第二幕 第一章 その4
昼を少し過ぎた頃。
朱山の麓にある郷土資料館は、平日の午後らしく静まり返っていた。
風が窓を叩くたび、外の楓がゆっくりと揺れる。
ガラス扉の向こうで、ひとつの影が立ち止まった。
制服姿の少女――塚原香織だった。
昨日と同じピンクのカーディガン。袖口を指先まで引き下げ、少し俯いている。
迷っているようにも、誰かに見つかりたくないようにも見えた。
「…お姉さん、いますか」
控えめな声。
からん――と、昨日と同じ小さな鈴の音が返事をした。
「――あら、香織ちゃん」
奥の事務室から、美音が顔を出した。手に紙束を抱え、少し驚いたように目を丸くする。
「また来てくれたのね」
香織は気まずそうに視線を逸らした。
「…なんか、落ち着くから」
「ふふ、嬉しいな。わたし、またお茶いれてくるね」
美音は軽やかに部屋の奥へ消えた。
館内は相変わらず静かで、時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
香織は展示棚の前に立ち、並んだ古い写真を眺める。
誰もいない。
誰にも何も言われない。
ただ、それだけで少し救われる気がした。
「はい、どうぞ」
湯気の立つ湯飲みが差し出される。
香織は両手で受け取った。
「…ありがと」
「昨日と同じ甘いやつ。疲れてる顔してたから」
「…そっすか」
彼女は照れ隠しのように視線を逸らし、少しだけ笑った。
「学校、今日は?」
「…行ってない」
「そっか。無理しなくてもいいと思うよ」
「先生もうるさいし…家にも、居づらくて」
「うん」
美音は頷くだけで、何も言わない。
少しの沈黙が落ちる。
外では風の音。館の奥で、古い柱が軋む。
香織は小さくため息をついた。
「…ここ、誰もいないし、いいね」
「そうね。みんな忙しいのか、平日はほとんど来ないの」
「そーなんだ…」
彼女は湯飲みを見つめたまま、小さな声で続けた。
「…なんか、ここだけ時間止まってるみたい」
「それ、わたしも思うの。山の音と紙の匂いしかないから、落ち着くでしょ?」
「うん。なんか、安心する…」
その言葉に、美音の胸が少し締めつけられる。
彼女の目には、眠れていない子どものような疲れがあった。
無理に強がって笑うたび、何かがひび割れるように感じた。
「ねえ香織ちゃん、よかったら明日もおいでよ。わたし、いつもここにいるから」
「…いいの?」
「もちろん」
「…ありがと」
香織はそう言って、少しだけ口角を上げた。
笑おうとして、上手く笑えなかった。
でも、その不器用な笑顔を見て、美音は静かに微笑み返した。
窓の外で、赤い楓の葉がひとつ舞い落ちた。
香織はそれをぼんやりと見つめながら、
「…ここ、あたしの居場所かも」
と、小さく呟いた。
美音はその声を聞き取ってはいなかったけれど、
なぜか、胸の奥でほんの少しだけ、温かい何かが灯った気がした。




