」
そこには、崩れた石垣と、わずかに残る基礎のような形。
蔦が絡み、苔に覆われている。
「…集落跡ね。四軒ほど。記録にも残っていなかったわ」
美音は少し離れた場所に目を止めた。
地面に、歪んだ石組みが半ば埋まっている。
「これ、祠の跡ね。朱山神社の裏と同じ様式だわ
うん、お稲荷さんとかではないみたい」
「じゃあやっぱ、咎関係っすか?」
「触らないでね。
咎にかかった人はみんな、古い人工物に触れているの。あなたも心当たりあるでしょ?
念のため、ここも記録しておきましょう」
手帳に位置を記しながら、美音は崩落跡を見上げた。
上方の斜面は古い土砂で覆われ、木々が覆っている。
「この土砂、朱山から流れたのね。…ずいぶん昔の崩落だわ」
「じゃあ、福沢さんの家も、そのとき埋まった…とか?」
美音は頷いた。
「可能性は高いね。…でも、それならどうして今になって絵を?」
風が吹き抜け、木々の葉がざわめいた。
ふと、美音は祠の奥を見つめた。
苔の隙間から、何か朱いものがのぞいている気がした――が、次の瞬間、光の加減で見えなくなった。
「…戻りましょう。日が暮れるわ」
「あ、はーい」
二人は山道を戻りながら、美音は考えていた。
「土砂崩れ、集落が巻き込まれたのだから新聞には載るんじゃないかしら?」
「そんな古い新聞…あ、図書館すね?」
「無駄足かも知れないけれど、ね」
2人が話す背後で、風がまたひとつ、木々を鳴らした。




