第二幕 第一章 その6
香織が湯飲みを置いて、立ち上がろうとしたとき。
「じゃ、あたし、そろそろ——」
美音はその動作を見つめながら、少しだけ首をかしげた。
「…そういえば、香織ちゃん」
「ん?」
「家に…帰れてないのよね?」
香織の指が、鞄の持ち手をぎゅっと握る。
美音はすぐに声を和らげた。
「ごめんね、責めてるわけじゃないの。ただ、昨日はどこに泊まったのかなって…」
香織は小さく首をすくめたまま、視線を落とした。
「…別に、平気。外のベンチとかでも」
「外は冷えるよ」
美音は少し考えてから、ふっと微笑んだ。
「もし良かったら、奥の休憩室で寝ていかない?」
香織が驚いたように顔を上げる。
「えっ、でも…」
「わたしもね、仕事が忙しいときはここに泊まるの。書きものしてるといつの間にか夜になっちゃって」
くすっと笑いながら、美音は奥の扉を指さした。
「お風呂は、この上にある日帰り温泉が使えるから。そこに行ってから戻ってくればいいのよ」
香織は迷うように視線を泳がせた。
美音はその肩にそっと手を置く。
「どう? 良かったら、今日はゆっくり温泉に浸かって、ここで一緒に寝よう」
香織の唇がかすかに震えた。
「…いいの?」
「うん。ここ、広いしね。誰も怒らないよ」
その言葉に、香織はようやく小さく頷いた。
窓の外では朱山の楓が、夜風に揺れていた。
夜風が少し冷たくなってきた。
資料館を出ると、空気には金木犀の甘い匂いが混ざっている。
朱山の稜線が夕闇に溶け、遠くで虫の声が絶え間なく響いていた。
「温泉、こっちだよ」
美音が手に提灯代わりのライトをかざし、香織の横を歩く。
石畳を踏むたび、靴の底が乾いた音を立てた。
「…夜の山って、静かなんですね」
「そうね。昼間より、ずっと優しい顔してる」
美音の言葉に、香織はふっと息を漏らす。
少し緊張がほどけたのか、肩の力が抜けていくのがわかった。
坂の上にある小さな温泉宿の灯りが見えた。
脱衣所で制服を脱ぐと、香織は少し躊躇したが、美音が軽く笑って見せる。
「大丈夫、誰も見てないわ。お湯、ちょっと熱いけど気持ちいいから」
湯気の向こうで、香織の頬が赤く染まる。
「…すごい。温かい」
肩まで湯に沈めると、指先の震えが止まった。
(痣も、火傷も……ないわね)
美音は胸の奥で静かに安堵した。
虐待や暴力の痕は見えない。ただ、心が削られているだけ。
お湯の中で浮かぶ香織の表情は、どこか泣き出しそうに見えた。
「ねぇ、美音さん」
「なに?」
「こうして誰かとお風呂入るの、久しぶりかも」
「そうなの?」
「うん。お母さんと最後に入ったの、いつだったかな…」
香織の声が湯気の中に溶けて消えた。
美音は何も言わず、そっと笑みを返すだけにした。
風呂上がりのロビーには、自販機の前でくつろぐ客が一人だけ。
香織は小銭を握って迷いながら、ボタンを押した。
「コーヒー牛乳、好きなんだ」
「ふふ、わたしも」
二人で瓶を開ける。ごくりと飲み、香織が少し笑った。
その笑顔に、美音の胸がふっと温かくなる。
資料館へ戻る道すがら、夜風が頬を撫でた。
遠くでフクロウの声がして、街灯に舞う虫の影がゆらゆら揺れる。
香織がぽつりと呟いた。
「なんかね…ここ、落ち着く」
「そう。なら良かった」
資料館の裏手にある職員用の休憩室。
畳の上に、布団を二組敷く。
蛍光灯を落とし、柔らかいスタンドライトが灯る。
「そうだっ」美音は呟きながら奥の窓のブラインドを上げる。
目に飛び込む窓の向こうは、東の空。街の明かりと遠くの山々、瞬く星々。
「ここの眺め、結構好きなの」
美音は微笑むと香織を手招きながら「リラックス出来るお茶がいいかなぁ」と独り言ちていた。




