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朱の山  作者: 晦ツルギ
第二幕

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第二幕 第一章 その7

湯上がりの肌に秋の夜風が心地よかった。

ふたりは資料館の休憩室で湯飲みを手に、並んで窓の外を眺めていた。

外では雲が流れ、時おり月が顔をのぞかせる。


「今日は雲の合間の月ね」

美音が小さく呟く。

「やすやすと 出でていざよふ 月の雲」


香織が目を瞬かせた。

「……俳句ですか?」

「うん。松尾芭蕉。この夜空見てたら思い出したの。秋の俳句よ。“いざよう”は秋の季語なの」

「へぇ……やっぱ、美音さんって頭いいんだね」

「仕事柄、いろいろ覚えてるだけよ。文系だし」

そう言って、美音は照れくさそうに笑った。

「頭いいなんて、初めて言われたかも」


香織もつられて微笑む。

「さ、そろそろ眠くなってきた?」

「うん……」


電気を落とすと、月明かりだけが畳を照らした。

外では風が木々を揺らし、虫の声が遠くで続いている。

香織は布団に身体を沈め、ふうっと息を吐いた。


「……なんか、落ち着く」

「そう? ここ、古い建物だから音が多いけど」

「ううん。静かで、安心する」


美音はその言葉に微笑み、そっと毛布を整えた。

香織の横顔には、ようやく幼さが戻っている。

その表情に安堵を覚えながら、美音も布団に入った。


――どれくらい時間が経っただろう。

月は雲に隠れ、部屋の中に深い影が落ちていた。


「……やめて……いや……っ」


掠れた声。香織が小さく身を震わせていた。

汗ばんだ手が布団を握りしめ、目を閉じたまま苦しげに息をする。

美音は身を起こし、そっと肩に手を置いた。


「香織ちゃん……?」


その瞬間――空気が張りつめた。

壁に掛けたカレンダーが、音もなくまっすぐ二つに裂かれる。

紙片がふわりと舞い、パサりと床に落ちた。

まるで、見えない刃が通り抜けたかのように。


美音は息をのむ。けれど、恐れはなかった。

ただ静かに、香織の手を握る。

「……大丈夫だからね」


その声に呼応するように、香織の震えが次第に収まっていく。

涙が頬を伝い、唇にかすかな笑みが浮かんだ。

美音はその手を離さず、朝が来るまで見守り続けた。


――その夜は、それきり何もなかった。


翌朝。

窓から射す光が畳の上に淡く広がる。

香織はゆっくりと目を開け、寝ぼけ眼のまま身体を起こした。

破れたカレンダーはもうない。

美音が、何も言わずに片づけていた。


「おはよう、香織ちゃん」

湯気の立つ湯飲みを手に、美音が微笑む。


香織は一瞬だけ目を泳がせ、それから小さく息を吸って言った。

「……おはよ……っす」


美音はその言葉に柔らかく笑い、

「ふふ。おはよう」

とだけ返した。


朝の光がふたりの間を照らし、

昨日よりも少しだけ、距離が近づいていた。


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