第二幕 第二章 その3
食後の眠気が堪える昼下がり。
手伝いを買って出た香織に受付を任せると、美音は奥で湯を沸かしお茶の支度をしている。
窓越しに差し込む陽射しが淡く床を照らし、資料館の中は眠たげな空気が漂っている。
紙と古木の匂いが混ざる中、香織が受付で書類をまとめていると、自動ドアが音を立てて開いた。
「すみません、こちらで…古いものを見ていただけると聞きまして」
入ってきたのは、四十代ほどの男性だった。
古めかしいスーツの袖をまくり、胸には風呂敷を大事そうに抱えている。
その目には落ち着かない色があった。
「ようこそ。朱山市郷土資料館へ。学芸員の風祭と申します」
美音が出てきて、柔らかな声で応じる。
男は頷き、風呂敷を静かに広げた。
「拝見させていただきますね」
中から現れたのは、桐の箱に納められた古びた絹地の掛け軸だった。
墨で描かれた山並みの上に、朱の滲みが薄く雲のように重なっている。
山の形は、朱山に似ていた。
――が、美音の目はすぐに異変に気づく。
「…これ。朱山の向こうに、龍体山が繋がっているわ」
実際の地形では、ふたつの山は尾根の切れ目で分かたれている。
ところがこの絵では、尾根がひと続きになって、まるで龍が身をくねらせているように見えた。
「古いもののようですね」
男はゆっくり頷いた。
「江戸時代よりも前ではないかと、祖父が申しておりました。…ですが、詳しいことは」
「父の遺品なんです。『朱山の龍』という題らしくて。
父が亡くなってから、これをしまっている箱から夜ごと“こつこつ”と音がして…。
美術商に見せたら骨董的に価値はないと言われました。
でも地元のものなら、こちらで見てもらえるんじゃないかと」
男はそう言いながら、視線を落とした。
理屈をつけようとするような、不安のにじむ口調だった。
美音は手袋をはめ、軸をそっと持ち上げた。
絹の地は驚くほどしっかりしていて、墨の線もほとんど滲んでいない。
「…不思議ですね。
江戸より古そうなのに、描き方があまりに写実的です。
山肌の陰影まで描き分けている。まるで見たままを写したよう」
香織が首を傾げた。
「でも、“龍”ってどこに?」
「朱山の昔の名前は龍頭山。それが龍体山と繋がるように描かれているからかな」
男は小さく頷いた。
「えぇ、父もそう言ってました。何でも、朱山はもとひとつの山だったと…。
では、これで失礼いたします」」
美音は表情を変えず、穏やかに微笑んだ。
「お預かりした後、専門の保存処理を行いますね。ご連絡はここでよろしいですか」
「ええ、こちらに」
男は名刺代わりに、電話番号と住所を書き残す。筆跡は達筆で、どこか時代がかった癖があった。
男は頭を下げて立ち上がった。
美音がふと彼の肩に目をやると、赤い楓の葉が一枚、ひらりと貼りついていた。
「あら、楓の葉が。お住まいは朱山のほうですか?」
「ええ。神社と反対側の、朱山の麓です。裏はすぐ山で…父もずっと、そこを離れませんでした」
「そうでしたか。では、こちらで大切に扱わせていただきますね」
会釈をして去っていく背を、美音はしばらく見送った。
静かに閉まる自動ドアの音が、やけに長く響いた。
ガラス越しに彼が去るのを見送りながら、美音はぽつりと呟いた。
「ねえ香織ちゃん、これ、どこか変だと思わない?」
「うーん……絵の感じ、すごく古いっすね。でも何ていうか、写実的っつーか、写真みたい」
「ええ、そこなの。江戸より古いとすれば、これほどの遠近法を使うのは異例よ」
照明を落とすと、墨の重なりがわずかに光を反射する。
描線は驚くほど精密で、樹木の一本一本にまで意図が感じられた。
そしてその全体が、妙に生々しい息づかいを放っていた。
「これだけ古いのに、こんな描き方をした画家がいたなんてね……」
美音は小さく息を吐き、掛け軸を丁寧に巻き取る。
「この福沢さんって人、名簿に載せときますね」
「お願い。あとで電話してお礼を言っておくわ」
その翌日、美音は記された番号に電話をかけた。
――だが、聞こえたのは無機質な声だけだった。
「おかけになった番号は、現在使われておりません」
受話器を置いた美音の耳に、風がすうっと通り抜ける。
美音は眉をひそめ、書類を見返す。
住所の地名も、地図のどこにも存在しなかった。
まるで最初から、その“福沢”という人物がこの世にいなかったかのように。
窓の外で、夕暮れの朱山がゆっくりと陰を濃くしていく。
山の端に沈む光が、どこか血のように赤く見えた。




