第二幕 第一章 その3
夕方の風が冷たくなり始めていた。
坂道を駆け下る少女の髪が、色の層をつくって揺れる。根元は黒く、途中で茶が混ざり毛先は陽に焼けたような金色。
派手というより少し痛々しい。
ピンクの髪留めで前髪を留め、ピンクのカーディガンの袖を指先まで伸ばしている。
制服のネクタイは緩く、スカートは短い。
くしゅっと下がった靴下のあたりに、小さな擦り傷が見えた。
息が荒い。胸の奥がまだドクドクしている。
ついさっき――また教室が割れた。
何も触れていないのに、窓ガラスが音を立てて砕け、誰かが悲鳴を上げた。黒板には無数の切り傷。
怖くなって、逃げた。
どこをどう走ったのか覚えていない。ただ足が止まった時、目の前に山の影があった。
朱山。
秋の夕暮れを受けて、木々が赤く染まっている。
その麓に、大きな建物が見えた。ガラス張りの大きな扉の先に、カラフルなポスターが貼られているのが見える。
「…郷土資料館?」
読み取れないほど古びた看板に、そう書かれていた。看板の横に取り付けた小さなポップには、可愛らしい文字でーーお気軽にどうぞーーと書かれている。
人気のないその場所に、香織は引き寄せられるように足を向けた。
ガラス張りのドアの取っ手を引くと、からん、と小さな鈴の音がした気がした。
「…誰も、いないのかな」
息を整えながら呟く。
中は薄暗く、木の匂いがした。
埃が光を受けてきらめき、壁には古い地図や白黒の写真が並んでいる。
棚の上には、手彫りの面、ひび割れた土器、名前のわからない石。
香織は少し肩を落とし、ふらりと歩みを進めた。
「…静か」
その言葉が自然とこぼれる。
誰も自分を見ていない。
学校でも、家でも、何をしても見張られているような視線があった。
ここにはそれがない。
やっと、息ができる。
と、その時。
「いらっしゃいませ。ようこそ――朱山市郷土資料館へ」
奥の部屋から、やわらかい声がした。
香織はびくりと肩を震わせた。
現れたのは、ふんわりとした赤茶色の髪を左右に束ねた女性だった。スーツ姿で手には本を抱えている。
その表情には事務的な冷たさがなく、それどころか柔らかく暖かい温度を感じた。
「…すいません。ちょっとだけ、休ませてもらっていいですか」
「ええ、どうぞ。他にお客さんもいないし、ゆっくりしていってね」
女性はにこりと微笑んで奥に引っ込んだ。
香織は展示棚の前に立ち止まり、ぼんやりと古い木の彫刻を見つめる。
指先がかすかに震えている。
壊したいわけじゃない。ただ、もう何も触れたくなかった。
「お待たせ。良かったら、これどうぞ」
声に振り向くと、女性が湯気の立つ湯飲みを差し出していた。
「…お茶?」
「うん。甘くしてあるの。疲れてるときは、こういうのが一番だよ」
香織はためらいながら受け取る。
掌に熱がじんわり広がり、少し泣きそうになる。
口に含むと、ほんのりとした甘さが喉を通った。
「…美味しい」
「ふふ、良かった。あ、わたし風祭美音っていいます」
「…塚原香織」
「香織ちゃんね。よろしく」
その呼び方に、香織は少し目を伏せた。
ちゃんと名前を呼ばれたのが、いつぶりか思い出せない。
“香織ちゃん”――それだけで、胸の奥が温かくなった。
「今日はお休み…じゃないわよね?」
「…うん。学校、サボっちゃって」
「そっかぁ。うん、たまにはそういう日もあるよ」
美音はそれ以上、何も聞かなかった。
窓の外では、夕陽に照らされた楓が赤く光っている。
一枚の葉が風に乗って、窓の隙間からふわりと舞い込んだ。
香織の足元に落ちたその葉を、美音が拾い上げる。
「ほら、朱山の楓。きれいでしょ」
「…うん」
ほんの一瞬だけ、香織は笑った。
それを見て、美音は柔らかく微笑みを返した。
その笑顔を、香織はどこか夢の中のように見つめていた。
この時の美音はまだ知らない。
この出会いが、彼女の“咎”を巡る旅の始まりになることを。
そして、朱い楓が彼女の運命の色であることも。




